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第七十一話 青い島影

もくじ

「ねえ、こっち来てみなよ」

 葵が柵の手前まで行って振り返った。岬の広場には、南側と西側、そして北側の一部に丸太の柵が設けられているが、葵がいるのは西側の柵の前。声に反応した岡崎たち学生三人と夏希が飲み物片手にぞろぞろと歩いていく。

「うわっ、超きれい」「でしょ、映画のロケとかに使えそうじゃない?」「すげー、筒川さんいい場所知ってんなあ」「大学の仲間にも教えてやろう」「教えんな、バカ」。

 柵の前に並んだ五人の正面には、立体的で陰影に富んだ入道雲が立ち昇っている。雲の下に海が広がっているはずだが、柵に向かって地面がせり上がっているため、ベンチに座っている真一には見えない。五つの背中と、その足元から立ち昇る巨大な雲が目に映るだけ。

「どれ」

 夏らしい光景に、立ち上がって柵のほうへ向かう。少し南へずれたほうが、土地が出っ張っている分、海の景色を広く見渡すことができそうだ。

 柵の手前まで行って足元を覗くと、急斜面に生えたハチジョウススキの合間にガクアジサイの葉っぱが見えた。アジサイが海の花であることを、あらためて認識する。園芸品種のアジサイは、このガクアジサイを改良したもの。その遥か下では、磯で白波が砕けている。外海に突き出した岬ならではの荒々しい光景だ。じっと見続けていると、吸い込まれそうで怖い。

 一方、葵たちがいる北側は、翠巒に抱かれた湾内に緑の小島や岩礁が点々と浮かび、その眺めは、日本三景の一つ松島を彷彿とさせる。こうして見ると、海の色は一様ではない。湾口より沖は真正の青、内側は明るいアクアマリン、沈み根のある場所には紺色の影が透けて見え、浅瀬の岩場付近には一升瓶のような透明な青が広がっている。異なる色合いの青が入り乱れる様子は、青い錦の織物を広げたようだ。裁断して着物に仕立てたら、いいものが出来上がるのでは、とふと思った。

「坂道大変だったんじゃない? けっこう足にきたでしょ」
「そうでもない。ほかの奴らに比べたら、俺の荷物は軽かったし」

 湾の奥のほうを眺めていると、久寿彦と美汐が自ずと視界に入る。真一と葵たちの間。並んで海を眺めている。

「でも、うーうー唸ってたじゃん」
「あれは気合だ」

 美汐は一瞬疑わしそうな目を久寿彦に向けたが、何も言わず前を向いた。

「あ、島」

 遠くの一点を指さす。どこ?、と久寿彦が頭を寄せる。

「あそこ。いちばん遠い山の先」

 湾の西側に幾重にもたたなづく山並み。遠くに行くにつれ、色合いを薄めていく。目を凝らすと、最奥の岬の沖合に、うっすらと青い島影が見えた。

「どこだよ」

 ただ、空と同化しそうなほど霞んでいて、一見しただけではわかりづらい。

「ほら、あそこだってば」

 久寿彦がさらに美汐のほうに身を寄せる。髪と髪が触れ合いそうになる。二人とも髪の色が薄いので、近寄ると夏の陽射しに溶けてしまいそうだ。

 真一は、何だかいいところを邪魔しているような気がして、居心地が悪くなった。

 さりげなく二人から視線を外して、崖下の荒磯に目を落とす。

 だが、すぐに自分のやっていることのおかしさに気がついた。久寿彦と美汐が付き合っているなんて聞いたことがない。美汐といちばん距離が近い美緒でさえ、そんなことは一言も言っていない。隠している様子もない。確かに、久寿彦と美汐は仲がいい。店ではバイトリーダーと副リーダーという接点の多い関係だし、休憩時間などもよくしゃべっている。相性がいいことは誰もが知っている。しかし、それだけだ。

「みんな、写真撮るよー」

 西脇の声がして、岡崎たちが振り返った。久寿彦も親指で背後を指して、あっちへ行こう、と美汐を促す。そうだね、とうなずく美汐。そのやり取りも普段通りで、変わったところはなかった。やっぱり思い込みか――にわかに湧き上がった疑問を捨て去って、真一も斜面を下っていった。

 広場は入り江を背にした北側の柵の前がいちばん眺めがいい。手ぶらでそっちへ行こうとした仲間たちに益田が、荷物を背負ったほうがいいだろ、と言って、そうすることになった。背負子を背負う機会なんて滅多にないから、確かにいい考えだった。

 柵の手前で横一列になると、かなり後ろに下がって、四谷がカメラを構えた。観音像の前で写真を撮ったときと違って、仲間たちの人数が十人以上いるので、だいぶ距離を空けないと写真に収まらない。

「あいつがシャッター切ったら、変なものが写り込みそうだな」

 久寿彦がみんなを笑わせる。四谷の田舎は、とある地方の山深い寒村。もうすぐ二十一世紀になろうかという今でも、カッパが出ただのキツネが憑いただのという話がまことしやかに語られる土地柄で、そんな村で育った四谷にも多分に迷信深いところがある。空き地に車を停めたとき、例の廃ホテルについて尋ねたら、むやみに行っちゃいけません、と真顔で諭された。一度霊を背負うと、拝み屋に憑き物落としを依頼しなくてはならなくなるのだとか。四谷の村では、わりとよくあることらしい。

「デジカメでも心霊写真って撮れるんですかね」
「さあな。写真屋に訊いてくれ」

 こそこそ言い合っている間に撮られた写真は、何人かの口許が不自然に歪んでしまい、結局、撮り直すことになった。

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