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ハヤブサ使い Season 2 冬の楽園

関東に珍しく大雪が降った次の日、わたしはある場所を目指して朝早く出発した。雪が降る前にいちど訪れた場所だが、景色の変わりように曲がり角を間違えそうになる。軽自動車でも脱輪しかねない細いあぜ道を慎重に進む。

道の終わりで車を止め、スニーカーから長靴に履き替える。雪が音を吸い取ってくれるとは言え、できるだけ物音は立てたくない。あたりはしんと静まり、すぐ近くに国道が走っていることも忘れてしまいそうだ。はやる気持ちを抑えながら、雪に足を取られて転ばないよう、一歩一歩足を運ぶ。

水路にかけられた手製の橋(といっても大人ひとりの幅しかない細い板)の上をそろりそろりと進む。橋を渡り終えてたどり着いたのは、高台にある小さなため池だった。

予想通り、ため池は凍りついていた。釣り人たちの姿はなく、鳥の声だけが響いている。池のほとりで騒いでいるのはムクドリの群れだった。太陽が当たって雪が溶け始めている箇所で餌を探している。せわしなく動く無数の黄色い足とくちばしに目を奪われながら、わたしは彼らの小さな体から生きる喜びが伝わってくるのを感じていた。しばらくこのまま、風景と一体になり、自然に溶け込みたい。群れのなかの一羽を凝視しないよう、意識しながら観察を続ける。ほどなくして、視界をラクビーボール大の影が横切った。細長い尻尾が枯れた葦の間へ消えていくのを見守ったあと、わたしは元来た道をそっと引き返し始めた。

不思議なことに、獲物を探そうという気持ちがさほど強くないときほど、獲物によく出会えるものだ。食べられる側である獲物は、人間の気配を敏感に察する。熱心に見つめてしまうと、双眼鏡越しでも殺気が伝わってしまうのか、あっという間に逃げてしまう。雪が降って動物の警戒心が下がっているとは言え、至近距離のキジに気づかれずに観察できたことをわたしは嬉しく思っていた。

幸運が逃げる前にハヤブサを上空にあげなくては。雪に残された自分の足跡をたどりながら、車内で待つハヤブサの元へ急ぐ。つめたい風が頰をなでていく。鼻先は寒さを通り越して痛く感じる。予想や理想通りの展開にならないことも多いと知ってはいるが、少しでもハヤブサに有利な風向きになってほしいとひそかに祈る。

そっと車のリアハッチを開け、かじかんだ指先をもどかしく動かしながら、発信機の電池残量を確かめ、ハヤブサの背中にくくりつけたプラスチック板に装着する。背中に発信機がつけられればフライトが近いことを知っているハヤブサは、フードで目隠しされていても翼を広げて飛び立とうとする。

焦っちゃダメだ。無意識のうちに独り言がもれる。自らを落ち着かせようと息を吐く。左手のグローブの上で暴れるハヤブサが落ち着いたのを見計らって、リーシュとフードを外す。外したフードはなくさないように、大きな安全ピンでホーキングベストの肩紐に止める。そうしている間に、ハヤブサは頭を二、三度上下させ、かすかな鈴の音を残して飛び立った。

再び池を目指すわたしの耳に、ムクドリたちの声が飛び込んでくる。先ほどの群れがいつのまにか立ち木に移動して、警戒の声を上げている。厄介なことに、カラスもハヤブサに気がついてしまったようだ。カラスの群れに追いかけられれば、狩りどころではない。

足を進めながら、ハヤブサの姿を探す。わたしの心配をよそに、二年目のハヤブサはぐんぐんと高度を上げている。数百メートル先の家から出ている温かい空気に乗って、体力の消耗を抑えながら上昇しているのだ。カラスがちょっかいを出せないほど高く上昇したハヤブサは、青空の中にまたたく点でしかない。わたしは手製の橋の前で立ち止まり、左手のグローブを外して頭上で振り回し始めた。ハヤブサの注意を引くためだ。
ファルコナーや猟犬の近くから獲物が飛び出すことを学習したハヤブサは、高度を上げたあと、ファルコナーや猟犬の頭上に戻ってくる。ファルコナーや猟犬の仕事は、ここぞというタイミングで獲物を藪から追い出すことだが、相手は大自然である。一筋縄にはいかない。

猟犬を持っていないわたしは、上空のハヤブサを気にしながら、どこに潜んでいるか正確にはわからない獲物を探すというひとり二役をこなす必要がある。上空のハヤブサはじょじょにこちらに近づいてくる。父親のシロハヤブサのように白くなり始めた体が太陽の光を受けてキラリと光る。ずっと見ていたいところだが、ハヤブサの注意がほかへ移ってしまう前に獲物を追い出さなければならない。わたしは池のほうへ向き直り、橋を渡った。

背を向けている間にハヤブサはどこかへ行ってしまわないだろうか。ふと浮かんだ弱気な考えを振り払うように、手を大きく叩き、葦を揺らす。目指すは細長い影が消えていった茂みだ。キジよ、まだそこに潜んでいてくれ。日陰に一歩踏み出した瞬間、にごったエメラルド色がスローモーションのようにわたしの左足の前に現れた。背中にうねっている長い羽毛の一本一本まではっきり見える。

「Ho!」

すっかり染み付いた掛け声が口をついて出る。発動機のような羽音とともに一直線に飛び立つキジの後ろ姿がコマ送りのように目に焼きつく。まばたきも忘れて、白昼夢のなかにいるようだ。そうだ、ハヤブサは今どこにいるのか。半ば麻痺していた意識が急激に戻ってくる。上空に頭を向ける必要はなかった。雪原を低く飛ぶキジのすぐ後ろに見馴れたシルエットが迫る。獲ってしまうのか。自らが望んだ通り事が運んでいるものの、わたしは半ば信じられないものを見ている気持ちだった。ほんの少しだが決定的な差が縮まらないまま、二羽はゆるい登り坂をまっすぐ進んでいく。

永遠にも感じられたわずか数十メートルの追跡劇は突然の終わりを告げた。谷間に差し掛かった二羽の姿が見えなくなったのだ。まずい、と告げる直感にしたがって、わたしは雪原を走り出していた。食べられる側のキジは、決して無防備ではない。するどい蹴爪で武装しているのだ。もし蹴爪が刺さったら、ハヤブサが死んでしまうこともある。熟練のハヤブサなら、反撃される前にキジの首を噛み切って動きを止めてしまうが、生存をかけた戦いはそう簡単には終わらない。キジを抑え込める者は、この雪原にわたししかいない。

登り坂の頂上から小さな影が現れ、上昇する。ハヤブサは無事だったのだ。キジは藪のなかに逃げ込んだのだろう、どこにも姿が見当たらない。ホーキングベストのポケットから、餌をつけたルアーを取り出して、ゆっくりと振り回す。ルアーを雪の上に放り出すと、腹を空かせたハヤブサはすぐにやって来た。肉を一口で食べ終えたハヤブサに、より大きな肉を握った左手のグローブを近づける。拳のうえで力強く肉を引きちぎって食べるハヤブサを見て、わたしは安堵のため息をついた。



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