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第八十三話 青空レストラン その二~幸福な時間~
手前味噌ながら、トビウオのアクアパッツァはなかなかの出来具合。魚の旨味の中にほんのり海水の苦味が溶け込んでいて、食べるだけで海を感じられる。アクアパッツァは、地中海の漁師が海水で魚を煮込んだのが始まりとされるから、海水を加えたことによって、本来の料理の味に近づいたと思う。
「シンさん、交代」
葵が夏希と一緒に、ショゴのアクアパッツァを持って、真一のテーブルにやって来た。
「えっ、もうかよ」
まだ目の前の料理を食べ終えていない。
「もうだよ。どんどん調理しないと、あとがつっかえちゃうでしょ」
「しょうがねえな……」
ボリボリと頭を掻いて、四谷と一緒に立ち上がる。食べかけの皿を邪魔にならない場所に移すと、それぞれの持ち場へ戻った。
クーラーボックスの中の魚は、すべて下処理が済んでいる。あとは調理するだけだから、それほど手間はかからない。フライパンの汚れをきれいに拭き取って、さっきと同じようにオリーブオイルを引く。
いちばん東側のタープのそばで、西脇が折り畳みイスに上って、四谷の飛び込みを再現していた。
「敵はすべて下郎!」
腕を水平に広げて叫んだのは、北斗の拳に登場する聖帝サウザーのセリフ。必殺技を繰り出す前に、確か、こんなことを言っていた気がする。
「下郎はお前!」
葵がすかさず叫び返した。テーブルでアクアパッツァを食べながら、西脇にフォークを向けている。きっと西脇の放送禁止の飛び込みを思い出したのだろう。驚いた西脇はバランスを崩し、砂の上に転げ落ちてしまった。周りの仲間たちがどっと笑う。
「マリネ出来たよー」
美汐がタコのマリネが入ったタッパーを、食事中の仲間たちがいるタープに持っていく。野菜の彩りが爽やかな、これも夏らしい一品だ。イセエビなんて上等なものをエサにしているタコは、きっと美味しいに違いない。全員分の量があるかどうかわからないから、早い者勝ちとのこと。
カルパッチョを作り終えた久寿彦は、真名井さんと料理を食べ始めている。今ブイヤベースを作っているのは、美緒と松浦。
真一は二人分のアクアパッツァを作り終えると、美汐と久寿彦に皿を取りにきてもらって、食事用のタープに戻った。邪魔にならない場所にどけておいた自分のアクアパッツァは、だいぶ冷めてしまったが、海を感じられる味に変わりはなかった。
「これ、シンさんの分です」
さっき四谷が座っていた場所には、今は益田が座っている。益田は真一に、ブイヤベースのスープが入ったカップを差し出してきた。トビウオのアクアパッツァだけでは物足りないので、真一はブイヤベースも食べるつもりだったが、ちょうどよかった。まずはスープをいただくことにする。
スープは立ち昇る匂いからして、すでに美味しい。ルイユを垂らして一口含むと、何とも言えない濃厚な味が広がった。
「すごいでしょ、出汁」
横から真帆が言った。確かに。アクアパッツァの具材を少なくした分、磯物などはすべてブイヤベースにつぎ込んだが、それがこの結果。カサゴ、ショウジンガニ、三種の貝にカメノテ――どれもいい出汁が出る魚介だ。それぞれの出汁が渾然一体となって、恐ろしく深みのある味を醸し出している。こんなに美味しいスープを飲んだのは、初めてのことかもしれない。まさしく天にも昇るような味だ。豊富な食材を恵んでくれた海に感謝。もちろん、作ってくれた仲間たちにも。
「リゾットが楽しみだね」
真一の顔を見た真帆が微笑む。ブイヤベースとアクアパッツァのスープはリゾットに使う。今飲んでいるスープにアクアパッツァのスープが加われば、ショゴやトビウオの出汁も追加されて、さらに深みのある味になるだろう。そんなスープで作ったリゾットは、素晴らしく美味しいはずだ。
「カニの身や磯物も入れたら、けっこう豪華なリゾットになりますよ」
そういうやり方もある。リゾットには元々タコと小エビを入れる予定だが、磯物などが加われば、益田の言う通り、具だくさんの豪華なシーフード・リゾットになるだろう。
となれば、早めにブイヤベースの魚介を確保しておいたほうがいい。立ち上がって隣のタープに行く。
自分のテーブルに戻ってくると、もう一つ空いていた席に岡崎が座っていた。四人分の皿でテーブルがごちゃごちゃしてしまったが、誰かが移動するわけにもいかない。さっさと食べて皿の数を少なくしよう。丸のままの姿のカサゴに真一はナイフを入れる。
