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第四話 町医者の記憶

もくじ 4,012 文字

 部屋の明かりを点けると、またすさんだ光景が露わになった。それ自体はべつに驚くことではないが、一歩踏み出そうとしたところで、どっと全身から力が抜けた。
 弁当の容器から、焼き肉の汁が漏れ出していた。容器を踏み潰したとき、亀裂が入ってしまったらしい。カーペットの水っぽい染みが、真一をあざ笑うようにてらてら輝いている。
 余計な仕事が出来てしまった。散らかり放題の部屋でも、これは放っておけない。もう何度目になるかわからないため息をついて、ビデオの袋を冷蔵庫の上に置いた。弁当用の茶色いレジ袋を拾って、容器や透明な蓋を入れていく。口を縛って流しに持っていったが、すでに満杯の流しに、新たな袋を受け入れる余地はない。強引に押し込めば何とかなるかもしれないが、そんなことをするくらいなら、溜まった袋を片付けるべきだろう。
 頭上の吊戸棚に手を伸ばす。地域指定のゴミ袋をまとめたビニール袋が、ここにあるはずだ。扉を開け、つま先立ちになって中を覗くと、それは半透明の防湿ケースと内壁の間に挟まっていた。手を突っ込んで、ビニールの端をつまむ。が、ビニールの一部が、防湿ケースの下敷きになっていたらしい。引っ張り出そうとした拍子に、ケースも一緒に動いて、隣のインスタントコーヒーのビンにぶつかった。
 ぐらっ、とビンが揺れる。
 ――やばっ。
 円い蓋がおじぎする様子が、スローモーションで映った。ディスカウントストアで買った輸入物の大ビンだ。とっさに手を出したもののつかみ損ね、落下の向きが変わる。一瞬の間のあと、流しの縁が凄まじい音を立てたと思ったら、次の瞬間、右足の親指にハンマーで叩かれたような衝撃が走った。爪先から脳天まで一気に電流が駆け抜け、呼吸から、瞬きから、あらゆる動作がいっぺんに停止した。
 声もなかった。頭の中が真っ白になって、腕を前に突き出したまま、弁慶の立ち往生のごとく固まってしまった。
 おずおずとその場にうずくまり、傷めた足の指をそっと手で覆う。
 痛みの程度からして、爪がだめになってしまったかもしれない。爪は以前にもやったことがあり、嫌な思い出がある。
 小学生の頃、自転車に乗って、近所の家の門に激突した。母親には、道に落ちていた空き缶を踏んづけてハンドルを取られたと説明したが、実際には、漫画を読みながら8の字走行をしていて、ろくに前を見ていなかった。
 そのときは、右手の中指を、ハンドルと門柱の間に挟み付けた。爪が死ぬと、まず爪の下が真っ赤になって、次いで青黒く変色してくる。そうなった頃には、だいぶ痛みも引いていたのだが、毒々しい見た目に不安になり、近所の町医者に駆け込んだ。
 うっかりしたことに、その町医者は荒治療で有名だった。診察室からしばしば悲鳴が聞こえ、子供たちの間で 「拷問病院」 とあだ名されていたほどだ。いつ行っても薄暗い、古い造作の待合室。受付の小窓からだけ、いやに明るい光が漏れ出し、柱時計の振り子の音が、絶えず緊張を強いてくる。ボーン、と時報が鳴ったりしたら、小さな子供なら確実に泣き出してしまう。診察の順番が近づくと、廊下の長椅子に移動して待つことになるのだが、これがまた患者の恐怖をあおる悪趣味な仕掛けみたいなもので、引き戸のすりガラスに映り込む医者と看護婦の影が、子供心にこの上なく不気味だった。
 次の方どうぞー、という声に、緊張しながら引き戸を開けた。薬品の臭いが立ち込める室内に踏み込むと、ぎしっと床板が鳴って、冷たい光を放つ器具が並んだ机の前に、白衣の老人が腰掛けていた。痩せぎすで、額の上が禿げ上がった白髪頭。血色の悪い顔には、いくつもシミがあり、挨拶しても虚ろなまなざしを返すだけ。真一の爪を見るなり、ああ、これね、とまるで感情の宿らない声で言って、卓上の銀筒から、見慣れないハサミみたいな器具を抜き取った。おそるおそる差し出していた手を取ると、爪の真ん中に小さく切れ目を入れ、何食わぬ顔で左右に一枚ずつ爪を剥がしていった。麻酔など打たれない。べりべりと、今まで聞いたことのない嫌な音がした。むっつり押し黙った看護婦が捧げ持つピーナッツ型の受け皿が、たちどころに鮮血で赤く染まり、小さな指先のどこにこんなに溜まっていたのかと思うほど、生温かい血が、あとからあとから噴き出してきた。処置の間中、指先に火箸を当てられたような激痛を感じていたが、声も上げられず、未開人の割礼手術でも受けているかのような心地で、一部始終を見守るしかなかった。
 翌日、学校でこの悲惨な体験を報告したら、友達の一人がにべもなく言った。
 死んだ爪は、放っておいても自然と生え替わる。時間が経つにつれぐらぐらしてきて、ある日ぽろっと剥がれ落ちる。そのときにはもう、新しい爪が顔を出している、と。
「子供の歯が抜けると、大人の歯が生えてくるだろ。それと同じだよ」
