第二十八話 隠れ里
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谷川沿いに縷々続いていた道は、やがて川筋を離れて山を上り始めた。峠を越えてからの下りは長くは続かず、上りの半分程度の所で山腹を横切る形になった。
窓の外を見つめるマサカズの目は、しっかりとした光を宿している。過去に車酔いになったときというのは、はじめから体調が悪かったときで、本来さほど酔いやすい体質ではないという。実際、川原を出発してからずっと、気分の悪さがぶり返す気配はない。
小さなトンネルを抜けると、パッと視界が開けた。
目に飛び込んできたのは、芳春の光景。
山々が囲うすり鉢状の空間の下の方に、小ぢんまりと集落が開けている。急斜面に人家や畑がへばりつき、その下には扇状に広がった段々の土地――あれは、棚田だ。畦の網目模様で一目でわかった。土坡の部分は、石垣が固めている。田んぼの枚数は、ゆうに二百は超えるだろう。平地と違って、水が入っていない田んぼのほうが、圧倒的に多い。水のある田んぼも、田植えに備えて水を入れたというより、水を抜き忘れただけだろう。
だが、それより目を引くのは、いたる所で咲き誇っている満開の花木。花の色は、一様ではない。赤、白、ピンク……あるいは、三色咲き分けて、マーブル模様を成しているものもある。ぼんやり咲き群がる花が、石垣や人家を絵巻物のすやり霞のように隠し、色彩豊かな雲の中に城郭が浮かんでいるようだ。
過ぎた春に、思いがけず巡り合うことになった。
白昼夢のような光景に、一同言葉を失う。
山里を彩る花木は、いったい何の木だろう。桜、梅、桃、梨、杏、李、木瓜……色々思いついたが、特定するのは難しい。一つ言えることは、この手の花木は、通常もっと早い時期に花を咲かせるはず。バス停があった空き地の桜も、すでに葉桜になっていた。
しかし、満開の理由は、少し考えれば何のことはなかった。この場所の標高が高いだけだ。ずっと川を遡ってきたし、峠を越えてからも、それほど山を下っていない。普段、山のないところに生活しているから、標高差がもたらす季節のずれに気がつかなかったのだ。拍子抜けした真一は、小さく息を吐いて、陽光を弾き返す田んぼの一枚に目を細めた。
「もしかして、楽々谷?」
岡崎の声。
「たぶん……」
小林が自信なさそうに答える。
「こんな抜け道があったとは……」
岡崎の頭の中では確定事項のようだが、まだ楽々谷と決まったわけではない。しかし、ここが本当に楽々谷なら、真一にも多少知っていることがある。
まず一つは、楽々谷が紅葉の名所だということ。名所と言っても、箱根や日光などとは比べるべくもないが、シーズンになればそれなりに人出があり、休日には渋滞もできる。眺めの良いハイキングコースが、テレビや雑誌に取り上げられることもある。
もう一つは、ここが平家の落人集落だということ。同じことを謳う山村は全国に多数存在し、それぞれ村の謂われとなる伝説 (安徳天皇が落ち延びた、平某が落ち延びた等) を持っているが、楽々谷の伝説のユニークな点は、村を開いたのは平家方の人間だけではないと言っているところだ。
落人たちがこの山間の僻地に逃げ込んでほどなく、源氏の追手がやってきた。すでに持てる力を使い果たした彼らは、討ち取られることを覚悟したが、追手の者たちは意外な言葉を口にする。
我々は、今回の戦で世の無常を知った。この場所を口外しないかわりに、一緒に住まわせて欲しい――。
断れば、どうなるかわからない。追われる身としては、要求を受け入れるしかなかった。
こうして彼らはともに土地を開墾し、一つの村で暮らすことになった。山の自然はそれほど厳しくなく、村人たちが生きていくのに十分な恵みを与えてくれた。夏は田畑を耕し、冬は狩りをすればいい。彼らは何世紀もの間に渡って、日本史上のいかなる争乱にも巻き込まれず、それがあった事実さえ知らなかった。明治に入ってようやく外部に村の存在が知られるようになったが、山峡の村にしては暮らしぶりが豊かだったこと、村人たちの気質が穏やかだったことなどから、村は 「楽々谷」 と呼ばれるようになった。
