戦略的モラトリアム⑩

それから二、三日過ぎ、僕の生活がほんの少しだけ変化した。休憩中や昼休みに一人で過ごす時間がなくなったことがそれとして挙げられるが、最も大きな変化といえば、僕に新たな人間関係が構築されたことであろう。それは外見よりも内面の変化が大きかったといわざるをえない。
認めたくはないが、新しくできた人間関係は僕にとってうっとうしいものではないらしい。出逢ってから六〇時間かそこらの内にそう決めつけるのは時期尚早であることは充分承知であるが、僕には決してその人間関係がマイナス要因にはたらいていない。かえって奴らといる方がリラックスできているかもしれない。
いや、これからも少しの間、様子を見よう。彼らがどう思っていても、僕には人間関係に対して注意深くしなきゃならない過去の経験がある。僕はそう注意深くなりながらも、表向きは奴らと親しくしていた。
あっ、そうだ!決定的な変化がひとつ。僕の頭の中では今まで全てが匿名だった。「やつら」とか、「教員」「学校」……僕には固有名詞を覚える気力も意思もなかったんだ。だって、そいつらは指して僕の人生における重要な位置を占めているわけでもないし、邪魔することはあっても応援したり、助けてくれたりはしなかったからだ。第一、そいつらに僕から話しかけることなんてまずなかったからね。
でも、奴らをニックネームで呼ぶようになってから、僕はどうやら人の名前ってやつを本気で覚えようと思ったんだ。理由は分からない。でも、決して「真の友情」だとか、そんなくさい台詞のようなものからではないということだけは、かたくなに信じたかった。せっかくだから、みんなにも紹介してあげるよ。

新たな人間関係にまつわる人々

ヤス   こいつが始めて僕に話しかけてきた奴だ。見た目は厳ついが、話してみると結構優しい口調。不良ではないらしいが、とっつきにくそうである。予備校の近くの大学が第一志望らしい。予備校に来るたび、そこを通るので辛いだろうに、本人はそんな素振りひとつ見せず、毎日予備校に来ている。しかも、無遅刻無欠席で。ゴールデンウィークが終わると同時に、休みがちになる奴がいる中で、結構マジメな奴である。文系志望で学部は経済系らしい。

コン   ヤスの高校のときからの友人。見た目はでかく、バスケットボールが似合いそう。まあ、それは僕の主観だが、とにかくスポーツ万能そうな体型である。話してみるとマジメなのか、馬鹿なのか分からなくなるときがある。ああ、決して「馬鹿」っていうのは今まで僕が使ってきた奴らのようなことではなくて、とにかく突拍子もなく面白いことを言い出す奴だってこと。無論、悪い印象はない。こいつは結構早い時間から予備校の教室にいる。やっぱりマジメなのだろうか?ヤスと同じく予備校の近くの大学が第一志望らしい。文系志望で学部は法学関係。

ケイ   こいつは僕と高校が同じらしい。初めて会ったとき、僕のことを知っていた。そのときはこのグループに関わりたくないと思ったが、どうやらそんなに悪い奴ではないらしい。
      「何で俺が知ってるのに、お前は俺のこと知らないんだよ。」
      と冗談混じりになんて言われたっけ。無理もない。高校のとき、不登校の奴なんてほとんどいなかったし、その中でもたまに学校に行く僕は余計、注目の的になっていたんだろうさ。だからやつは僕のことを知っていた。それだけのこと。噂話が好きなやつではなさそうだし、明るい好青年って感じだ。同じ学校だったということで、心配ではあるが、どうやら芋づる式につるまなければならなそうだ。野球部に入っていたらしく、スポーツ分野に明るい。毎日筋トレしているそうで、背は小さくてもがっしりしている。関東あたりの体育大志望。

 それにぼくを加えた四人はそれからしばらく一緒に行動することになる。あえてここでは友人と呼ばなかった僕も、ものの見事に友人へ、更には悪友へと感化され人間関係を深いものにしていくことになるのである。

 

 さらに一週間ぐらい過ぎただろうか。僕には何年とも思える時間が過ぎたように感じる。いつもの四人組は朝、いつものように一限目の予習をしながら、とりとめもない話に花を咲かせていた。
 「英単語ってさ。要はアルファベットの羅列にしか思えないんだよね。」
 「でも、アメリカじゃこれが言葉なんだろ?価値観って様々だよね。」
 「今日の単語テストは満点取るよ、きっと。オイラは自信満々さ。」
 「はいはい。(笑)」
 なんて生産性のない会話だろう。ちょっと前の僕なら、「時間を垂れ流している。」なんて言っていたのかもしれない。でも、不思議と生産性のない、その会話が僕には尊くて仕方がなかったんだ。
そのとき、時間は確かに僕の横を駆けぬけていったのではなく、はたまた、僕自身が無意識に垂れ流しているものでもなく、僕ら四人が生みだしていたものだっんだ、きっとね。僕は確かにそう感じた。何かが始まるわけでも、何かが終わるわけでもないのに僕の周りでは、いや、僕自身も含めて、何かが根底から覆りつつあったことは間違いない。


福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》