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【未来の仏教対談 後編】「仏教は仏法だ!キャンペーンをやればいい」石上智康さん×松本紹圭

「未来の仏教対談」は、今という時代をどうとらえ、これからの仏教をどう創造していくのかという若き僧侶たちの問いを巡って行われる、日本仏教界のリーダーたちと松本紹圭による対談シリーズ。第一回目は、『生きて死ぬ力』(中央公論新社)の著者、石上智康さん(君津光明寺住職、浄土真宗本願寺派総長)にご登場願いました。
世界的な宗教離れを読み解くことを試みた前編に続いて、後編では「仏教」と「仏法」を軸にさらに議論が深められました。
(構成:杉本恭子

◉ もう一度「仏教は仏法だ」と宣言するべきだ

石上 
既成の宗教組織に属していることが、マイナスに働く場面があるのは残念なことです。それはわかっているんだけど、多くの人は、生活に追われているし忙しい。すべてを吟味して判断することも難しい。それに、誰もがそんなに感度がいいとは限らないです。親鸞聖人も書いておられるように、この上ないさとりの境地はかたちや言葉を超えている世界だから。そういう世界を、一般の人に理解してもらうのはとても難しいことだと思います。

言葉にならない世界をどうやって地上のものにするのか、より多くの人に届けるかという問題になると、個人の孤独な「霊的な」旅だけではすまない。文字化したり、具象化しないとだめなのでしょう。 「南無阿弥陀仏」というみ名や、仏像、本堂の荘厳というようなかたちで、さとりの境地をこの世俗に届けるいとなみというか、巧みな手だてが必然的に出てきたわけです。そうでないと、「言葉もたえた」仏さまのさとりの境地は一般の多くの人には届かないでしょう。

伝統的な教説でいえば、「この一如(かたちを超えた絶対究極のあるがままのそのまま、ただ真実があるだけのさとりそのものの境地)よりかたちをあらはして方便法身と申す御すがたをしめして」ということになるのでしょう。苦しみ悩む世俗の人々をよびさまし、絶対的な真実の世界を知らしめ、かえらしめるよう、救済するためには、かたちや言葉は欠かせないだろうということです。仏像に合掌礼拝する母親の敬虔な姿や言葉にうながされて、はじめて子供もお参りする習慣が身につきます。宗教的情操もはぐくまれていくのです。ところが、阿弥陀仏による救済の物語が、今は、かえって現代人の仏法理解を難しくしているという難問に直面しています。

方便は、「ウソも方便」の「方便」ではありません。真実に基づき、あるがままのそのままのありようを、本来の裸のまま観じることができない対象的・固定的な私たちの認識作用の限界を忘れることなく、両者の間を結びつなぐことに巧みでなければ、そのはたらきはなし得ない。これは、永遠の難問かもしれません。

松本 
かつては、お坊さんは知識階級で、いわゆる方便をもって一般大衆を教化するということが、一応は成り立っていたんですけれども、今や「一般大衆」という括り方ができなくなっています。日々の生活に追われている人もいる一方で、「霊的な」旅を求めるだけの経済と教育レベルに達している人もすごく増えています。

石上 
経済性だけでなく、精神性においてもこれから格差社会になってくるでしょうね。

松本 
「霊的な」旅を求める人たちにとっては、「仏教」にとって「宗教」というカテゴリーに置かれていることはマイナスだと思います。だから、日本仏教界は「仏教は『宗教』をやめますキャンペーン」を展開してはどうかと考えたりします。

石上
基本的には賛成だけど、コピーとしては回りくどい。「仏教は仏法だキャンペーン」にしたらどう? ズバリ、Not Buddhism, But Buddha Dharma. 仏教は主義主張などではない、ブッダによってさとられたこの世の真実——ブッダ・ダルマ、仏法であるという切り口はどうでしょうか。本質をついていると思います。

ただ、仮に既成教団が「仏教は仏法だキャンペーン」を行ったところで、どれほどアピール力があるのかということについて、私は自責の念を感じているんです。それぞれの宗派の独自性を保ちながら「仏教は仏法だキャンペーン」のもと、団結して何か創造的な行動ができるといいのですが・・・。(財)全日本仏教会はあっても、税金や年金の問題など主として世俗的なテーマでは一緒にやれても、仏道としては、実質、バラバラという現実がある。日本ではどうしても宗派が主流ですから。ここが、あなたから批判されるところでしょうね。

