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ファッション・イン・ジャパン展を見てきた②

東京の乃木坂にある国立新美術館のファッション展に行ってきました。1945-2020の日本のファッションの遍歴を追う展示会。その感想②です。

物資が少ない1950年代は、洋服は売っていなかった。手持ちの着物生地から作るしかなかった時代。1960年代以降は、服は買う時代になった。

それが良いことなのか、悪いことなのか。そのメリットもデメリットも見えてきたので、それを記します。

服装を変える、とは生活様式や働き方、思想も変わるのだ、と強く感じました。

時代を超えていくもの、そうではないもの

1950年代のファッションが展示されている部屋で、ひときわ私の目を引くデザイン画があった。Christian Dior がデザインしたシンプルな黒のドレスだった。

70年前の服なんて、基本的には時代遅れであろう。けれど、この Dior のドレスは違った。2021年の今、このドレスが手に入るなら買いたい、と思わせるほどの美しさだった。

ところがどうであろう?今の私が着ている服は、70年後の誰かを「うわー、素敵だな」と感動させられるであろうか。きっと、それは至極難しい。

真に美しいものとは、一世を風靡するだけではなく、何世にも渡って受け継がれていくのだな、と強く実感しました。

クラシック音楽が、何百年と好まれているのと同じ。新曲は星の数ほど作曲されている。何百年と生き続ける音楽は、そうはない。ファッションも同じなのかもしれない。

自分で創造するのか、与えられた物を使うのか

手持ちの着物生地から、服を作るしかなかった1950年代と異なり、1960年代以降は服は買うものに変わっていった。

感想①で前述のとおり、裁縫が苦手な私みたいな人でも気軽にファッションを楽しめるようになった。もちろん、これは良かった面。

オーディオガイドで、デザイナーたちの声を聞くと、洋服を買えるようになった事にもデメリットはあったと感じる。

自分で創作しない。誰かが作ったものを着る。与えられたものを着る。

デザイナー側、洋服を作る側、そしてメディアの意図に、民衆が乗せられるようになってしまったのだ。

服装を通じて労働時間をコントロールされた?

服装を変えることで、生活様式、そして人生そのものが変わっていく。それに気づかずに、デザイナーも民衆もコントロールされていたのではないか、と私は感じた。

それを強く感じたのは、1970年代のデートの話。

当時、夜のデートというと、夜用の服装で出かけたそうです。つまり、一旦家に帰り、着替えてからまた街に繰り出す。それが、今はそんな事をする人は皆無じゃないだろうか。

昼用の服、夜用の服なんて分けない。一日を通して同じ服を着る。

ギリギリの時間まで仕事をして、そのままデートに行くなんて事が増えた。人間を長時間働かせるためなら、「夜用の服なんていらないよね」とするのが好都合であったのだろうか。

オシャレな人でも、無頓着な人でも、服は毎日着る。この服装スタイルがすでに、国家か社会かに洗脳されてできあがった価値観なのだろうか。

いちいち、家に帰って着替えていては、忙しいし疲れる。同じ服で一日過ごせる方が確かに効率的で楽だ。

当時は、昼用の服でデートしていたら「手抜き野郎」と思われただろうか。
現代は、いちいち服を着替えていては「気合い入りすぎ」なのだろうか。

同じ行動を取っても、時代と共に受け取られ方は変化する。普遍的なものなんてない。

既製服を着る上で大事な哲学

私は裁縫が破滅的に苦手なので、自分で服を縫うことはないでしょう。だから、買うしかない。

そこで大事なことは、自分がどのような選択をするのかを考えること。
そして、既製服を買うのであれば、そこにどんな意図が織り込まれているのかを考えることだと思う。デザイナーの意図、社会の意図、そして何を意図して自分自身がそれを身に纏うのか。


このファッション展を見に行って、こんな小難しいことを考えていたのは私だけなのか、他にも同志はいたのか。


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