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こんな夜更けに独り言

クラゲというのは存在そのものが幻想的ですね。ゆらゆら揺れるクラゲの写真をトップに選ぼうとしたんだけど、どれも素敵すぎて選ぶのが大変でした。コロナがあけたら水族館に行ってクラゲをのんびり眺めてみたいな。

少しいまから独り言っぽいものを書きますね。

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私が何かを言う。誰かがそれに答える。それを聞いて私がまた何かを言う。何か決めたことを伝えるとき、自分が想定しない方向に流れていくことがある。こういうときに物事って一人で決められることじゃないんだなと思う。自分は一人で生きているわけではない。そういうことを実感する。

こちらの投げかけに対して、相手は感情を伴った意見を返してくる。その感情の大きさが自分が想定していた範囲を超えていたなら、私が進められる方向も変わる。描いていた道が少し、また少しとズレていき結果的には思っていなかったところを歩いてしまう場合もあるんだろう。

よく私は進むべき道が見えないと苦しんでいたけど、進むべき道がやっと見えてきた今もいろいろな状況に揺られ、それなりに混乱している。あの人はこう言っていたのに、いつそんなふうに変わったの? あの人はああ言っていたのに、少し違う方向を向いたよね? みんなそれぞれが、自分に向けて見せられた新たな感情に揺られて新しい感情を投入するから、何もかもがわずかに変化し、そのわずかがわりと大きな変化に繋がる。

一番大事にすべきなのは自分の感情だとnoteに来て教えられた。あの人の気持ち、この人の気持ちを考えていたら何を第一優先で考えたらいいのかさっぱり分からなくなる。自分の人生だから自分の気持ちを一番大事にしなくちゃいけない。そう思い込もうとした。だけど誰かが苦しんでいるのは好きではない。それが私が原因だとしたら知らない顔をできるのか。そのことで傷つく自分にも知らない顔をできるのか。

それでもどちらにも知らない顔をすべきなのか。そうしないと私は次に進めないのか。自分が何を探しているのか。でも本当はもう私はその探している何かのなかにいるんじゃないの? 何度も問う。これまでたくさんの時間を費やして見えなかったことも見えた。それは私が本来求めていたことのような気がする。だけど今の私はそれが見えてうれしいのかというと、よく分からない。

私は前ほど寂しくなくなった。寂しがることに疲れたのか、寂しがる必要がなくなったのか。どちらかは分からない。何かを失えばはっきりと分かるんだろうか。そんなことを考えてみる。でも何かを失ってみるのは怖くて、それはできない。いずれにせよあまり突き詰めると心によくないので、突き詰めないようにするという行為が上手になったらしい。意識的に考えないようにする感じ。然るべきときが来てから考える。それができるということは、突き詰めなくて済む精神状態にいれているということかも。少し心が強くなったのかな。

やりたいことがある。やってみたいことがある。見たい姿がある。その気持ちはわりと強くなってきたように思う。

独り言おしまい。

お付き合いありがとう。

おやすみなさい。


お気持ち嬉しいです。ありがとうございます✨