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寂しいときどうするん?

寂しがりの友人男性がいて、聞いてみた。

「寂しいときってどうやって乗り越えてるん?」

答えは「我慢する」だった。


我慢する。そっか、基本的にはそれしかないんやね。そりゃそうだよね。

夜寂しいとき、夜中遅くに寂しいとき、ひとりぼっちでも我慢する。寂しさを抱えて我慢する。

「前は寂しくなかったん?」
「前は賑やかだったから寂しくなかった」

そうなんやね。私は賑やかでも寂しいんよね。それってつまり私のほうが寂しがりなんかな。寂しがり選手権があったらもしや優勝できるんじゃないか、なんてね。

困ったな。うまく恋愛できるかしら。バランスよく誰かを好きになれるかしら。依存しすぎたりとかさ、寂しくて連絡しすぎたりとかさ、そういうのはしたくない。大人なんだし加減をちゃんとしたい。

でも一方で、もうなんかずっと寂しさや孤独感に苦しんできたんだから、これ以上我慢したくないとも思う。だから私が無理にバランスをとろうとしなくても、そのままの私でいてもうまくいく人と出会いたい。

なんて、無理かしら。

恋愛って、誰かとの関係って努力が必要だってわかっています。自分のしたいようにだけしててうまくいくはずがない。そんな奇跡みたいなことはなかなかないよね。やっぱり相手の状況とかをちゃんと考えてそれに合わせた対応しないと関係性は続かない。

でもこの「相手に合わせた対応」が曲者なんだよなぁ。私は相手が自分に何を望むかを察知してそう振る舞おうとしてしまうところがあって、これまたその加減がもうなんかいまはよくわからなくなっている気がする。

合わせすぎるといつの間にかしんどくなる。友人ならいいんだけどね、過ごす時間がそれほど長くない。でも恋人とかパートナーとかってことになると、自分らしくいられないとしんどいよね。

でもじゃあ自分らしくって、どんな?

noteをはじめて早いころに私の文章(もしくは私)は禅問答だと表現してくれたかたがいて、そのことを思い出した。私は自分自身がよく見えていない。

私は落ち着いていてしっかりしていると言われるし、明るいしよくしゃべるし、ほんとそういう感じなんだけどね、だから人の内面ってわからないもんだよなぁと自分の身をもって感じてしまう。

で、結局のところ、もうなんでもいいからホッとできる大好きな人の腕のなかに潜りたい。

結婚したとき「私はここにいていいんだ。私の死ぬまでの居場所を見つけたんだ」と思った。何不自由なく親に愛されて育ってきた私なのに、死ぬまでいていい居場所を求めていた自分がいた。

その居場所は確かに死ぬまでいていい居場所だったけど、大切に抱きしめてもらえる場所ではなかったから心がダメになった。

私が相手を大切にすることができなかったからかもしれないと今でも思わなくもないけど、多分そうじゃないんだとも思う。とにかくしんどい人だった。

もう一緒には絶対に暮らしたくない。私とは違う場所で元気でいてくれたらいい。どうか元気で。たくさん傷つけたし、それ以上に私は心やられた。終わりにできて本当に良かったと思っていて、離婚に後悔はない。自由になった。

焦っちゃダメだと思うけど、それでも私は心安らげる誰かと出会いたいと日々思ってしまいます。

今日は思う以上に長い文章を書いちゃったな。途中から一気に書いてしまった。なんか久しぶりに気持ちをさらけ出した気がします。迷う自分、無限ループな自分、弱い自分、そういうのをワーッとね。

最後まで読んでくれてありがとう。



お気持ち嬉しいです。ありがとうございます✨