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どうしても赦せない人 DAY 6

1. 真理とは

私は、特定の宗教を信じておりませんが、自然、宇宙、法則を作り出した偉大な存在があると思っています。どの宗教も、神の呼び名が違いますが、頂上はどれも同じです。どの宗教にも共通した真理があり、魂を高みに導こうとしています。まとめれば、愛と調和と赦しと奉仕が大事であるが、他を傷つけるものは必ずその責任を取らされることです。

ただし、どの宗教も、伝道されるなかで、多少、為政者に都合のいいように改ざんされたり、信者を感心させるために少し大げさに表現されたり、金もうけに走っている部分があるようにも感じます。しかし、宗教は、人としての倫理を教え、犯罪を防止する役目もあり、資金も必要であるだろうから、ある程度は仕方がないのだろうと思います。

熱心な信仰をしている人もいるでしょうし、無神論の人もいるでしょう。複数の宗教を信じている人もいるでしょう。神とか霊とか、うさんくさいと思う人もいるでしょう。結局、死後は皆、その答えがわかるので、今は各自が自己責任で、自分が信じたいように信じていいと思います。大事なことは、宗教観がどうであろうと、自分と他人と社会を大切に生きているか、そこにあるからです。

2. 臨死体験

小学校低学年のころ、私は泳ぎが得意で、家族とよく海水浴に行きました。父は子供たちと一緒に、浅いところで泳いだり、遊んだりしていました。母は木陰にいました。あるとき、なぜか私だけ沖に向かって泳ぎ始めたのですが、誰も気づきませんでした。私は30メートルくらい泳いで、周りに人の気配がしなくなったような気がして、泳ぐのをやめてみたとき、急に海が深くなっていて、足が届かなかったのです。

足がつかないという恐怖は初めてでした。水を飲み、溺れ、もがきながら、助けてと声をあげようとしたら、さらに海水が口に入ってきました。周りには誰もいないし、つかまるものもありませんでした。はるか遠くに緑の山があり、白い砂浜が見えただけでした。ただ、苦しくて、死にそうで、手足を動かしましたが、もう泳ぐことはできませんでした。パニックになりながら、水がどんどん鼻からも口からも入ってきて、息ができませんでした。頭を水上に出すことさえできなくなりました。

私は、幼いころから、神の名前はわからないけど、神様がこの世界にいると思っていました。思うというより、知っている、という感覚に近かったのです。

心の中で祈りました。
「最後に、お母さんにありがとうと手を振りたいです。」

右手を上げましたが、もう海の上には届きませんでした。体は底に沈み始めて、何も見えなくなっていたとき、はるか上方に、信じられないような強い光を見ました。それは、私めがけて投げられたサーチライトのようなもので、私をふわりと包みました。振り返ると、私の体は下へ下へと落ちて行っているのに、私の意識は上へ上へと引き上げられ、神の胸に抱かれているような、幸せで、平和で、愛溢れる、安心した時間でした。眠りにつく前の幸福なあたたかさ、そのような感覚でした。

神に包まれているとき、不思議なことに、自分の生まれてからのビデオが見えました。私の親は、子どもたちの写真は撮っていますが、ビデオは全く撮っていません。なのに、私は、生まれてからよちよち歩いている自分、しょうじに上ろうとしている自分、知らない人が私に手を振ったり、話しかけたりしている場面を、動画として見ていたのです。動画というより、本物のようでした。それがおそらく走馬灯だったと思いますが、全ての記録をいっぺんに、一瞬に見ました。

どうやって助かったのか、まったくわかりません。

後で聞くと、母が急に、うちの子がいないと叫んだそうです。それを聞いた男の人が、なぜかあっちの方向に子供が溺れているんだと感じて、その方向に泳いでいったら、ぐったりした子供を発見したそうです。

神が、母を通して救けを求めさせ、正しい方角と距離にその男性を導いてくれたのだと思います。

病院に搬送されている途中で意識を取り戻した私は、水をたくさん飲んで苦しいながらも、神は私のそばにいてくれるんだと実感しました。

その後、いろんな不思議な体験をしましたが、いつか時間があるときに少しずつ書きます。

3. 神は誰も見捨てない

世の中には、戦争、犯罪、事故、災害、嫌がらせ、病気、貧困など、理不尽なできごとがあります。しかし、それでも神は見ているし、そばにいるんだと思います。そのような理不尽なことで、命を落としてしまわれた方もおられますが、おそらく、それまでの人生で、その人たちは、やるべき課題をクリアしておられたのかもしれません。または、その犠牲を通して、残された我々に、生きることの意味を考えさせるという大役を果たされたのかもしれません。この世で不運だったと思われる方は、霊界ではちゃんと報われるはずです。

私は、神(自然や宇宙のもと)は私たちを愛しているんだと強く感じました。神が私を助けてくれたのは、私の死が予定されていなかったし、私はまだ何も貢献していなかったからだと思います。つまり、この世に生まれてくるのは、なすべき課題を終わるためだと思うのです。

この世は、苦しいことが多々あります。私も、常に闘っていますし、みんなそうだと思います。それでも、私たちは、何かの使命を帯びて生まれてきています。人を貶めたり、傷つけるためではなく、自分ができる善いことをして、誰かの力となり、よりよい社会をつくるためです。だから、この世で何があったとしても、神と約束した課題について、考えてください。

注記

これは、自分のブログをベースにしています。


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