初めまして、ファティマと言います。 父がパキスタン人🇵🇰、母が日本人の家庭で生まれました。 私は東京生まれ東京育ちで、東京近郊と、父が自営業をやっている富山県以外にはほぼ縁のない感じで過ごしてきました。 とはいえ幼少期にパキスタンに住んでたことがあります。途中で日本に一時帰国したので、滞在期間は正味2年ぐらい。2001年の9.11の後に、戻ってきました。 それ以降、ずっと東京民です。 父はムスリムで、母も結婚を機に改宗しました。が、色々あって現在、母は食事規定以外は実践し
数年前、私はその時、ドイツのフランクフルト国際空港で長蛇の列に並んでいた。 やんごとなき理由で、私は予定していたエティハド航空のフライトに乗れず、代わりに取ったエア・インディアに乗るために、チェックインカウンターでその列に並んでいた。 受付カウンターの業務量の緩和のためか、キッチリした身なりの、ややイカつめな男が皆のパスポートをチェックして何やらシールを貼って、その上に何かを書き込んで回っていた。 私の番になった。 異国で、違う言葉を聞くときはいつだって緊張した。なぜ
人生初のお見合い? 退職した小学校で一緒に働いていた人がある日、私にこう言ってきた。 「僕の後輩でこういう人がいて。とても優しい、いい人なんですよ。あなたにどうかなと思って」 そのしばらく後、 「そうだ、写真を見せていなかったね、こういう人なんですよ。まああんまりハンサムではないかもしれませんが…」とか言って見せてくれた写真。 聞けば、安定した職業についていて、なかなかの好青年だとのこと。 正直に言うと、全くもって顔が好みじゃない上に、戦闘機っぽいものの前で写真撮って
海外に(も)ルーツのある友人たちの間で、たびたび出るフレーズがある。 「自分たちが幼少期や思春期に経験したような思いをする子どもが、私たちの世代で最後になることを願っている」 私たちは、社会、つまり学校などで色々と経験させられたわけではあるが、家庭内でも同じだ。 父親、もしくは母親との関係である。 特に、ミックスルーツにとっては、父親も母親もミックスではないがゆえに、どちらからも社会的マイノリティとしての立場を理解してもらえないことが往々にしてある。 私の母親なんか
店頭でノートを見つけてパラパラとめくるとワクワクするものだ。 「ここに私の世界を描くことが可能なのだ」と思うと、不思議と高揚感が湧き上がってくる。 「描く」と言っても私は基本的に絵は描かないし、描けない。 だが白い紙を、手書きの文字で埋め尽くすと、私の世界が浮かび上がってくる。 「これが私の描いた世界だ」と感じる。 私が持っているもの、自分が見えているものを表現する唯一の手段が文字、つまり漢字・ひらがな・カタカナが入り混じった、一見すると非合理的な文字体系を持つ日本語
夏になると多くの人々は海や川、プールなどに繰り出す。 水泳が好きでプールで泳ぐのが習慣になっている人もいる。 私は海も川も大好きだが、泳げない。 なおプールは以前から敬遠してはいたが、コロナ禍から衛生面でも避けるようになった。 私が泳げない理由。 それはアトピーがひどくて、小学校の時のプールの授業を8割ぐらい見学していたからだ。 プールの水は塩素が入っているのでとても患部にしみて、拷問のような痛みを感じた。アトピーの調子が通常に比べて幾分いい時ですら、痛かった。
私は小学生の頃、学校では先生以外の人とは一切話さなかった。 学校の帰り道「どうして学校ではひとことも喋らないの?」と妹にしつこく聞かれて自分でも理由が分からなくて泣きながら帰ったこと、 転校生に「〇〇さん(私)の声、聞いた事がない」と言われたこと、 家では普通に話してたこと、 周りにクラスメートがいない場所であれば学校でも大人の先生とは話してたこと、色々と思い出す。 一旦声を出さない状況が続くと、それでいきなり喋り出したら何かキモいとか言われそうで、声を出すのが怖かった。
空港にはいい思い出も、楽しくワクワクするような思い出もあり、一方では悲しい記憶も、不安な気持ちを抱いて空を飛んだ記憶もあって、私にとっては家族や大事な人との思い出や記憶が詰まった大切な場所だ。 私にとって空港は、いや成田空港は、いわば人生の縮図と言っていい。 私は成田空港が大好きで、一度だけ国際線で利用した羽田でも、国際線ゲートに行くと、「これから自分は、まだ知らない世界へ旅立つ」という感覚になる。 空港の出発ゲートでは、日本を含め様々な国から来た数多の旅行者やビジネス
