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過去と未来は存在しない。あるのは色んな瞬間の「今」だけ。という自説

『過去は変わらない。』

そんな訳はないです。
過去はいくらでも変わります。

過去が変わらないと思っているのは、「偶像としての過去」と「かつての現在」を混同しているからに他なりません。

「過去」とは厳密には認識です。我々の認識それ自体なんです。あたかも実在するかのように使われがちですが、「マネー」や「社会」と同じく、暗黙の了解に基づいて使われる言葉(であるべき)なのです。

「過去」はどこにもない

例えば、「今のあなた」も「1時間前のあなた」も、生きている(いた)のは「現在」ですよね。別に「1時間前のあなた」は必ずしも1時間後のあなたありきの存在では無いはずです。今も1時間前も、どちらも主観的には同じく「現在を生きている」という感覚のはず。というか、生きているのです。「過去」という名の時空を生きていた訳ではないんです。

これは「1時間前のあなた」を「昨日のあなた」や「1年前のあなた」に置き換えても同じことが言えます。小学生時代当時だって、「現在」を生きていたんです。

このように考えていくと、「過去」という時空はそもそも初めから存在していないことが分かります。あくまで個人の脳内に描かれる「かつての現在」こそ、我々が過去と呼んでいるものです。つまり空想の「認識」なんです。

だったらばです。「過去が変わらない」という言葉はいかほどの意味を持つでしょうか。「かつての今現在」は確かに変わりません。しかし、「今現在」を常に走り続ける私たちは「かつての今現在」など追体験しようも無いですし、下手な話、その存在を証明する事すら出来ないのです。
有名な『世界5秒前創造説』から引用します。

世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。それゆえ、いま起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。したがって、過去の知識と呼ばれている出来事は過去とは論理的に独立である。そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである。

ラッセル "The Analysis of Mind" (1971) pp-159-160: 竹尾 『心の分析』 (1993)

ならば、「過去」は変えられるでしょう。それは認識でしかないからです。

歴史における「過去」と「未来」

歴史を語る際に「過去」そして「未来」という考え方は避けられません。ですが歴史とは、判明している事実を寄せ集めて積み上げられた「こうだったのではないか」という仮説に過ぎません。そして、タイムマシンが発明され、全てのありとあらゆる時間を精細に調べるでもしなければ「仮説」という領域からは脱せないでしょう。いわば歴史は想像上の事実な訳です。

そうすると「過去」が実在しないという話がこちらにも適用できます。本来あったのは「数千年前の現在」や「数百年前の現在」のはず。過去なんてどこにもありません。もっと言えば、「歴史が覆る新事実だ!」という言葉もこれまでの話をよく表しています。歴史、つまり過去という想像上の事実の連続は、新発見によって覆ってしまうほどの詭弁性しか持ち合わせていないのです。そして文字通り「過去が変わってしまう」事が起きてしまうのです。

過去はやはり変わり得るのです。それは本来的に存在しないものだからです。


では「未来」はどうでしょうか。「過去」が存在しないのは想像上の概念、つまり認識でしかないからという理屈だったなら、「未来」にも当然当てはまると言えるでしょう。

資本主義の到来以前は存在しなかった「未来」

知ってる方もいらっしゃるかもしれませんが、実は「未来」という考え方自体が、欧米で資本主義が誕生するまでなかったらしいのです。まあ前項で歴史を否定しておいて何ですが、そういう事になっています。

少なくとも「冬が来るので農作物を貯蓄しておこう」程度の考えはあったでしょうけど、我々には当たり前の「未来に投資する」というような概念は存在しなかったそうです。考えてみれば、資本主義のシステムからしても「未来」ありきのものですし、逆に資本主義がなければ生まれない考え方とも言えるのかもしれません。

だから「未来」は人類の大発明だ、という言い方もされます。正に「マネー」や「社会」と同じ分類の言葉なんです。「みんなが信じているから存在する」もの。つまり「認識」によるものでしかない訳です。簡単にコロコロ変わることもあるし、完全な予測は不可能だと言われるのもそういう理由です。



ちなみに完全に余談ですが、「未来」という概念が誕生する前、つまり資本主義の到来以前は、身体の病気はあれど「精神病」というものが存在しなかったそうです。鬱病もヒステリーも全て資本主義が浸透してから観測された、ということになっています。初めて聞いた時はなかなかゾッとした話でした。

時間は本来存在しない?

過去と未来が実在しないなら、時間の流れも実在しないのではないでしょうか。我々が仮にそう感じているに過ぎない、或いはそういうものだと盲信しているに過ぎないのではないでしょうか。

オカルトやスピリチュアル方面で聞いた話なのですが、「地球は自転しているから時間があるように感じるが、本来時間は存在しない。虚空の宇宙空間には当然自転も何もないので、時間は完全に存在しない。」というようなものもありました。別にこの言葉を基に本記事の事を考察した訳ではなかったのですが、思い返すと色々合致してて面白いなと思います。

話題がそれましたが、過去と未来という概念が実在しないものだとしたら、我々が今まで「時間」と呼んでいたものはなんと呼べば良いのでしょう。

個人的な回答としては、
連綿と続く「今現在」という一瞬

だと思っています。

植物の成長や季節の変遷など、側から見て連続的な推移を感じるものがそもそもたくさん世界には存在します。しかし我々のいわゆる「時間」という概念は、それらの理由づけの延長線上に位置するものだった、という言い方もできるかと思うのです。時間を水に例えてか、「流れる」とよく表現しますが、本記事流で行くとパラパラ漫画やアニメーションと近い考え方になると思います。

パラパラ漫画の絵の一枚一枚が『今現在』を表現し、それが繰り返される事によって『連続的な今現在』、一般的に言う「時間」が生まれている。これが今に始まった訳でなく、太古の昔、それこそビックバンの頃から続いてきているという説明になります。そして、どこの一枚の絵をピックアップしても、それは『今現在』を表現するものです。だから、過去も未来も存在しない。存在するのは『今現在』の順序だけ。

なかなかぶっ飛んでる話かも知れませんが、「過去」とか「未来」という概念に苦しめられている方がもしいれば、ちょこっとは救いになるのではないでしょうか。

まとめ


過去」は個人ないし共同体の認識にある考察上の概念で実在はしない。
未来」は内容は違えど皆が信じているから成立する概念であり、本来存在しない。
よって過去と未来が実在しないために「時間」も実在しない事になる。
時間は本来『連綿と続く「今現在」という一瞬』と捉えるべきである。

となります。
僕自身が世の常識を疑うことが大好きな捻くれ者なのでこんなことを考えたという言い方もできなくもないですが、実際、今の世の中の原理や科学は絶対的な真実ではありません。いつかは転覆しかねないものです。

あと歴史について口酸っぱく言いましたが、僕自身、歴史は割と好きな方ですし無価値だとは全く思わないので、誤解なさらないようお願いします。
次回へ続く

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