松本 
いえ、批判はしていませんよ。僕のことを「矛盾だらけの仏教界を解決したいと意気込む改革派」と見る人もいるようですが、全然そういうことはなくて。改革と言ったって、他人のことではなく、自分のことを改革することしかできませんから。ただ、せっかく縁あって関わっている人やものごとに関しては、多少はましな関わり方をして、少しでも良き縁となれたらいいなとは思いますが。

石上 
いやいや、批判していただいてけっこうなんですよ、建設的なものなら。教団がキャンペーンを行うよりも、在野の方に「仏教は仏法だキャンペーン」をしていただいて、私どもが「仰せのとおり!」と賛同するほうが効果的かもしれません。ハラリ氏は「制度化された仏教の凝り固まった考えや硬直した戒律」と言っていますが、なかなか教団内から自由で創造的な取り組みが生まれにくい現実があります。どうしても縛られる。このままでは既存の宗教組織や団体、権威は世界的に信頼を失っていくかもしれない。

◉ ひとり一人の生活者に仏法は届いているか?

松本
ここまでお話したことを踏まえると、今は仏法にとってはチャンスだと思うんです。まさに世界中が、「霊的な」旅のガイドであり、道筋として示唆に富むものとして、「Buddha Dharma」を捉えている。こうした時代背景のなかで、日本仏教を見た時に危機感を感じられることはありますか?

石上 
本願寺教団の場合は、現場に言葉が届いていないことが危機的だと思います。私たちは坐禅修行を勧める宗派ではないので、特にこの点は重大でしょう。

松本 
現場というと、お寺のことですか?

石上 
寺もそうですが「一般の人々」にです。 たとえば、真宗教団連合の実態把握調査の「結果報告書」によれば、浄土真宗における教化上もっとも大事な言葉である「本願」や「他力」の内容認知度を見ますと、全体の認知は、わずか16.1%と20.5%に過ぎません。「悪人正機」は7.6%、「摂取不捨」に至っては3.7%の人しか内容は理解できていないということです。言葉が理解されなければ教義は伝わらない。つまり、現在の日本において浄土真宗の教えは、現場に届きにくくなっているのが現状です。

言葉は人、つまり僧侶によって伝えられます。ところが、僧侶に対する評価も低い。儀礼についても、参拝者にとって満足度の高い儀礼が提供できていない。エンディング産業展におけるアンケートの中間データではっきり出ています。

言葉が理解されておらず、それを届ける人材の育成も不充分、儀礼の簡略化も進んでいる。日本仏教界全体は仏道と教化の本来化に向けて、本気でそれぞれが努力しなければならない現状にあると思います。

松本 
それはどういうことですか? 「霊的な」旅を求める人にも対応していくという意味ですか、それとも?

石上
それと同時に、真実はより多くの人に伝わり幸せになってもらわなければならない。一般の人たちに、巧みな手だてで、「言葉もたえた」仏さまのさとりの真実をどう伝えるか、という問題ですね。難しい言葉を使わないで、現代において Buddha dharmaをいかに言語化するか?

大阪大学名誉教授で毎日俳壇選者だった大峯あきら氏は「真実を今の言葉で」と題して次のように述べておられます。

聖教の言葉をそのまま繰り返すだけでなく、現代の人々の実感となる言葉の中に生き返らせることが大切。概念的に説明するのではなく、信心をして信心を語らしめるような言葉にする努力がないと、浄土真宗の教えは現代社会を生きる人々の本当のエネルギーにならない。教えを現代語に言いなおしてみる努力が必要なのです。(中略)助からない煩悩の衆生を助ける弥陀の本願という永遠の真理がいつも、その時代その時代の言葉によって新しく語りなおされてきたのです
大峯顕 「真実を今の言葉で」(『宇宙の中の自己の救い』百華苑刊、73~75頁)