楽々谷が本当に平家の落人集落かどうかは定かではない。刀剣などの遺物は、どうも後世のものらしい。開村伝説にしても、僻地に暮らす人々が自分たちのアイデンティティの拠り所を貴種に求めたのではという説があって、支持を集めている。ただ、毎年紅葉の時期に行われる神楽は、所作が大変美しく、とても山村のものとは思えないと評判だ。
車はゆっくり山を下っていき、やがて三色の花の雲の中に吸い込まれた。九十九折れの道が、集落を端から端まで縫っている。縦軸が強調された立体的な景観は、山間の村ならではのものだろう。今走っている場所は、右手に高い石垣が続き、左手のガードレール下に、人家や納屋、急斜面を活用した畑、炭焼小屋の三角屋根などが見下ろせる。すべてがミニチュアみたいに小さくて、ジオラマを覗き込んでいるようだ。細く開けた車の窓から、のんびり鶏の鳴き声が聞こえてくる。
満開の花木は、いたる所に生えていた。道路際、家の庭先、畑の片隅、棚田の合間の半端な土地など、空いた場所があればどこにでも。まとまって植わった場所では、赤、白、ピンクの花が混ざり合って、錦の雲を作り上げている。段々の石垣と相俟った様子を見つめ、世界遺産のマチュピチュに花が咲いたら、こんな感じになるかもしれないと思った。
花木には単色の花を咲かせたもの、二色三色に咲き分けたもの、枝が枝垂れたものもある。花屋で働いているマサカズ――花木を扱うのは植木屋だが――に尋ねたら、これらはすべて花桃で、特に咲き分けしたものは 「源平桃」 という品種だそうだ。なるほど、白は源氏、赤は平氏の旗の色である。一本の木に、紅白の花が咲き分けるから源平桃。わかりやすい。しかし、だとすれば、ここが楽々谷であることは、もう間違いないだろう。源平が共存した村に、これほどふさわしい木はないのだから。
「おっ、出たぞ」
坂の終わりに、黄色いセンターラインが引かれた道が見えた。
「ビンゴ! やっぱりあの道だ」
突き当たりまで下って左折すると、小林が右手でステアリングを叩いた。最近小林は、この近くの湖にワカサギを釣りに来たらしい。シーズンの終わり頃だったとはいえ、湖上の釣りは寒く、帰りに楽々谷の温泉に立ち寄ったそうだ。
「よっしゃ、メシにしよう。腹減って死にそうだー。どっか店ないの?」
車内に安堵の空気が広がり、岡崎がダッシュボードをペチペチ叩きながら訊く。
「うどんかそばでいいなら、すぐ近くの土産物屋で食えるぞ」
「あー、もう何でもいい。とにかく腹に何か詰め込みてえ」
いちいち話し合うのも面倒らしい。さっさと行ってくれ、と手を払う。
すぐにその土産物屋が見えてきた。どっしりした茅葺屋根の古民家風店舗。正面には水車。道端にも、茅葺屋根付きの看板が立っていて、でかでかと 「隠れ里」 と書いてある。
真一は、思わず苦笑してしまった。隠れ里が看板なんか出したら本末転倒だろう。
しかしまあ、源平が争っていたのは遠い昔の話。今や人々が携帯やPHSで会話をし、インターネットで世界中が繋がっている時代だ。侍は髷を切り、幕府は政府になり、人類は月への有人飛行を果たし、冷戦も終結した。かつての秘境にも立派な道路が引かれ、落人の末裔といえど、市場経済の枠組みの中で生きていかなくてはならない。
祇園精舎の鐘の声――。
「平家物語」 の冒頭文が語る通り、この世は無常なのだ。
隠れ里の看板を見て、はっきりと思い知らされた。
"everything must change"――心に刻もう。
それはそうと、店の様子が変だ。店舗の隣には、観光バスも収容できる大型駐車場が開けているが、一台の車も停まっていない。店舗内の照明も落ち、玄関脇の水車も動きを止めている。
「隠れ里だけに、店員も隠れちゃったとか」
「いいから、そういうの」
マサカズのギャグを、岡崎はハエでも叩き落とすがごとく封殺した。空腹の岡崎に、冗談は通じない。真一も、さっき経験済みだ。
小林がさらに店に車を近づけると、入り口の扉に 「本日休業」 と札が掛かっていた。
「おっかしいなあ、前回来たときはやってたんだけど……」
しかし、水曜は隔週で休みということもある。あるいは、臨時休業とか。
「しょうがない。ほかを当たるか」
小林によれば、ここから一、二キロ山を下った所にも喫茶・軽食の店があるという。同じエリアの店が足並み揃えて休むことはないだろうから、そこへ行くことになった。