麻薬売人が女の子を掌で転がす話
「おねがい、おねがい。これでもうすべて。わたしのすべてを使った。もう集められない。もう何も持ってない。空っぽなの、おねがい……ねぇ」
ラムズは床で跪く女を冷たく見下ろした。掌をそっと天井に向け、人差し指に芒と青炎を灯す。指の腹が煙草の先に口づけをして、空中がコバルトに滲んだ。女は焦がれるように煙を目で追っている。
「足りねえって。金額は伝えてあっただろ」
「だけど……。もう彼を裏切れない。屋敷の方もよくしてくれていて……」
「じゃあ、やめたらいい」
ラムズは一向に彼女を見ないまま、そばにあった椅子へ腰掛けた。青く染みた煙が部屋を上っていく。
「す、少しでいいから……」
彼女の眼が挙動不審に蠢く。
「今吸ってる、それ。おねがい……。ちょっと、吸わせて」
「またやめらんなくなるよ」
「でもそんな、さ」
──目の前で吸われたら、煙が喉を刺激したら、薬への欲求が抑えられなくなる。女の指先が小刻みに震える。ラムズの座る椅子まで体を引きずった。
「次は、次はもう少しいいものを持ってくるから。情報もお金も、宝飾品も……。おねがい。もう怪しまれてるの、気づかれてるの。だからこれ以上したら、わたしが追いだされちゃう……」
女はわっと顔を覆って泣きはじめた。自分でも何を言っているのかわからなくなる。頭痛に悩まされているのも、情緒がぼろぼろなのも、きっとこの涙も、すべては『フシューリアの生き血』のせいだった。
「ローガンが。ローガンはわたしのことまだ好きだって。愛してくれるって、結婚してくれるって言ってくれたの。だから、だから幸せになりたいの。おねがい、お願い……。幸せになれる薬でしょ? ちょうだい。ラムズは優しいでしょ? 優しかったじゃん」
「お前、あの男と結婚すんの?」
軽く笑うと、煙草の先を指で叩いた。彼女の髪にふんわりと蒼い粉が飾られていく。
「……え。だって」
視線が激しく左右に揺れる。喉がいやに苦しい。何かに気道を塞き止められているような気がする。
「どうするつもりだったの、俺に体を許したってバレたら」
ラムズは喉の奥から湿った嬌笑を流し、はあ、と長い息を宙に這わせる。女の視界に白濁の薄膜がかかった。
「ちが。あれは。だからあれは薬が……。薬のせいで、その。だから、あれは違くて」
彼女は視線を落とし、埃の被った床を何度も摩る。心臓のばくばくが自分を責付いている。これも薬のせい。あれも薬のせい。そうだ、あの行為も薬のせいだった。気の迷い……いや、でも。自分の意思だった気もする。
あの日は──いや、あの日だけじゃない。彼はいつも魅力的なのだ。ローガンと話しているときよりもときめき、平穏と幸せにはにかみ、彼になら何を任せてもいいような気がしてしまう。『フシューリアの生き血』よりなにより、彼自身がいちばん麻薬みたいだ。
そう。だってかっこよくて、優しかったんだ。ローガンとの関係に悩んでいた自分に手を差し伸べ、丁寧に応え寄りそってくれた。不安で寂しい気持ちを解消してくれて、自己の至らなさを埋めてくれた。
だけど──。
彼女の頬を冷たい指がそっと触れた。
「あのとき言ってたの、嘘だったの?」
目の前でしゃかんだラムズが、わずかに顔を傾け、縋るように瞳を潤ませた。女は熱い唾液を喉の奥へ押しこんだ。
『好きって言ってくれたじゃん、俺と一緒にいたいって。愛してるって言ってなかった? 全部をくれたんじゃなかったの。もう嫌いになっちゃった?』何も言われていないのに、頭の中で彼の甘く寂しげな声が回りはじめる。深い渦の中で心がのぼせていく。
この媚薬めいた陰りのある表情も、物憂げで蕩けるような声色も、すべて嘘だ。本物じゃない、だってさっきもあんなに冷たい顔で、
「ごめんなさい。違うの、ちがう……。そう、本当は好きなの。ラムズのほうが好きなんだけど、でもローガンがね。彼がどうしてもわたしと……。でもあなたと結婚できたらとっても嬉しい。本当に本当に」
ラムズはにっこり微笑んで髪を揺らした。
「もういいよ、ありがとう」
安心したように女が肩の力を抜くと、ラムズがすっと腕を伸ばした。抱いてもらえるのかと思い、小さな緊張に目を瞑った。だがいくら待っても彼の腕が自分を包むことはない。
ゆっくりと瞼を開けると、いつのまにか椅子に座りなおしたラムズが自分の鞄を漁っているのが見えた。
「えっ!? な、なに。取らないで!?」
「そうだよな、すべて渡すわけねえよな。かといって、幻覚のせいで持ち歩かないと不安だろうし」
「返して、勝手に取らないで!」
