「誰にも迷惑をかけてません」

人に迷惑をかけてはいけない。

道徳的な価値観として、広く信じられている。
私はこれに教育現場から異を唱えたい。

「誰にも迷惑をかけてません」は判定可能か

高校で生徒が言いがちなセリフの一つに「誰にも迷惑をかけてません」がある。主に、「誰かに直接危害を加えないタイプの不道徳な行為」を行ったときにこの発言をしがちだ。
さて、この者たちに問いたい。「迷惑をかけてないかどうか、どうやって判断したの?みんなにきいたの?」

この者たちの言う「誰にも」は相当に安直だ。「ぼくの・わたしの想定する他者」の範疇を出ていない。
この者たちは、他者が全く異なる価値観を持ちうることについて、想像が欠けているわけだ。
そんな大袈裟な、という態度こそが無理解への入り口であり、尊重から最も遠い態度だ。

この者たちへの返答は「それはあなたが決めることではありません」だ。

前提を改良する

そんなこと言ったら何もできないじゃないか!と言う人が現れそうだ。しかし、それこそが「人に迷惑をかけてはいけない」の罠だ。
「他者の迷惑かどうかが判定できないなら、何もできないじゃないか!」という主張の前提には「他人に迷惑をかけてはいけない」がある。これを無限定に前提視することに問題があるんじゃないだろうか。
冷静に考えて、他者に迷惑をかけずに生きることはできるだろうか?そもそも判定ができないが、それだけでなく、私たちは他者なしで存在することなんて不可能だ。私たちは他者から生まれ、他者に囲まれた世界を生き、何をするにも他者が絶対的に必要だ(これを、「交換」という経済行為が覆い隠していることも指摘しておく)。

むしろ、「他人に迷惑はかかるもの」なのだ。私たちは迷惑をかけ合いながら生きているのではないか?

「他人に迷惑はかかるもの」という前提を追加すれば、自然と「余計な迷惑は極力かけないようにしよう」とか、「迷惑をかける分、誰かの迷惑を引き受けてあげよう」という発想になる。
こちらの方が、よっぽど他者との関わりにコミットできる。


単に「他人に迷惑をかけてはいけない」だけでは、無理がある。けど、迷惑をかけ合う関係を自覚することで、その意味もずいぶん変わるのではないだろうか。「迷惑かけてませーん」の人たちの目も開くだろう。

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