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京都と東京の御膳汁粉の関係

 タイトルを見て何の話かピンときた方はなかなかの通でいらっしゃいます。そんなあなたにお尋ねします。なぜ関東では善哉じゃなくて「お汁粉」なのでしょうか? これが説明できる方はそういらっしゃらないはずです。

しるこ?  ぜんざい?

関東の汁粉

 関東では汁気があれば汁粉、汁気が無ければ善哉です。もっと詳しく分類すれば、こし餡で汁気があれば「御膳汁粉」、粒餡で汁気があれば「田舎汁粉」と言います。そして汁気がない物、つまりお餅と餡(こし餡・粒餡は問わないようです)だけだと「善哉」です。

関西の善哉

 関西では粒餡で汁気があるものが善哉。こし餡で汁気があるものを汁粉と呼びます。粒あんで汁気がない場合は「亀山」です。※こし餡で汁気が無いものはないのですが、あえて言えば「赤福」です。

ぜんざいの起源

    善哉はなぜ善哉なのか。これには二つの説があります。ひとつめは一休さん説です。有名な一休禅師が餅入り小豆汁を食べた時に、おいしかったので「よきかなよきかな」と弟子を誉めた。その「よきかな」を漢字で「善哉」と書き、それが「善哉」になったという説。この説はこじつけ臭がプンプンします。

    もう一つは出雲地方を起源とする説です。旧暦の10月を神無月(新暦では10月下旬から12月上旬ごろ)といいます。これは10月に日本中の神様が出雲に集まり、他の地域には神様がいなくなるので「神無月」なのです。

    逆に、出雲では神様が集まるので「神在月」といいます。そこで出雲では神様をお迎えして神在祭を行います。その時に、小豆汁に餅を入れた「神在餅じんざいもち」をお供えします。この「じんざい」が「ぜんざい」になったというのです。筆者はこちらを支持します。

亀山と小倉餡

 関東の善哉(粒餡・汁無し)を、関西では「亀山」といいます。この「亀山」と京都の餡の代名詞である「小倉餡」にも語源があります。古くからの小豆の名産地は丹波(京都の西北方面)でした。丹波丘陵の山あいを縫うように流れて来た保津川は嵐山で初めて京都盆地に顔を出します。その嵐山・渡月橋の西北、丹波丘陵の突端に突き出している山が小倉山で、その尾根の先端の丘が亀山なのです。

 「亀山」「小倉」は、その山を越えてやってきた丹波の名産品という意味です。亀山は、食べ方としては汁があるものよりも古いと思います。

 御前汁粉

 関東では汁粉はこし餡が最上とされます。ご丁寧に、こし餡の汁粉は「御膳汁粉」という呼び名まであります。この御膳は元々は「御前」だったのではないかと思います。「御前」とは貴人・主君のことで、まぎれもなく徳川将軍を指しています。

    一方、粒餡で作ると「田舎汁粉」という、ずいぶん見下した名称になります。 

  大納言でさらし餡

 現在の小豆の大産地は北海道ですが、古くから丹波(現在の兵庫県東部)は、大納言小豆(大納言は殿中で抜刀しても切腹しなくてもよいので、煮ても腹割れのしない大粒の小豆を大納言小豆と呼んだ)という品種で有名でした。

    ここからは筆者の妄想です。

 大納言小豆の餡は最高級品で、江戸時代は製餡技術においては京がずば抜けていました。ですから、京で炊いた大納言の餡を江戸に送ろうとしたのですが、餡は水分含有量が多いのですぐに痛みます。そのままではとても江戸までは持たないので、こし餡を乾燥させたさらし・・・餡を江戸に送ることにしました。さらし餡なら日持ちする上に軽くなるので大量に運べます。

大納言よりも将軍様

 京から運んできたさらし・・・餡の粉を、江戸でお湯を足して戻します。汁粉はさらし餡の粉で作るから「汁粉」です。

    そしてここからがキモです。御三家筆頭の尾張徳川家は大納言、紀伊徳川家と水戸徳川家はどちらも中納言格です。上様(将軍)お膝元の江戸では、切腹しなくてもいいはずの大納言を跡形も無くした汁粉、つまり、大納言よりも上の御前汁粉だぞということです。