バーベキューコンロでは、アクアパッツァやブイヤベースにならなかった魚が焼かれ始めている。せっかく海を前にしているのだから、豪快に浜焼きもやってみよう――そう言った西脇は、クーラーボックスからつかみ取った魚を、どかどかと丸のまま網に並べていった。トビウオとワカシの浜焼きは、夏っぽくいていい。トビウオは夏の季語。夏場よく釣れるワカシは、漢字で魚偏に夏と書く。
心地良い浜風。それぞれのタープから散発的に上がる笑い声。少し離れた北側の山斜面からは、玲瓏とヒグラシの合唱が聞こえてくる。
ベースキャンプに流れる時間は緩やかだ。
午前中アクティブに過ごし、午後はみんなでゆっくり食事や会話を楽しむ。そんな遊び方が今日はぴったりハマった。
体は疲れているが、嫌な疲れではない。思い切り動いたあとは、ゆったりと潮が満ちてくるように充実した気分が訪れる。
周りに目をやると、みんな同じような顔をしている。満ち足りた夏の顔だ。
岡崎のジョークに真帆と益田が笑うのを見て、カサゴを口に運んだ。ブイヤベースのスープがしっかり染み込んだカサゴの身は、実に美味しい。ブイヤベース憲章にあるホウボウやマトウダイは釣れなかったけど、魚はこれだけで十分。
海からの青い風を感じて、今の自分は人生で最高の瞬間を過ごしているんじゃないか、と思った。
自分たちで獲った食材で作った料理を囲む、穏やかで幸福な時間がここにある――ちょうど、夏の午後のような。
しかし、すぐに、やっぱり大げさかな、と思い直した。
こんな他愛のない時間のどこが最高の瞬間なのか。今していることは、特別なことではない。大金を支払ったり、多大な労力をかけなければ実現できないことではない。誰にでもできることだ。
だが、そう思ってすぐ、案外そんなものかもな、と再び思い直した。
自分が最高だと感じたなら、素直に認めればいい。
「最高の瞬間」 なんて、言葉ほど大げさなものではないだろう。どこにでも転がっているし、誰もが手に入れることができる。つまり、ごくありふれたものだ。
きっと、こうした悟り自体、大したものではないのだろう。
日々の暮らしの中で経験する、ささやかな発見の一つにすぎない。
だが、人生の真理なんて、そんなものじゃないのか。
勿体をつけて語るほどのものじゃない。
それは、誰もが知り得るものだし、特別珍しくもないはず。
「ねえ、ちょっと、そっちの人たちー」
葵の声に、真帆たちが会話をやめ、真一は皿から顔を上げた。
「ショゴが余っちゃったから、お茶漬け作ろうと思ってるんだけど、食べたい人いるー?」
「あ、食う食う」
「俺もー」
益田や岡崎と一緒に、真一も手を挙げる。真帆はリゾットのために、胃袋に隙間を残しておきたいそう。
夏の味覚ショゴは、お茶漬けにしても最高だ。真一も釣ったショゴをその場で捌いて、コンビニの梅干しおにぎりとペットボトルのお茶で作ったことがある。砕いた氷を入れたお茶漬けは、暑い夏にぴったりだった。ただ、ここで言う茶漬けは出汁茶漬け。出汁は魚のあらを使う。魚料理が得意な葵なら、きっと美味しいお茶漬けを作ってくれるだろう。
カサゴを食べ終えたら、キジハタのカルパッチョを食べてみる。一匹しか釣れなかったら、一人が食べられる量は少ない。それを踏まえ、意識を舌に集中して口に入れた。アカハタより明らかに上の味だ。繊細で上品ながら、脂のコクと旨味も感じられる。東の王様がシマアジなら、西の王様はキジハタだと思った。これを肴に、冷えたワインでも飲みたい気分。近頃は、庶民でも気軽にワインが飲めるようになった。ワンコインで買えるワインも登場したし、チリ産のワインも驚くほど安い (赤ワインが主だが)。
タープに届くヒグラシの声が涼やかだ。草地のキリギリスものんびりとした声を聞かせてくれる。
真一は、目の前に広がる入り江の景色を見渡した。
東西の岬へ続く緑濃い山並み。真っ青な空と力強く立ち昇る入道雲。多様な青を織り交ぜた海面は、銀色の光を散りばめている。
ここに存在するすべてのものが夏を謳歌している。生命力を最高潮に漲らせている。
自分も同じだと思った。
人生を季節に例えるならば、今は夏。夏の真っ只中。
つまり、この景色と同じ。
だから、今の自分はこの景色の中にいることがふさわしい。ほかのどんな場所でもない。自分の居場所はここだ。
そう思った。
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