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配慮のつもりがアウティングまがいに?

セクシュアルマイノリティに配慮していると思って生活していたつもりが、逆に人を傷つけていたかもしれないという話。

ポジティブなニュースも、そうでない知らせも含め、性別の多様性を扱う話題が日常的に目に入るようになった。

そんな中で、絶対に知っておきたい言葉のうちのひとつが「アウティング」である。アウティングとは性的指向、性自認について本人の了解を得ずに第三者に暴露する行為のこと。

この言葉を初めて聴いたという方には
Palettalkのこちらのポストがわかりやすいのでぜひ。

こちらのポストでも触れられているように、
善意のつもりで第三者に当事者のセクシュアリティを話してしまうこともアウティングに含まれる。悪意の有無に関わらず、アウティングはしてはならない行為なのだ。

というアウティングについての前提を踏まえ、私が最近危険だと感じたことを綴ります。


私がセクシュアリティの多様性について勉強を始めたのは大学一年生の頃から。男と女の二元論、異性愛で縛られていると思っていた世界が、本当はもっといろんな色で溢れていたことを知った。そこからはさまざまなセクシュアリティ、日本の課題、プライドパレード、もちろんアウティングについても学んだ。

ちなみに筆者は性自認は女性です。絶対に女性!と言い切れる感じ。
性的指向についてはぶっちゃけよくわかりませんが、異性愛が圧倒的に多い。

という自身の曖昧さ(男性しか好きにならない人として生活に紛れている)もあるため、なんとなく、マイノリティと呼ばれるひとに「寄り添えているんだ」「自分は配慮できている側の人間」と思って生活をしていました。

特に恋愛に関する話題になったときに「ここにいるものはみな異性愛者である」という前提をつくらないように言葉づかいに気を遣っていた。

恋人の有無の聞き方は、

×彼氏いる? 
ではなく
○付き合っているひとはいる? 

と尋ねるようにしている。

また、そもそも恋愛に皆が興味あるわけではないため、他者のプライベートを消費するような恋愛話の仕方をするのを避けていた。(このような話は親しい間柄で少ない人数でするのが、本当はベストな気がする。)

そんな、「恋バナ非ハラスメント化計画」を一人で実行していた。
しかし自身の言動を振り返ってみると、ひとつ引っかかる発言をしてしまっていたように思う。
これは複数人の女子と最近の恋愛について話を開いている時に私が放ったひとこと。

「好きなひとって男子?」

という質問である。
この質問をしていた私の意図と、問題点を順に上げていく。

【私の意図】
・異性愛以外の話も受け入れているという意思表示
・単純に相手のことを知りたい
・その場にいる第三者に異性愛以外の可能性について考えてほしい

【問題点】
・これを聞かれたら(本当は異性以外を好きだった場合)カミングアウトを強要することになるうえ、あえてこれを聞くことで嘘を吐かせてしまうかもしれない。
・「あなたのため」を含んだ私の意図は結局私のことしか考えられていない視点であるということ。

「好きな人って男子?」この質問はその場にいる人間全員がマイノリティへの理解があることが保証されてないと意味がないことに気がついた。

特に私の意図の「その場にいる第三者に異性愛以外の可能性について考えてほしい」について。よく考えたら、友人のセクシュアリティを暴露させて、セクシュアルマイノリティへの偏見がないとは限らない第三者の友人に、理解を促そうとするという、友人をとんでもなく危険な状態に晒しかねない意図である。
これは冒頭で挙げたアウティングの「善意のつもりで行われたアウティング」と似ている。

あぁ、私も善意の押し付け、それどころかハラスメント、しかも最悪だと思っていたアウティングまがいなことをしてしまっていたのだと、すごく反省しました。

これはPalettalkのポストでも触れられていることなのですが、
「性自認、性的指向はパーソナルなこと」という意識をしておかなければならないと思いました。
普通に考えて、恋愛や自分の体のことなんて、秘密にしておいておかしくないことなのに、セクシュアルマイノリティのこととなると「オープンにするのが良い」という考えになってしまうのは何故だろう。

その理由の一つとして、もしかしたら、メディアの発信を、誤って捉えていたからなのかなと思いました。

近年、芸能人や著名人が自分のセクシュアリティを公開するなど、性に対して開かれた雰囲気は確かにあります。しかし、彼らのカミングアウトは「みんなもカミングアウトをするのが良い」というメッセージを発信したいわけではない。(自身に誇りを持つというメッセージはあると思うが)
それよりもむしろ、「自分がマジョリティではないと言うことで、悩んでいる人に対して、一人じゃないことを示す」という目的が含まれているはずだ。誰もが知っているような人々がカミングアウトをすることで当事者たちを勇気付けられることを、著名な方々自身が自覚しているのだと思う。

だが、ここで誤ってはいけないのはこれらのカミングアウトを私たちの日常生活にそのまま流用することだ。

「世間がオープンになってきたから、私の周りもオープンにしていこう」

この発想は危険だ。
著名人のカミングアウトは一種の活動という側面が強く、日常生活での会話とは性質が違う。
個人同士の会話では開けっ広げにする必要なんてない。


長くなりましたが、配慮のつもりが人を傷つけかねない発言をしていたというおはなし。抑、「配慮」とか、個人の考えの押し付けなのかもなと思いました。誰も傷つけないって多分無理なんだけど、一個一個、自分や他者について眺めていくことで、傷つける人を減らせたらいいなと思います。




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