 ひどく愚かな人間を見る目を向けられ、愕然としたことを覚えている。
 ならば、あの苦痛はいったい何だったのか。風邪以外の病気であの医者にかかるな、というちまたの評判をようやく思い出したが、むろん後の祭だった。
 いくらか痛みが引いて、おそるおそる手をどけてみる。
 あとで知ったことだが、爪が死んだときの処置は、どこの病院でもだいたい同じらしい。つまり、死んだ爪は剥がされる。
 また同じ運命を辿るのかと思うと、気が重かった。
 だが、露わになった親指の爪は、概ね健全なピンク色を保っていた。中心がわずかに白くなっていたが、ケガと言うほどのものではない。
 大事に至らなかったことに、ほっと胸をなで下ろす。通路に転がっているビンに目をやると、分厚いガラス越しにぎっしり詰まった顆粒かりゅうが見えた。丸太のようなビンは未開封。流しの縁にぶつかったことは、不幸中の幸いだった。こんなものがまともに当たっていたら、足の爪などひとたまりもなかっただろう。
 しかし、喜んでばかりもいられない。面倒な仕事が残っている。
 立ち上がって部屋へ行き、こたつの上のティッシュをむしり取る。まずは染みの水分を吸い取り、次いで、濡れた台布巾で汚れを叩いた。完全に染みが落ちなくてもいい。何年も使用したカーペットは、すでにまっさらな状態ではないのだから。
 ある程度の回復を見たところで手を止め、衣類の山を漁って靴下を穿いた。爪の痛みはだいぶ引いたが、また同じ所をぶつけないとも限らない。不安定な状態で冷蔵庫の上に乗っていたビデオの袋を小脇に挟み、Tシャツの上に着る物を探す。今朝着ていたパーカがどこかにあるはずだ。ベッドの下、物入れの前、と思いついた場所から順に目で追っていく。
 ――あった。
 こたつの脚の後ろに、黒いフードが見えた。
 だが、取りに行こうとしたところで、ぐるんと景色がひっくり返った。
 ガシャーッ!
 分厚い音が部屋いっぱいに轟き渡った。こたつの上の空き缶やマグカップがなぎ倒され、漫画やCDが表紙や扉を開いてバタバタと床に落ちる。煙草の吸い殻や、ごちゃごちゃした小物類もそこら中にばらけ散った。
「いってえ」
 左肘に強い衝撃と痛み。体が泳いだ拍子に、受け身を取ろうと反射的に腕を伸ばしたのだが、天板の上の物をごっそり引きずった挙げ句、勢い余って床に肘を強打した。
 何かに足を滑らせていた。こたつとテレビボードの間に挟まったまま、つま先側を覗くと、おつまみの袋が見えた。つるつるした厚手のビニール。これが原因に違いない。靴下を穿いたことが裏目に出た。足を保護したつもりが、別の場所を傷める羽目になってしまった。
「何なんだよ、まったく!」
 起きてからというもの、ろくなことがない。食べ残した弁当を踏んづけ、コーヒーのビンをつま先に落っことし、カーペットの染み抜きを終えたと思ったら、今度はこれだ。
「ちくしょう!」
 思いっ切り、床をひっぱたく。と、こたつの縁にかろうじて立っていたペットボトルがぐらりと傾いた。どうすることもできず、落下する様を見送るしかなかった。床にぶつかったペットボトルは、一度大きく弾んだあと、首を振りながら中身を溢れさせていく。みるみる広がる染みを食い止めようと手を伸ばすも、慌てすぎて煙草の灰ごとカーペットをこすってしまう。白濁した液体が勢いよく飛び散り、手のひらがなぞった場所に、べっとりと黒い線がついた。
 ぐちゃぐちゃの部屋にとどめを刺すような太い一文字の線を見ていると、腹の底からどうにもならない怒りがこみ上げてきた。
「くそっ、くそっ」
 灰とドリンクにまみれた手を、何度もカーペットにこすりつけた。同じような黒い線が何本も重なっていき、次第に薄くなって、やがて何も見えなくなった。
 腕を止め、ごろんと仰向けになる。
 手のひらが熱い。ぶつけた肘もじんじん痺れている。
 何もやる気がしなかった。すべてが行き詰まってしまったかのようだった。未だ呼吸が整わない胸を波打たせ、暗礁に乗り上げた船乗りのように、虚ろな目で天井を見上げた。
 部屋に充満する吸い殻の臭い。細かい灰の粒子が、あてもなく蛍光灯の下を彷徨っている。
 ひと月半かけてコツコツと作り上げてきたがらくたの要塞は、ついに崩壊してしまった。
 自分は変わっていない、という幻想と一緒に。
 本当は、最初から答えはわかっていた。
 勝ち目のない戦いだと、心のどこかで気づいていた。
 だが、おいそれと認めることができなかった。
 それゆえ、事実を否定する根拠を必死に探した。日常生活をなおざりにして、部屋の真ん中に馬鹿げた要塞が出来上がってしまうまで。
 いくぶん気持ちが落ち着いて、真一は静かに目を閉じた。
 天井のひび割れ模様と引き替えに、瞼の裏に蘇ってきた光景がある。今からすれば、その日が決定的な分岐点だった。その日を境に、別の世界に通じる敷居を跨ぎ、同時に、帰る道も失っていた。

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