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父と母

私の父と母はとても人間くさい。
人間のプラス面、マイナス面を自分たちの生まれもっての性格や、様々な破天荒な行動で私たち三姉妹にたくさん示してくれた。
二人ともとてもプライドが高く、時にとても扱いにくい。
しかし二人とも心底優しい。

父は人や動物に対してはもちろん、ぬいぐるみにも愛情を持って優しく接する人で、私が中学生だった頃、「捨てられててかわいそうだから拾ってきた」と、もはや犬だかクマだかわからないくらい汚くなったぬいぐるみを手に持って帰ってきた。
父は自分でそのぬいぐるみを丁寧に洗ってあげた。
思春期真っ只中の私と、看護師の専門学校に通っていた2番目の姉はそのぬいぐるみを「きたないくん」と名付けた。
ひどい姉妹だ。
しかしそれはあくまでも笑いが好きな私たちの冗談の延長で、この「きたないくん」も我が家のぬいぐるみチームの一員になった。

もっと遡ると、私が小学校1年生か2年生頃だったと記憶しているが、父は幼い私をよく「山口百恵と三浦友和」の映画に連れて行ってくれた。私が百恵ちゃんの大ファンだったからか、もしくは父が百恵ちゃんを好きだったからか、どちらの熱量が高かったのかはわからないが、これは今となっては自慢でしかない。私は父とこの世紀のゴールデンカップルと言われた彼らの映画をすべて映画館に見に行ったのだ。
父と彼らの映画を観る約束をしていたある日、待てども待てども父は仕事から帰ってこなかった。午後早くに帰ってくるはずだった。
結局父は夕方遅くに帰ってきた。私は「約束したのに!」と泣きわめいた。
「じゃあ今から行こう」と父は私を車に乗せていつもの映画館に連れて行った。
真っ暗な映画館の入口。
子どもながらにもこうなっていることはわかっていた。
それでも父がとっくに映画が終わっている時間に私を映画館に連れて行ってくれたことがとても嬉しかった。
あの時はもう映画を観ることより、ずっと待っていた私に対しての父の誠実さを確認したかっただけなのかもしれない。

1番上の姉が結婚して出産後、姉夫婦の忙しい共働き生活が始まった。
当時私の母は正社員として働いていたが、孫のために時間をやりくりして姉の子育てを支えていた。
この頃に私は母と壮絶なケンカをした。
そして家出をした。
一人暮らしをしている大学の友だちの家に泊めさせてもらったが、友だちに対して申し訳ない気持ちが大きくなり結局1週間後くらいで家に戻った。
帰宅した時、父は私をとても強く抱きしめてくれた。びっくりした。でもどれだけ父が私を心配していたか、どれだけ私を愛してくれているのかが痛いほどわかった。当然私は父の腕の中で号泣した。

一方、母は今でこそ言葉に気をつけるようになったが、昔は母の言葉や態度にとても傷ついたことが何度もある。
しかし大人になり過ぎた今の私は、その時々の母の状況を理解することができるので、母を恨んだり嫌いになったりすることはない。

母は困っている人をほっとくことができない人だ。
我が家の生活が大変な時期、更に大変だった父の姉に、父の保険金の貸付金を下ろして、そのお金を貸したことがある。
お金は返って来なかった。
しかし母はそれに関して一切の愚痴や文句を言わなかった。返って来ないことを承知で貸したのだ。
正社員で働いていた頃も、人助けだと言ってアクセサリーや洋服をたくさん買っていた。
母の場合は本当にそうなのだ。
今でも離れた場所に住む昔の友だちに、時々大量の食品を送っている。
りんごの木を所有している友人から毎年大量にりんごを購入し、親しい人に毎年送っているのも母にとっては大事な人助けなのだと思う。

母は口うるさく命令したり、強制したりすることは決してなかった。それは父も同じだ。
基本的には放任主義だったようだ。
しかし、食べ物や与えられた物に対しては、「何でもありがたく思いなさい」と度々言われた。
だから食べ物を残すようなことは、よっぽどのことがない限り私は絶対にしない。
感謝の心をもつことが、とても大切だということを母から学んだ。

母は私が幼い頃に自宅でいけばな教室を開き、その後生活のために正社員として外に働きに出た。
疲れている母に早起きさせて運動会や遠足のお弁当を作ってもらうのは本当に申し訳ないと子どもながらに思っていた。
しかし母は大食いの私のために私の大好きな甘い卵焼きやウィンナー、ミニハンバーグなどのおかずと共に大きなおにぎりを三つ、それから皮を剥いたりんごをもとの形に戻してラップをしてデザートとしていつも持たせてくれた。
「りんごは先生や友だちに分けてあげなさいね!」と毎回言われたが、先生も友だちも自分のお弁当でお腹がいっぱいになってしまうので、だいたいそのボールのようなりんごは、一人で食べざるをえなかった。
毎回死ぬほどお腹がいっぱいになったが、母の愛情が嬉しかった。

私は過労でめまいがひどい時期があった。
その当時は平均睡眠時間が3時間ほどで、毎朝コンビニで300円のカフェイン入りの栄養剤を飲んで眠気を飛ばして仕事に没頭した。
ひどいめまいで起きることができなくなり、仕事を少し休むことにした。
母は私の変化が正常ではないことを心配し、私を大学病院に連れて行ってくれた。

鬱病と診断された。

心療内科の初老の医師は優しかった。
「何もしないことがあなたの仕事です」
医師は私にそう言った。
「散歩もですか?」
そう聞く私に医師は
「散歩、できる?」
「、、、、できません」

その時は脳が縛られているような状態だった。
蝋人形みたいになってしまう。
本当に何もできなくなってしまった。

診断からかなりの月日が過ぎたある日、母は私を蓼科でペンションを営む母の友人の所に連れて行ってくれた。
バスの移動は問題はなかったが、白樺高原のゴンドラに乗った時は、今まで感じたことがないような恐怖を感じた。
しかし旅行ができたことで自信が出てきて、その後長く続くパニック障害にも逃げずに立ち向かい、耐えられた回数をどんどん増やして行った。
私の変化に気づき、すぐに病院に連れて行ってくれた母。
まだ半分鬱病の、怪しい顔をした私を旅行に連れて行ってくれた母。
心から感謝している。

最初に書いた通り、父と母はプライドが高いので、彼らの自尊心を傷つけるようなことは絶対にできない。
「人はこういうことがあるとこんなにもキレる」ということを父と母は体現してくれた。

しかしそんな父と母のおかげで私は人を深く理解することができるようになった。
人間は多面体だ。
どんな人にも良い面と悪い面がある。
それが人間なのだ。

現在父は90歳、母は86歳になった。
昔は言い合いの絶えない夫婦だったが、今ではお互い助け合い、とても良い夫婦だ。
毎日を楽しく、笑って生きていってほしい。
私は父と母を心から愛している。

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