昨年、遺書のつもりで書いた『生きて死ぬ力』は、とても僭越ないい方で恐縮ですが、大峯先生がいわれる「真実を今の言葉で」という命題に対する私なりの一つの挑戦です。

松本 
私は頭ではなく身体で仏法が伝わるのが大事だと思っていて。それには掃除がよいと、最近、強く感じています。周梨槃特が掃除によってさとりを開いたように、掃除はとても優れた生活仏教のあり方です。今、私は東京にいるときは、光明寺で朝のお掃除の会「Temple morning」を開いているんですよ。

石上 
なるほど……。 考えてみれば、本来、生活のすべてが仏道そのものなのでしょう。生きていくことも、死んでいくことも。わたし流にちょっと気取っていえば、こんな風になるかもしれません。『生きて死ぬ力』の一部を紹介させてください。

災難にあう時には 災難に あう
死ななければ ならない時には 死ぬ
これ以上 余計な分別を 加えない 入る余地が ない
いいも 悪いも ない
ただ 縁起している 空なる境地がある だけ
ただ 真実が あるだけ
それは ここ
それは いま
世界を 住みよくするための 目標や
生きがいを もち
在るがままの真実に 育てられ
精いっぱい 生きて
死んで いく
愚痴無智の この まんま
「それで いい」 ありがたい
——『生きて死ぬ力』(中央公論新社)より

「それでいい」という言葉は、仏さまから聞かせていただく、つまり真実からの救いの言葉です。凡愚の者にとっての救いのよび声です。これこそが仏法の究極ではないでしょうか。ただこれだけの引用文では、ご理解をいただくのに十全ではない。特に縁起・空のところが・・・。拙著の最終章「それでいい ありがたい」の165行を読んでいただくと幸いです。

私の力不足を補うため、中村元博士の「救う主体も空、救われるものも空、救われて到達する境地も空」という教示を援用させていただきました。空とは、縁起しているということ。コト・モノ全て、縁起しています。救い取られて捨てられず、です。

◉ もし必要なら、新しいスタイルの「寺」を作ればいい

松本 
個人の「霊的な」旅、いわゆる純粋な求道というものも、結局は人がやることですからいつかは制度化し組織化していく。自らを自由にするために始まったはずなのに、まさに「religion」という言葉の語源の通りに、「硬く結び、縛る」ものへと変質してしまうと、また宗教改革が起きて……と、歴史は繰り返してきたわけですよね。

ところが、AIなど最新のテクノロジーも含めて、今までの繰り返しの範囲では済まないような変化が始まっているのではないかと感じています。

石上 
ハラリ氏は、人類は「ホモ・サピエンス(賢いヒト)からホモ・デウス(神のヒト)へと、自らをアップグレードしようとしている」と書いていましたね。私は、将来的な見通しについてはわかりませんが、想像を絶する格差が出る可能性は感じます。これからは、従来のような反復ではなくなってくるかもしれません。

松本 
はい。そう思いますね。そんななかで、個人の「霊的な」旅を求める人たちは、ロンドン仏教センターのような、お寺以外の場所にBuddha Dharmaのコミュニティを求めるかもしれません。

石上 
New Type of Buddhist Templeね!人間が自らをアップグレードしたところで、やはり完全に一人では生きていけません。みんなつながっているわけですよ。生きて行く上で、たとえばお金を稼ぐにも、必ず何らかの社会とのつながりが必要です。個人の求道の旅においても。

松本 
以前から、総長は「New Type of Buddhist Templeが必要だから、既存のお寺の発想に囚われないでいい」と言ってくださいますよね。 今日は個人のお立場ですが、 もう少し詳しく、New Type of Buddhist Templeが押さえるべきポイントを教えてください。

石上 
まず、 幸せに生きたいと願う個人を対象にする。メンバーを世俗的なものでしばらないこと。世界に開かれている。仏法の原点を教える、学べる、実践できる場所です。必要な経費だけを集めて、非営利で運営して会計を公にする。個人的にも、社会とのつながりにおいても仏道に徹した生活をめざす。仏道のリーダーは必要だけど、世俗的な権威になってはいけない。リーダーは、どこかの宗派の人でもいいし、独学で仏法を学んだ人でもいい。いかなる権力からも干渉されない聖域であることは勿論です。

