日本野球のWBC優勝に想う~ある異能の“ストリート”な挑戦が“道”になるまで
私が起業した時に、大切にしていたお話…「中央を透明な板で仕切った水槽の片側に、沢山の金魚を入れます。しばらくしてそっと板を外しても、誰も反対側へは泳ぎません。ところがそこに何も知らない新参者を投入すると、構わず自由に泳ぎ回ります。すると、他の金魚も反対側へと泳ぎ出す。」…確かそんな話でした。
野球で日本が米国を破って世界一になりました。これには驚きよりも、素直な祝福が参加国に広がっているようです。それは大谷選手がいたから?日本選手やファンの振舞いが共感を呼んだから?直接的にはそうでしょう。ただそれも、過去に多くの選手が個々に世界への挑戦を積み重ねたからこそで、その中でも特に、私はその源流を作った野茂英雄選手に想いを馳せてしまいます。そこで今回のエッセイでは、彼の挑戦が今回の優勝にどう繋がったのか?…を考察してみます。
まず、私と野茂選手のご縁にふれておきます。30年前の1993年、私は大阪で、彼が本拠地とした近鉄藤井寺球場の近くに住んでいました。そして彼が渡米した1995年、私も会社留学で渡米したのです。だから彼がいかに日本球界で異端だったか、どれだけ周囲の批判にさらされながら渡米したか、そして片や米国では、どれだけ厳しい条件からスタートしたか、そこからどれほどの社会的な熱狂を生み出したかを、リアルタイムで覚えています。だから今回、イチロー選手までは遡る報道を目にしましたが、野茂選手について語る論調は少なかった(せっかく対戦相手のイタリア監督が、彼とバッテリーを組んでいたマイク・ピアッツァ氏であったにも関わらず)ように感じたので、この機会にまとめてみよう!と思い立った次第です。(また、その頃を知らない息子にも伝えたいので)
さて、野茂投手と言えば“トルネード投法”(後にも先にも彼しか使わなかったスタイル)彼はこれを貫くことを仰木監督と約束して近鉄に入団したのですが、1993年に代わった監督がこれを反故にして干渉、翌年には関係修復が不能に。そこで1994年、彼は(今では多くのスポーツで当たり前となった)代理人交渉を希望、これを球団が認めなかった為、彼と代理人はプロ野球協約の盲点を突き「任意引退」(これだと他球団へ移籍できないので、球団はこの選択肢はないと読んだ。しかし外国の球団はこれに縛られないので、移籍できたという訳です。)という形で、メジャー移籍を果たしました。
この時に彼に向けられた、怒涛のような非難を覚えています。球団OBはもちろん、球界重鎮,選手仲間,メディア,ファン、家族までもが一斉に彼を叩きました。「なぜ余計な波風を立てるんだ」「裏切り者」「代理人に騙されている」「通用するわけがない」「すぐに逃げ帰ってくる」などなど。しかしそんな孤立無援でも、後に自身が語った通り「挑戦せずに、後悔して過ごす人生は想像できない」と、彼は揺るぎませんでした。当時の社会情勢を思い返すと、私はこの言葉に胸が熱くなります。ちなみに私は、大学生の頃からバブルの狂騒を軽蔑し、社会に出たこの頃も、まだバブル崩壊を実感しない社会のお気楽な雰囲気に憤っていたので、そうした諸々を早々に見切り、米国留学に挑戦しました。私へは特に反対があった訳ではありませんが、彼と似た焦燥感に突き動かされていたと思います。なのでそんな風に、人生を賭けた挑戦の価値を貶めようとする向きには、嫌悪感しかありませんでした。と同時に、既存秩序を揺るがした時に生じる抵抗感の巨大さに、恐怖すら覚えたものです。
では、ここで視点を米国に切り替えましょう。1995年のメジャーリーグは、前年から232日にも及ぶストライキにより、信頼を失い観客が激減。NBAを引退して野球に転向したレジェンド、マイケル・ジョーダンですら愛想を尽かしてバスケに復帰してしまう程の危機的状況でした。なぜこんなことになったのか。年々高騰する選手の年棒が、球団やリーグの経営を圧迫していたのです。そこでNBAで成功していたサラリーキャップ制が提案されましたが、それを拒否してストライキに突入した選手のエゴに、大規模なファン離れが起きました。
しかも彼が渡ったロスアンゼルスは、暴動と地震の後で相当に荒れた状況でした。そこに、「メジャーへの憧れ」を実現しようと、新人最低年棒(近鉄時代から1/14に激減)で、NOMOがやってきたのです。口数も少なく、米国人選手にありがちなエゴを前面に出すタイプとは対極のスタイルだった彼を、好意的に受け止める社会背景があったと言えるでしょう。
