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【3.11】小学生だった私-2

小学1年生だった私はいつの間にか大学1年生になりました。
嫌いだった玉ねぎも今は美味しく食べられるようになりました。
時の流れを感じた今、忘れないうちに記憶を残しておきます。

前回の記事を読んでいない方は是非そちらから読んでください。


数日たって、祖父母の安否確認をしようと試みました。
当時はまだ両親はガラケーで、今ほど回線が発達していない中、祖父母に連絡を取ろうと試みました。
自宅に電話をかけると繋がらず、回線が混み合ってるのかは忘れてしまったが、ただ掛けるだけでは電話自体使えませんでした。
大きな避難所やスーパーなどに電話を掛ける用の大型の機械が置いてあり、行列を成していて、ここに並んでまで電話をかける時間はありませんでした。

結局、私たちは直接祖母の家まで行きました。

車で向かいましたが、これ以上は津波で浸水しているから通れないと言われ、
車では通れなくなった土手を家族3人で歩きました。
約3km、徒歩40分くらいかかる道を小学1年生でよく歩いたなと今は思います。
往復で6kmの道のりを、道の途中にある避難所にもよってどこかに祖母はいないか、3ヶ所ほど周りました。

広い場所も学校も隅から隅まで探しました。
幼稚園の先生や、知り合い、他にも沢山の優しい方々に会えました。
私たちのように誰かを探している方にも多く出会えました。

しかし、祖母は見つかりませんでした。

そうこうしているうちに祖母の家に着きました。
川のすぐそばにあるため、床は全浸水、水がここまで上がってきたと分かる跡が残っており、
この家には誰もいませんでした。
初めて家を土足で上がり、変な気持ちになったことを覚えています。
私はそのとき祖母がハマっていた写経の紙を見つけ、そこに
家族3人で来た
という趣旨の内容の書き残しをし、
いつか気づいてくれることを願い、
復路をまた歩き、帰りました。

その数日後、
ピンポーン
という音が家に響きました。
日が落ちてきた頃です。

そこに来たのは叔父でした。
叔父も壮絶な体験をし、どうにか生きて、
遠かった私の家族の家にまで来てくれました。
叔父も一歩間違えたらこの世から去ることになってしまうくらい。

その日の夜だったか次の日とかだったかは覚えていないが、また自宅のインターホンが鳴り、
父方の祖父母が尋ねて来たんだっけ。
この辺はよく覚えてないので書けないんですど、
話を思い出すに、その2人は、自宅の目の前が海にあって、津波にもしかしたら飲み込まれたのではないかと疑っていた。
でも、少し高いところに家があったため、津波は家まで来ず、なんとか助かったそう。
水が引いて、動けるようになったから来てくれたはず。

そしてその3日後くらいに、
ついに探していた祖母が家を訪ねてきました。
その時は探しに行ったということもあり、安堵したのを覚えています。

そこから少し、叔父も祖母も一緒に家で過ごしたはずです。

私の実家は高台にあったので、路駐して避難してきた車がとても多く、沢山の人が逃げてきていました。

なのでこうやって身内に会えましたが、運が良かったんだと思っています。

これ以上は長くなるので、また来年にでも公開します。

2023年3月11日
ご冥福をお祈りします。

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