日本の教育の行く末

最近、思い至ったことがある。
日本の今日行くを取り巻く環境は行き詰まっている。

様々な要因が考えられるが、今回は「社会が教育に何をどう求めているのか」から考えてみたい。

社会が教育に求めるものとして、私は大きく2通りのスタンスがある(というより、日本に於いてはあった、の方が正確だ)。
一つは、「子どもを大人にすること」であり、「先生は大人の代表」というスタンスだ。この場合、教師に必要なのは大人としての経験やおもしろみだ。社会人を経験した人を教員に、などという考えはこのスタンスから出てくる。
ある種、教員は大人であれば誰でもよく、一定の教養は求められるものの、子どもたちのことを想っていれば、誰でも参加できる職としての教師だ。これは、開放制と良く整合する。公教育にみんなで参加する感覚だ。
もう一つのスタンスは、「有益な能力をより効果的に育成すること」を求めるスタンスだ。こちらのスタンスでは、ある種明確な目標があり、それを実現できる能力が教師に求められる。平たく言えば、教師に専門性が求められるのだ。

旧来、日本は前者のスタンスを社会全体で合意していた(すくなくともそういう気分であった)と思うが、近年では後者にシフトしつつある。どちらが良いスタンスか、ということを論じる気はなくて、問題としたいのは、教育に求めるものがシフトしているにも関わらず、制度がそれに追いついていないこと、だ。

端的に言えば、現在の学習指導要領は教師に高い専門性を求め、「誰でもできる学校ごっこ」から「専門性があるからこそ実現できる充実した学習活動」への転換を強く促すものだが、はっきり言って現場の現実と乖離しすぎている。
どう乖離しているのか、それは教師の能力を高く見積りすぎているということだ。
これは当然で、昔は前者のスタンスだったわけだ。かつては「でもしか教師」などという言葉があったほどで、教師は専門職というより、子ども好きの大人がする社会奉仕だったわけだ。いま現場にいるのは、気のいいおっちゃんおばちゃんだ。そんな人たちが「サンカンテン」「ディーエックス」なんて難しすぎる。
だが、この現状は昔からの文脈に依存するんだから、いまさら批判する類のものじゃない。なんなら、日本国民がかつてはそれに合意していたわけだ。誰も昭和の時代に「教師に専門性を!」とは叫ばなかった(もちろん、意識の高い教育界隈では言われていた。しかし、それは一般国民の感覚とはかけ離れている)。

再三言うが、大人なら誰でもできる子ども好きによる教育から専門性を持ったプロによる教育、その転換の良し悪しを論じたいわけではない。問題はシフトしたのに、制度が追いつかないこと。どのように追いついていないか、それは教師に専門性の高いから優秀な人材が集まる仕組みになっていないことだ。

先日の中教審まとめで話題になった「定額働かせ放題」もそうだが、教員の待遇は昔と何ら変わらない。これは、働き方改革の文脈以上に、「教師に専門性を求めるくせに、待遇は変わらない」という、はっきり言ってありえない、バカげた状態であると言っていい。

いまの学習指導要領の内容を理解し、創発性を持って実践するのは相当に高度なことだ。学部卒で、教職の単位も取りましたー程度の者ができることではない。
この能力をどうつけさせる?

選択肢はいくつかある。
そもそも優秀な人が集まるように待遇を厚遇し、その上で試験などで淘汰圧をかける。
もしくは、研究や修養をいまのような現場任せの小手先でなく、長期のプログラム化する。教育学部を充実させることも考えられる。いずれにせよ、教師の待遇向上とセットでなければ実効性は低そうだ。

極めてシンプルにまとめると、教師にあれこれ求めるならペイを出せ、の一言に尽きる。

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