松本 
New Type of Buddhist Monkも必要ですね。

石上 
そうですね。その方がホンモノであって、社会的に共感を得られるなら既成教団をも凌駕することになるかもしれない。建設的な競争はそれでいいんです。発想は自由で大きく。要はその方の言動が具体的かつ適切で、どこまで真実に基づいているか否かでしょう。結果として、より多くの地球上の人々が幸せになれることが一番の眼目。やっぱりね、みんな生きていく以上は、まず仏さまから安心をいただく。そしてSDGsではありませんが、仲良く助け合って平和的に共存し、飢えることなく生活できる。当面このような目標は、とても大切なことです。ハラリ氏は「前例のない水準の繁栄と健康と平和を確保した人類は、今度は老化と死そのものさえ克服することに狙いを定めるだろう」と言っていますが ……。

◉ 真に力のある言葉は個人の覚悟から生まれてくる

石上 
東大教授だった玉城康四郎氏は、「仏教思想社会化の現代的試論」でこう言っています。

仏教は、普遍宗教として、人間存在の根源的な課題に決定的な解決の指標を与えてきた。しかし、各時代の担う社会的な課題については適切な回答を用意してきたとは必ずしも言えない。
( 『仏教の社会的機能に関する基礎的研究』創文社刊、5頁 )

と。親鸞聖人は、絶対他力による、真実信心ひとつによる無条件の救済という完璧な道を残してくださいましたが、念仏をいただいた人の対社会との関わりや生き方については、聖人以後の教学的な探求、強靭な論理構成はいまだ充分とは言えません。「仏恩報謝のお念仏」という言葉で一括りにしているだけでいいのでしょうか。

梯實圓氏は浄土真宗本願寺派の伝統教学の先生ですが、

お念仏申す人は、個人的には深く自身の煩悩を内省する眼は開かれていったと思いますが、どうも社会的な関心が薄すぎるように思う。私ども念仏者の、この社会に、この地球に責任をもって立つような主体にならねばなりますまい。

梯實圓 『真俗二諦』(教学シリーズNO.2、本願寺出版社、54~55頁)
と明言されています。

松本 
対社会との関わりについて鍛えていくには、仏教界のなかの宗派単位の村社会から出る必要があるのではないでしょうか。自分の村の言葉が通じないところでコミュニケーションすることが、成長につながるんじゃないかと思うんですね。最近は、私たちの「未来の住職塾」の取り組みもしかりですが、若手僧侶が宗派や地域を超えてさまざまなチャレンジを始めているように見受けられます。このあたり、どう見ていらっしゃいますか?

石上 
非常に尊いことだと思いますね。クリエイティブです。宗派仏教は、日本仏教の強みであると同時に弱点でもある。そういう意味で、若い人たちが仏法の原点に基づいて言動を行い、社会からの求めに適切に応答していく努力は大事です。一番弱い部分でもあると思いますね。

松本 
よく、いろんな業界の人たちに「仏教界のように封建的な組織では、上の人の権限も強いだろうに、いろんなチャレンジをして怒られませんか?」と心配されます(笑)。ぜひ、そのイメージを払拭していただきたいです。

石上 
良くも悪くも教団内民主主義による運営という原則が一つありますから、一気に破壊と創造という訳にはいきません(笑)。しかも日本仏教は寺檀制度がまだ生きていて、寺院子弟は多くのやさしい門徒さんに支えられています。どうしても甘くなる。若い方には危機感を持ち、教団内の立場など問題にせず、仏道に基づいて建設的に自らの道をどんどん切り拓いていただきたいですね。

僕が若い人たちに言いたいのは、「仏法の原点を忘れない」ということ。そして既成の常識や時流に安易に迎合しないことも大事です。時代の課題や弱点を洗い出していって、仏法からどういう応答ができるのかを、学問的・実践的に探究して発信し行動することができれば素晴らしい。

たとえば言葉についても、皆がそれぞれの場でチャレンジして、そこから自ずから出て来る言葉のうち、歴史の風雪に耐えられるものが残っていくのでしょう。教団では、必ず委員会審議になるんですが、本当に力のある宗教的な言葉は会議からは生まれないと思います。親鸞聖人や蓮如上人の言葉は、ハラリ氏が言う個人の「霊的な」旅から生み出されたと言えるのではないでしょうか。