獲得したドジャースのピーター・オマリー会長は、NOMOについて多くを知っていた訳ではないが、彼を知る人が皆「とんでもない」という形容詞でフォークボールの威力を語るのを聞き、決断したと言います(もちろん150㎞近い速球がメジャーでも遜色ない事は分かっていたようです)。それにも増してこのフォークがいかに衝撃的だったかを知るのに、もう一つのエピソードがあります。メジャーでは(すぐ手の内が読まれるので)特異な球種が最低3つは必要というのが長く通例だったにも関わらず、NOMOは2種類(ストレート・フォーク)だけで結果を出してしまいました。常識を変えてしまったのです。
変えたと言えばもう一つ、NOMOはアジア系の人に対する印象も変えてしまいました。パワーとスピードでは太刀打ちできないイメージでしたが、日本人としては初めてパワーで通用した選手となりました。現地の声によると、NOMOは「ブルース・リー以来、久々に登場した“逞しくマッチョな”アジア系アメリカ人」だったそうです。今思えば、そう言われる程に、彼は“アメリカ人”として認められていたのですね。
実際に彼が米国で成し遂げた数々の記録(初年度のオールスター先発,最多奪三振,ノーヒットノーラン等)だけでは表現できない程、当時の全米が熱狂し、「NOMOマニア」と呼ばれる社会現象にまでなりました。彼が登板する日は観客が急増。そしてそれは地元だけに止まらず、さらに日本からの野球観戦ツアーも人気となり、リーグにとって救世主となったのです。
さらに面白いのは。アメリカのスポーツ選手全般の傾向として「me-ism(ミーイズム:自己中心主義)」という言葉があった位、とにかく自分の凄さを声高に喋り続けるのが普通だったのですが、NOMOはこの点でも対極で、元々無口な上に英語が苦手なため、黙々と自分の仕事に集中する…その姿もプロ意識の体現として、一種のロールモデルとなりました。
以上ご覧頂いた通り、「この上ない逆風の最中、自分のスタイルを信じて貫いた結果、当時の社会が求める理想を体現する存在となり、大きな社会現象を生み出した」…これが、私の記憶にある「NOMO現象」です。いかがですか…0と1の違いと、そこに込められた熱量が、少しは伝わりましたでしょうか?
では最後に、野茂選手の挑戦が、日本球界に与えた影響をまとめておきたいと思います。まずは、投手が「肩を温存する」発想で先駆けたこと。今回のWBCでも球数制限がありましたよね。それに佐々木朗希投手も、かつて甲子園の決勝で登板させずに守ってくれた監督がいなければ、何らかの故障でこの場にいなかったかもしれません。2019年のこの時に、大船戸高校に殺到した批判を覚えておられる方もいると思います。1994年の野茂選手に向けられた批判は、その比ではありませんでした。実際、ドジャース首脳の調査によれば、野茂投手は近鉄で140球以上投げた試合が61試合、最多で198球投げた試合さえあったそうです。アメリカであれば即刻クビになっていると言われたこの監督が、日本球界では殿堂入りしているのですから、当時の日米差が想像いただけますでしょうか。そんなスパルタ式指導に、身体を張って終止符を打とうとしてくれたのが、野茂選手だったのです。
あとは、自らは年棒をリーグ最低水準に下げての挑戦でしたが、このように大成功したことで、後に続く選手たちに年棒の高騰をもたらしました。そしてそれが徐々に選択肢として広がってゆくにつれ、日本球界の給与水準は、1995年から10年間で平均4割も上がりました。同時期に、世の中全般は逆に5%下がっている事を考えると、凄いですよね。
さらにもう一つ、興味深い影響を見つけましたのでご紹介します。マスコミの取材攻勢に対し、英語を知らないNOMOが上手くさばけるようにと、ドジャースのトミー・ラソーダ監督が教えた単語が「Great(グレート:最高さ)」だったそうです。どんな質問にも、これを答えておけば大丈夫だと。今回の大会で、岡本和真選手がインタビューで6連発して話題になった言葉ですが、こんな所で繋がっていたのか!と驚きました(本人は知らなかったかもしれませんが…)。
以上、野茂英雄選手の挑戦が、今回のWBC優勝にどう繋がったのかを、考察してみました。いかがでしたか?ちなみに私も、冒頭の金魚のエピソードを胸に挑戦(起業)したのですが、彼のように成功はできず、何とか生き長らえています。しかし最近、私のかつての挑戦が飛び火し、期せずして色んな芽が出てきたタイミングで観たこの大会。想うのはただ一つ、今回の優勝に喜んだのなら、その原点に野茂がいた事を想起し、「人生賭けた挑戦を、無責任に邪魔しないで欲しい」です。責任ある立場で真剣に意見するのは構いません。でも関係ない立場なら、どうかそっとしておいてください。本人はすでに十分なリスクを背負っているのですから。そしてその中から幸運にも芽を出した挑戦は、いずれ多くの人が志す道となって、こんな風に大輪の花を咲かすかも知れないのですから。
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