震災クロニクル(東日本大震災時事日記)3/11③

 施設に戻った後、戦慄が走る。大津波だ。会議室ロビーのテレビに多くの人が集まる。

全滅だ……・

 誰かが呟いた。本当にその通りだ。テレビの映像は宮城県名取市のものだったが、この街にも大津波がきたらしい。浜沿いはもう駄目であろう。スタッフの中に20代の女性がいた。彼女の実家は浜沿いらしく、ただ茫然とテレビを眺めていた。家族と連絡がつかないらしい。不安と絶望でただ立ちつくしていただけだった。施設内に次第に多くの人々が集まるようになってきた。おそらくは浜沿いの人で家が流されたか、もしくは地震で家が倒壊した人たちであろう。市役所の人間もひっきりなしに押しかける。事務所は担当者や今後の対応についてで情報が交錯している。自分はとりあえずすべての会議室を開放し、毛布などの調達にあたった。その頃の自分は思考停止で何も考えず、とりあえず動いていた。

実家は浜沿いではなく、おそらく大丈夫であろう。まぁ、ほとんど絶縁状態で実家を出たので、天涯孤独の身だし気に病むこともない。

(この辺のことは話せば長くなるが、とりあえず自分は家族は大嫌い。)

 しばらくすると半身泥だらけの集団が入ってきた。老人介護施設の人たちだった。介護施設はほぼ津波にのまれ、何とかみんなで逃げてきたという。急いでストーブを着け、一番大きな会議室に案内した。本当に危機一髪だったのだろう。滑って転んだような泥の付き方ではなかった。腹部より下はすべて泥に漬かっていた。引き波にのまれる寸前で、必死に堪えたらしい。切り傷や擦り傷も無数にあった。

 この時は誰も涙することなく、ただ思考停止なのか、無我夢中で必死に動いていた。

 しばらくすると、先ほどの女性のスタッフは家族と連絡がついたらしく、急いで家に帰っていった。目は赤く、おそらくはたくさん泣いたであろう狼狽した表情、幾多の涙がこぼれたであろう頬の跡が彼女の心情を物語っていた。

 「ここは物資庫になる。」

 商工労政課の職員がそう言った。翌日からはここは物資庫になるそうだ。ここに避難している人々は翌日隣の施設に移らなければならない。館内放送でその旨を放送した。職員の間でも動揺が広がっていた。市役所の担当者が具合が悪くなり、倒れた。とりあえず事務所で休んでもらうことになり、横になっていた。やがて緊急の毛布が大量に届いた。各会議室に配り、自分たちも一枚ずつ確保した。保温性に優れ、非常に暖かい。こりゃいい。しかし、自分たちはしばらく使わないので、着替え用ロッカーのわきに重ねておいた。

 何気なくスマホを見ると、電波が微弱になっていることに気が付く。どこにもつながらない。ネットもできない。混線しているか、電波塔が倒れた影響だという。まさにどことの連絡も取れない。会社の電話も使えない。陸の孤島になっていた。水道は貯水タンクがあったので、まだ生きてはいたが、それもいつなくなるとも知れない状態であった。私たちはジワリとなにかに追い詰められているような気がした。単なる予感ではあったが、そんな気がしたのだ。それが次第に現実のものとなるとも知らずに。

 深い闇が辺りを覆った。震災後初めての夜が僕たちを包み込み、不安な夜が始まったのである。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》