松本 
本当にそうですね。

石上 
ただし、対社会との関わりについては、大学や教団で研究する方が、 生産的な面もあると思います。全人類的な課題を議論する研究やディスカッショングループは有効でしょうね。「霊的な」旅は深く個人の内面や直感に関わりますが、「人類はどうすれば仲良く生きていけるのか」というようなテーマは多面性を持っていて、学際的なアプローチの方が創造的かも知れません。そういう研究の中で、仏法からはどういう応答が可能か、あるのだろうかという問題意識ですね。これまでのところ、仏教界から社会・政治分野の面では原則論的な話はあっても、これといった骨太なメッセージは出ていないでしょう。 何かありますか……。

もちろん、個人による卓越した特別な研究によって既存の地平が突破される可能性はあります。何れにしても、意欲的な方々の取り組みに期待します。

松本 
仏教界を見ていると「失敗してはいけない」「前例にないことをしてはいけない」というばかりで、たくさんの可能性を自らつぶしているように感じています。今年から3年間限定で、「未来の仏教ラボ」という実験の場をつくります。お坊さんだけではなくて、いろんな企業やNPO、場合によっては行政とも協力していろんな事業を立ち上げる予定です。総長から激励の言葉をいただけませんか?

石上 
未来の仏教ラボ」について、もう少し説明してください。

松本 
未来の仏教ラボは、これまで7年間やってきた未来の住職塾の卒業生600名を含む、行動力とアイディアのある全国のお寺が集う仮想的な実験場です。どこか専用の施設があるわけではありませんが、全国に散らばる数百のお寺ネットワークが実験拠点として活用できますし、場所も人もアイディアも仕組みも豊富にあります。最近はインターネットでのクラウドファンディングなど、お金を集める方法の選択肢もずいぶん広がりました。また、お寺と共同で事業を作りたいというNPOや企業からの相談も増えてきています。

なぜ、この「未来の仏教ラボ」を始めたかといえば、「仏教界に足りないのは、”実験”である」と私が常々感じてきたからです。必要な資源もチャンスも世間からの期待も十分にあるのに、やらない。動き出さない。リスクをとらない。周りの顔色ばかり見て、誰もリーダーシップを発揮しない。それはとてももったいないことだし、申し訳ないことだと思います。

危機の時代、「今こそ宗祖に学ぼう」というなら、学ぶべきは宗祖が何をしたかではなく、宗祖が今この世に生まれたら何を考えどう行動するか、自分事として捉えてみたいですね。宗派を問わず、宗祖と呼ばれる方に共通するのは、イノベーターであることです。「今まで通りでいいじゃないか」という人は、いかなる宗派の宗祖にもいらっしゃらないでしょう。どんな宗祖も、命がけで何か新しいイノベーションを起こしてきた方です。

仏教界は、確かに歴史と伝統がある分だけ、新たな挑戦がしにくい世界であることは確かです。何かやろうとしたときに、波紋が広がったり、ノイズが発生するのは避けられません。でもそれは逆にいえば、そんな中からあえて挑戦しようという人ほど、得られるものがとても大きいという世界でもあります。一人で進むのは心細いものですが、ここには仲間がいる。チームがある。それが「未来の仏教ラボ」です。これからいろんなプロジェクトが立ち上がって行くと思いますので、ぜひ期待してください。

石上 
一般論として課題にチャレンジしていただくのは、とてもいいことだと思います。宗派や地域の枠を超えて、企業やNPOとも連携する。外部の人と接触することでお互いに啓発しあえる。志をもって具体的な仕事を一緒にするのはとても大事なことです。枠を超えていくことで、素晴らしい仏道が生まれる可能性もありますね。先を越されそうで心配ですが、お互いに頑張りましょう。

松本 
がんばります!今日はお忙しいなか、長時間にわたりお話しいただきありがとうございました。

以上、石上智康さんと松本紹圭の対談はいかがでしたでしょうか。石上さんは、本の著者でありお寺のご住職、さらには浄土真宗本願寺派総長という重責を担うご多忙の中、自ら仏道を歩む一人の僧侶として今回の対談にご登場いただけましたこと、心より御礼を申し上げます。若い僧侶たちの活動について、とても真摯に耳を傾けてくださったのが印象的でした。ありがとうございました。

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