女が手を出すと、ラムズはさっと首を回した。紺碧の鋭い眼差しが心臓に杭を打つ。
「他の売人よりよほど優しいだろうが。これぐらいでぐだぐだ抜かすな」
ラムズは近づいていた女の耳を掴み、そのまま床から持ちあげようとする。きりきりと皮膚が伸び血管が悲鳴を上げる。
「それとも遊んでほしいか? 耳が弱いんだっけ?」
唇を吊りあげて嗤う。
「ご、ごめんなさいごめんなさい。ごめんなさい。や、やめて、やめてください」
ラムズがぱっと手を離し、彼女は転げるように床へ落ちた。彼は嘘のように明るい笑みを繕う。
「そう、そこでいい子にしてて」
もう一度鞄に視線を戻すと、彼女が蓄えていた金貨、銀貨を自分の懐に入れていく。
「それ取られたら……私、明日のご飯、が」
「知らねえよ」
涙に暮れる彼女には見向きもせず、ラムズは鞄をひっくり返した。ローガンからのちゃちなアクセサリーを見つけ、ゴミとばかりに床へ落とす。女は泣き腫らした目で大切そうに拾い、胸の前で手に包んだ。
「あ」
ラムズの声に、彼女ははっとして顔を上げた。
隠しておいたのに。鞄の底のポケットに入れて見られないようにしてたのに。
「あると思ったんだよな」
小ぶりのダイヤのついた指輪を細い指で掴み、左右にゆっくりと回した。傾けるたびに白く瞬き、カットが虹色の煌めきを見せる。
「そ……それは。あの、ローガン、が。だから……」
「けっこうなダイヤだ。よく買ったな」
「ローガンが貯めてくれたの! わたしのために! 今までずっと貯めてきてくれたお金なの!」
ラムズは依然、ダイヤモンドに視線を縫いつけている。
「へえ。それなのに裏切ったんだ?」
彼女はさっと頭を下げた。握っていた手に汗が滲んでいく。額や頭皮がじんわりと濡れ、口の中がベタつく。
「違う、ラムズが。ラムズが誘った」
「金の代わりに抱いてくれって、お前言わなかった?」
「それは……。でも。いいって言ったじゃん! あのときだって嬉しいって、好きって」
「悪い悪い、わかったよ。俺が悪かった」
謝ってくれた。ほんの少し光芒が見えた気がして、女の声が上擦った。
「そ、そうでしょ? わたしは悪くない。あなたが求めたの。わたしの体も気に入ってくれてたでしょ?」
「体? まあ、……体か? 一度でも抱けばもっと金のために働くと思ったからな」
「は? え?」
理解の追いつかないうちに、ラムズはこちらを見てダイヤの指輪を小さく揺らした。
「だが支払いが足りてねえのはたしかだから」
彼は席を立つと、空になった鞄を彼女へ寄越した。もちろん指輪は彼のポケットに入ってしまっている。
女はまた怒ろうとしたが、それよりも薬の欲望のほうが強くなっていることに気づいた。
「待って、まだ行かないで……。薬は? くれるよね? その指輪、高かったって聞いたよ」
「これは今までのぶん。今日のぶんはもらってない」
彼女は立ち上がり、ラムズの袖を掴んだ。
「じゃ、じゃあ……この前みたいに抱いていいから。ね? お願い。一日分くらいなら……いいでしょ?」
ラムズは口元に青い煙草を近づけ、ゆっくりと首を傾げた。表情の抜けたような笑みが降りる。
「もういらねえんだわ、お前」
ぞっとするような声だった。
呆然と立つ女の手を掴むと、冷たい指先で丁寧に彼女の掌を広げ、新しい煙草を一本のせた。
「これで最期ね」
女の顔色がみるみる変わり、痙攣する指で必死に煙草を持ちあげた。小声で魔法を唱え──何度か呪文を間違え言いなおした──火を灯す。
やっとだ、やっと吸える。高鳴る気持ちを抑えられない。がくがくと震える唇に指先を近づけた。落としそうになるのを左手で支える。煙を吸いこみ、肩を大きく上げる。あぁ、これだ。これがほしかった……。
だが取りこんだものの代わりに息を吐こうと体を丸めると、代わりに細かい泡が吹きだした。泡はみるみる紫に変色し、零れた唇からしゅーしゅーと音を立てて肌を蝕みはじめる。
「っ、あ。あ、ッツ。た、け……」
彼女の体が床に倒れる。いくら喉や肌が焼け爛れても、一向に意識が消える気配はなかった。胃の中が火のように熱い。喉がひりついて異常な痒さを感じる。顔が、目が、頭が。
「あーあ、痛そ」
正しく『フシューリアの生き血』を吸っているらしいラムズが、青い煙を漏らしながら呟く。女はなにか言おうとしたが、もう声にならなかった。
彼が背を向け部屋を出ていく。ブーツヒールの振動を感じながら、女の肢体は毒に溶けて露と消えた。
ラムズ他短編
Vermythic Worldやラムズについて
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