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素人が考える『教育』①

最近知人との会話で思ったことを書いてみようと思います。 内容としては、子供の教育についてです。

昨今の教育は、モンスターペアレントの問題、体罰問題、暴力問題、またその他SNSのあらぬ利用によって、なかなか学級の運営が難しいということを耳にしたりもします。

私がなぜ教育の分野に興味があるかというと、かつて20代の頃ではありますが、当時在籍していた武道団体の中で、指導教育に携わるポジションについていたからだということがあります。

その時の経験と、現状の教育現場の一部ではありますが、お話を聞いて自分の中で照らし合わせ、感じたことを今日は書いていこうと思います。


区別は必要、でも下手な区別は差別


まず真っ先に思うのは、現在の教育現場では大変に『区分け』が進んでいるということが挙げられると思います。15年やそこらの前ですが、私が武道の現役の時、生徒の中には優秀な子もいれば当然アホな子もいました(言葉が悪くてすいません)目立ちたがりの子もいましたし、引っ込み思案の子もいました。フィジカル的なハンディを背負っている子もいました。

しかしそれらの生徒たちが、武道を勉強するというひとつの意志のもと、同じ時間を過ごすこと自体に、非常に価値があったのではないかと思います。
これは私が少年時代だった30年前の学校も同じでしょうし、私の両親世代である50年・60年前も、きっと同じ価値観があったと思います。

今でこそ様々な分析や研究が進み、ADHDだったり、その他様々な特性としての脳機能、あるいは精神的な発達の判断が進みました。しかし、判断が進んだとはいえ、そのことをどのように区分するかという人間側のジャッジについては発展していないように感じます。具体的には、『普通の子』というカテゴライズが、大変シビアなものになったと感じる今日この頃です。

そして区分による区別は確かに必要ですが、一歩間違えれば、無意識下の差別につながります。これは精神性において大変危険なことだと思います。

作られた『普通』、受け入れた『普通』、どちらも必要


普通とは一体何だろう?ということをまず考えなければなりません。

現代ではおそらく、様々なイレギュラー的な特性がが全くない子が普通である、という認識をされるんだと思います。

しかし、私の現役やそれ以前の時代の場合は、クラスの中には、目立ちたがりも、引っ込み思案も、優秀も、アホも、足の速いやつも、どんくさいやつも、マブいやつも、そうでないやつも、みんなみんないて普通という認識が強かったように思います。

この区分けがあることによって、教育者は細分化するための余計なストレスを感じ(よく言えばキメの細かい指導、と言えなくもないのでしょうが)、親は区分に当てはめられ、普通というお墨付きがもらえなかったことに対してストレスを感じるのではないでしょうか。

しかし、それは子供本人には何も関係のないことだと思います。

それぞれの特性を個性ということで解釈するならば、余計な線引きをせずに、あえて集団の中で引き立っていくような個性の教育が必要なのではないかと思います。そして綺麗ごとだけで言えば、子供の存在がある事で、親(教育者)がどのようにみられているかを気にする事ほど、特性ばかりに目が行ってしまい、子供の人間性自体から目をそらすことになってしまうのではないでしょうか。現代ならばうるさい子が居たら『多動性が強いんです』なんて言葉も出てくるのでしょうが、その事を理解する事と、その特性がある事を理解した前提で、実際にうるさくしてはいけない場面でうるさい事を指導改善する事は全くの別問題です。

なので、現代に必要な教育は、接し方や教育の方針は平等に、そしてその特性ではなく、その子供たち自身の人物像を主眼に置いた上での個性として認知・受け止めをする必要があるのではないでしょうか。

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