甘い餡は日本生まれ

 粒餡の汁粉がなぜ「田舎汁粉」なのかも説明しなければなりませんが、それには先ず「餡」の起源からです。

 餡の起源は中国なのですが、餡が甘くなったのは日本に来てからのことです。詳しく言えば平安時代です。当時は国産の砂糖はなかったので、甘葛あまづらという蔦の汁で甘味をつけたようです。

 ちなみに、この甘葛あまづらは、清少納言さんが枕草子に「あてなるもの 削り氷に甘葛入れて 新しきかなまりに入れたる」「サラッピンの金属のお椀にかき氷入れて、甘葛の蜜かけたら、めっちゃオシャレやんかー!」と、かき氷に使うことを絶賛しています。しかし、植物学的には「甘葛」という植物がないので、ナツヅタ等「甘いつた」の総称と漠然と考えられています。

粒餡

粒餡は難しい

 甘葛あまづらではなく砂糖で小豆を炊くようになったのは江戸時代の中頃です。そのころ、現代に繋がる、菓子に使う「餡」の製法が京で確立されたと思われます。それは決して難しい技術ではありませんが、最後まで小豆の形を崩さずにきれいな粒餡に炊き上げるのは至難の業でした。

 一般に粒餡と呼ばれているのは上の写真のような餡です。上手く炊かないと、「小豆の粒がつぶれた残骸が混じったままの餡」になります。これを濾せばこし餡です。

こし餡

田舎汁粉

 一般的には、田舎汁粉とは粒餡で作った汁粉だと説明されていますが、実は「小豆の粒がつぶれた残骸が混じったままの餡」で作った汁粉でした。それはつまり、きれいに粒が残る「粒餡」を炊けなかった、技術的に未熟な粒餡です。現在は「つぶし餡」と呼ぶこともありますが、江戸の場合は「つぶれ餡」が正しいでしょう。

    京の職人ならもっときれいな粒餡になったのでしょうが、江戸は急速に膨れ上がった人口急増都市だったので、菓子職人も経験が浅い者が多く、「つぶれ餡」が横行したのではないでしょうか。

    御前汁粉はくだり物(京・大坂から送られてきた高級品)のさらし餡ですが、田舎汁粉は「京ではない、田舎(江戸)のつぶれ餡」で作ったから「田舎汁粉」だったのです。

 お分かりでしょうか? 田舎汁粉は、決して関西を田舎だと言っているのではありません。

若き日のくいだおれ太郎氏

小倉餡

 余談ですが、こし餡にきれいな粒の餡を混ぜたものが「小倉餡」です。下の写真のような、おせち料理の黒豆のようにきれいに蜜煮にした「粒餡」を使います。

    小倉餡にすれば見栄えが格段に良くなるのですが、蜜煮は黒豆同様に、出来上がるまでに数日かかることからお値段が高くなります。当然、お汁粉に使うには贅沢すぎます。本来は上生菓子の上に、少しだけ乗せて見栄えを良くするという使い方であったと思います。

東京コンプレックス

 色々と妄想しましたが、決して東京を田舎だと見下しているのではありません。御膳汁粉と田舎汁粉については古くから東西で議論されてきたので、筆者なりの見解を示しただけのことです。

 筆者も含めて、京・大阪には根深い「東京コンプレックス」を患っている方がたくさんおられます。そんな方達が勘違いして、田舎汁粉に「誰が田舎もんやねん!」と喰ってかかっているのです。

 そしてこの東京コンプレックスが、食品・食事だけではなく、ビジネスを含むあらゆることで東西の軋轢を生んでいるのではないかと睨んでいます。

 近いうちにそのあたりのことを書きたいと考えていますが、先に大阪のお菓子メーカーさんにお願いです。

 「東京コンプレックス」という名称の大阪銘菓を売り出しませんか? 自虐ネタでウケると思うんですけど…。

 勝手にご飯映画祭③は、樹木希林さん最後の主演映画「あん」を妄想します。
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