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#38 震える声

こんなに気持ちが落ち着かない日は初めてだったかもしれない。中山さんの奥さんが入院した。容態はどうなのか、入院した原因は何なのかが気がかかりなまま今日の仕事が終わろうとしている。

週末に、私たちが一晩一緒に過ごしたことを奥さんに気づかれたんじゃないかという心配がずっと頭から離れなかった。

奥さんの入院と私たちのことは関係ないはずだと打ち消しても、もしかしてという不安がまたすぐに湧き上がる。もし奥さんがそれを知って倒れたんだとしたら・・・私のせいだ・・・そう思うと罪悪感が心に広がった。

でも同時に中山さんが奥さんのそばで心配そうに看病している姿も浮かんでしまって、罪の意識と嫉妬の感情が代わる代わる襲ってきた。

何度スマホをチェックしても、私が中山さんに送った「何かありましたか?」というメッセージへの返信はないままだった。終業時間が近づいたころ、耐えきれずにもう1通ラインを送った。

「奥さんが入院されたと聞きました。奥さんの具合はいかがですか」

会社の単なる同僚が奥さんの病状を心配して送ったような、あまりにも定型的な文面を読み返して気持ちが沈む。何かあったときに中山さんの状況がすぐにつかめない、直接声が聞けない。何も対処できない自分の立場というものを思い知らされる。

送った文字をしばらく見つめていたけど既読はつかない。でも自分から電話をする勇気はない。中山さんからの連絡を待つしかないんだ。私はどうにもならない気持ちを無理やり心の奥に押し込めた。

今日は中山さんがいないから、いつもより気をつけて仕事をしなくちゃいけない、ミスをしないようにしなくちゃと意識しながらの1日で、時間がいつもの何倍にも感じられた。

やっと、時計の針が終業時刻を告げる。

そこからオフィスの空気は少しずつ緩んでいったけど、私は緊張しながら働いたせいで起こっていた頭痛が重くなっていく。もう今日はすぐにここを出て、家で中山さんからの連絡を待とう。あまり考え過ぎずに自分は自分のペースで動かなくちゃ。きっと今日中には連絡をくれるはずだよね。

そう思いながら、まとめた資料を机の引き出しに片付けようとした瞬間にオフィスの電話が鳴った。その音に反応して頭がズキンと揺れて、なんだか嫌な予感が不意に浮かんだ。

白木課長を見ると別の電話で誰かと話している。事務の片岡さんはさっき給湯室に入って行ったのが遠目に見えていた。電話は私が取ったほうがいいんだろうととっさに思ったけど、なぜだか変なためらいを感じる。だけど迷っているわけにもいかないし、お客さんであれば3回目のコールまでに取ったほうがいいだろう。

3回目のコールが鳴り始めた瞬間、私は慌てて受話器に手をかけて、耳に当てた。

「はい。藤野設計でございます」

反応が返ってこない。嫌な予感が強くなる。電話の相手が沈黙している。かすかに戸惑っている気配が伝わってくる。もしかして中山さんの奥さんじゃないかという嫌な予感。その予感が現実になるかもしれないと思った瞬間に心臓がドキドキとスピードを上げ始める。

話さない電話の向こう側の誰かに、私はおそるおそるもう一度声をかける。無意識に視線を中山さんのデスクに向けながら。

「・・・もしもし、藤野設計でございますが・・・」

それからその誰かがスッと息を吸う音が聞こえたような気がしたあと、わずかに震える小さな声が、私の耳に届いた。

「中山の妻でございます」

私は受話器を握り締めたまま、言葉が出なくなった。


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#短編小説 #超短編小説 #中山さん #混乱 #電話 #入院

中山さんはシリーズ化しています。マガジンに整理しているのでよかったら読んでみてください。同じトップ画像で投稿されています。

続きはこちらです。

第1作目はこちらです。ここからずっと2話、3話へと続くようなリンクを貼りました。それぞれ超短編としても楽しんでいただける気もしますが、よかったら「中山さん」と「さやか」の恋を追ってみてください。

『中山さん』シリーズ以外にもいろいろ書いています。よかったら覗いてみてください。



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