4月1日は、日本では新年度が始まる日であり、多くの人が気持ちを新しくして、未来に思いを馳せる日である。 一方で私は、その日、既にこの世にいないふたりの家族に思いを馳せる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 第二次世界大戦のさなか、シンガポールで、ふたりの日本人の男が人生の分かれ道に立っていた。 時は1945年、片方の男には優秀な息子がいた。 日本に残してきた妻から「息子が海軍兵学校に入学することになった」との知らせが届き、男は驚いた。 息子はすっ
世間の人々は、ネタバレを忌み嫌う傾向にあるようだ。 確かに、これから観るにあたって「あー、あれはこういう話でラストはこんな感じだったよ」と詳細に言われたら、萎えるかもしれない。 「私これから観るんですけど…」と多くの人が思うだろう。 だが私は、時と場合によるが、基本的にネタバレは歓迎だ。 なぜなら、心の準備ができるから。 「心の準備ができる」ということは要するに、「精神的な衝撃から心を守ること」である。 小栗旬主演の「二つの祖国」(原作・山崎豊子)というドラマを観て
ウルドゥー語を学ぼうと思った直接のきっかけは、友人が東京外国語大学のオープンアカデミーを紹介してくれたことだった。 外部向けにオンラインで様々な言語の講座が開かれていて、ウルドゥー語を勉強したいがどうやって勉強しようかと悩んでいたときだったのでまさに渡りに船だった。 ところで日本ではウルドゥー語はすっかりマイナー言語扱いだ。 まあ日本では、アラビア語やロシア語ですらもマイナー言語扱いされるらしいので、然もありなん、といったところか。 実際ここでは、ウルドゥー語を学ぼうと
昔から「尊敬する人は?」という質問が苦手だった。 今でこそ知識量も増えて特定の人の名前を答えられるが(まだその答えを披露する場面に出くわしていない)昔は、特に小学校の頃は頭を抱えるくらい悩んだものだった。 この質問は、なぜか小学校時代では「将来の夢は?」という質問の次ぐらいによく聞かれる質問だった。 よく「両親」と答える人がいたが、私の脳裏に「両親」が思い浮かんだことはなかった。 両親のことを考えると苦しくなってとても答えられなかった。 あまりにも困って「ねえ、なんて
今年は新しいことをたくさん始めた。 日本語を教え始めた。ウルドゥー語を学び始めた。Twitterを始めた。 小学校で学童の仕事も始めた。 そして新しい出会いがいっぱいあって、友だちも増えた。 2022年から始めた5年日記も、2年分、1日も欠かさず書くことができた。あと3年、頑張ろう。 だから来年はいい年になるとは思ってはいない。今年も今年でいっぱい辛いことがたくさんあった。 大学院も退学しようと思ったが、結局、色々悩んだ結果、戻りたいと思った時に戻れるように1年間の
7月3日、月曜日。 久しぶりに見た祖父は、ここ最近私が見ていた祖父の中のどれよりも、目がはっきり開いていた。 少し話しかけてみると、わずかに首をこちらの方に向けてくれた。 だがすぐに窓の方へ向いた。 彼の目は、ただ川崎の空を見上げていた。 その目は、いつになくはっきりと開いていた。 生きている祖父を私が見たのは、それで最後になってしまった。 それから約1ヶ月後、同じ川崎市内の新しい病院に移って1週間も経たない朝、容体急変の連絡が母にもたらされた。 母や医療関係者に
将来についてより良い選択をするためのヒントは、目を凝らせばあちこちに落ちている。 今まで生きてきた人生の中にも当然、それはある。 大学院中退を決意することは重大な選択で、その理由や背景には様々な事情がある。 そして私はこれから、その選択をしようとしている。 小さなきっかけはいっぱいあったけど 私の出身大学の学生に、院進する人はそれなりに多い。 院試に合格するのが大変な専攻もあれば、人並みに頑張れば普通にできる専攻もある(※あくまで私の主観に基づく) 私は凡人なので、
薬をもらうためにとあるクリニック行ったら、採血をされた。 看護師が白斑が残ってる私の腕を見て 「アトピーだったんですね、今まで大変でしたね」と、やさしく言った。 このシミや白い痕だらけの私の腕を見てそう言ってくれた人は、いまの今まで、一人もいなかった。 採血なんて人生の中で何回も経験してきたが、医療関係者でも、そんな人はいなかった。 だからこの看護師が、初めて。 別にいなかったからどう、という話ではないのだが、妙に心が浮ついたような、そんな気持ちになった。なぜなんだろ