「カルチベート」、それは素敵な言葉。

勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立つものだと思っている人もいるが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。 日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人間を完了させるのだ。じっくり必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。 偶然ということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。なんて、たまたま忘れてもいいものなんだ。 どうせ、全部忘れても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているのものだ。勉強しなければいけないかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に間にようとあせてはいかん。と、真にカルチベートされた人間になれ!

太宰治 「正義と微笑」より

太宰治の作品で「正義と微笑」という小説がある。実はちゃんと読んだことがない。

読んだことないくせにこの一節を取り上げていいものかとも思ったのだが、感銘を受けたため、勝手に語らせていただきたい。


「なぜ勉強をしないといけないのか?」
誰しも一度は思ったことはないだろうか。

例えば、国語や数学は将来にわたり読み書きや計算をするために不可欠な科目だが、果たして何も古文や漢文、微分積分までもが将来役立つことがあるのだろうか、と。

社会の中の歴史だってそうだ。
大人になった今、歴史の知識が仕事で必要だった場合は現在までない。
理科の化学式や物理の重力加速度の計算なんかが今日まで仕事で役立ったことはない。
少なくとも、私の職業内では。

なんて、思い返していくと
意外と「こういうことを勉強した『記憶』」というのが、頭の片隅にも残っているのだと実感する。


上記の小説のこの一節、まさにこのことを示しているんだと思う。
例え内容まで覚えていなくても、大人になって当時のテストが解けなくても、きれいさっぱり忘れてしまった公式やら単語やらがあったとしても。

大切なことは、勉強したという「事実」。
その経験が今の自分を形作っており、そして大人になってからでも勉強し続けることで人間性を豊かに育て続ける土になるということなんだと思う。

「カルチベート」を直訳すると「耕す」という意味である。
そしてその他には「洗練する」「深める」「開拓する」などの意味があるそうだ。
とても素敵な言葉だと思う。

あの頃役に立つもんかと思った科目やテーマも、何かしらの形で自身の考えや判断、精神面などに影響をもたらしていると思えばそれはかけがえのない結果だ。

大人になった今でも、今からでも
積極的に自身をカルチベートしていく人になって心に豊かな大地を広げていきたいなと思う。





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