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狂気の母娘

わたしは、本気で母を殺したいと思ったことがある。

あのときのドロドロした漆黒に吸い込まれるような感覚は、
狂気そのものだった。
幸い、わたしはその狂気と正気の間で、
何とかギリギリのところでもちこたえた。

36歳のとき、わたしは大好きな彼と、温かな穏やかな幸せの中にいた。
婚活目的のマッチングアプリでの出会いということもあり、
お互い交際当初から結婚を意識し、2人でいろいろな話をし、
ときにはぶつかり、ときには慰め合い、そのたびに2人の絆を深めた。
そして、約半年後に結婚を決めた。

その年のクリスマス、わたしは彼の家族に初めて会った。
場所は老舗の高級中華料理屋さんだった。

彼の家族は、絵に描いたような家族だった。
政治家だという父に、専業主婦の母、
航空会社のパイロットの兄にその奥様とかわいい子どもたち。
そして、早稲田大学を卒業した弁護士の彼。

「完璧」だと思った。

この家族こそ、私が理想として思い描いた、夢にまで見た「家族」だ。
目の前にいる「理想の家族」は、笑顔でわたしを迎えてくれた。
和やかな雰囲気のなかで、わたしは「家族」の安心感に包まれた。

お互いを尊敬し、思いやる「理想の家族」の会話に、
加わることができた「わたし」。
その雰囲気は、「理想の家族」が、
わたしを「新しい家族」として受け入れてくれたことを意味していた。

帰り道、彼はとても満足そうだった。
家族と別れ、彼と2人帰り道、彼の両親から彼にLINEがきた。
「とっても素敵な人に出会えてよかったね。本当にお似合いで、
素晴らしいお嬢さんだ。幸せになってください。」

彼は、そのLINEをとても嬉しそうにわたしに見せてくれた。
「みえこを紹介できてよかった。あんなに嬉しそうで楽しそうな両親、
久しぶりに見たよ。改めて、結婚してほしい。幸せになろう」

その日、わたしは間違いなく、幸せの絶頂にいた。
36歳まで、がんばってきてよかった。
今まで生きてきた道が、間違っていなかったと思えた。

この日のために、わたしは、必死に勉強をし仕事をし、
誰にも恥ずかしくないキャリアを手に入れてきた。
自分の容姿も、教養も、マナーも、話し方も、書く文字も・・・
あらゆることに投資し、自分自身を磨いてきた。
不器用な失敗を繰り返しながらも、
誰にでも好かれるコミュニケーション力を身に着け、
必死にわたしは「わたし」を創りあげてきた。

わたしは、わたしの「家族」をやり直すために。
「家族の幸せ」を知るために。

人生最大の願いを叶えようとした矢先、
わたしはわたしの「家族」によってそれを奪われた。

彼の家族との顔合わせから数日後、大みそかの日。
わたしは彼を、わたしの母に会わせた。

なるべく、短い時間がよかったのでお茶を選んだ。

なぜなら、わたしは母が苦手だからだ。
いや、母の存在が恥ずかしいからだった。
食事のマナーが身についていないところも、
浅はかで知性のない話題選びも。
なにより母の醸し出す「なんとなくの不幸感」が嫌でたまらなかった。

わたしの嫌な予感は、的中した。
なぜ、こんなにも嫌な予感というものは現実化するのだろうか。

彼と対面した母は、とても舞い上がっていたのだと思う。
容姿端麗で、弁護士で、とても優しい彼。
彼は、母にも温かいまなざしを向け、たくさん話をしてくれた。

彼が必死で話題を提供したり、自分のことを話してくれているなかで、
母は、彼の目を見ようとしなかった。
そしてあろうことか、いきなりわたしの悪口を話し出した。

「この子は、いつも仕事の文句ばっかり言ってたのよ!」
「この子って、わがままでだらしなくて、お金遣いが荒くて、
どうしようもないでしょう」
「この子は、弁護士秘書をやってるけど、実際は会議のお弁当のゴミ処理ばっかりなんだって。弁護士っていえばさ、〇〇先生と仲良かったよね!
あれからどうなったの?」

もう意味が分からない。
この人は、本当に頭が悪いのか、、何も感じていないのか。
娘が必死の想いでつかもうとした、その一世一代の幸せを、
実の母が、それを笑いながら壊している。

「弁護士秘書」をやっていたのは何年も前だったし、
その当時は外資系コンサルティング会社に転職して数年たっており、
自信をもってキャリアを築いていた。

転職したことも、仕事をがんばっていることも、
母には話していたはずなのに。
いったい何を勘違いしてこんなことを言っているのか。
そもそも、母は自分が何を話しているのかわかっているのか。

彼の温かいまなざしが、どんどん疑いと混乱と不安、
そして軽蔑に満ちていくのがわかった。

「終わった」と思った。
なんとか無理やり切り上げ、母と別れた。
彼と2人になって、わたしは必死に言い訳を考えた。
すると彼は「個性的なお母さんだね」とだけ言った。
その目は、もう愛しい女性を見るそれではなく、
冷たさと軽蔑が滲んでいた。
その後、当たり障りのない会話しかできず、彼と別れた。

その日の夜から、彼と音信不通になった。

わたしは、何度も電話して、LINEもした。
だけど、彼から連絡が返ってくることはなかった。
彼の家にも会いに行ったが、出てもらえなかった。

2週間後、彼からLINEがきた。
「正直、君のお母さんと家族になりたくない、なれないと思った。
どこかおかしい人だと思う。結婚はできません。ごめんなさい」

それは、わたしが夢にみた「結婚」と「理想の家族」を
失うことを意味していた。

「絶望」なんてものじゃなかった。
彼からの連絡が途絶えた1月1日から、
わたしは本当にベッドから出られなかった。
手に入れようと必死に努力し、やっとそれを掴めると思った幸せが、
目の前からぱっと消えた。しかも、それを奪ったのは実の母だ。

彼と音信不通になったこと、結婚がダメになったことを母に伝えたとき、
母は呑気にテレビを見ながらアイスを食べていた。

そんな母を前にして、わたしの中で、何かがはじけた気がした。

とにかく母を罵倒し、殴った。
わたしは、本気で母を殺したいと思った。

「おまえのせいだ、全部おまえのせいだ!」
「わたしの努力を全部無駄にしやがって!いい加減にしろ!死ね!!!」
「いなくなれ!バカ!生きる価値なし!
実の娘の幸せを踏みにじって楽しいか?」
「母親失格だな!お前から生まれたことを呪ってやる!」
「わたしの人生、めちゃくちゃにしやがって!わたしの人生を返せ!!」
「つーか、なんで産んだんだよ!
娘にこんな思いさせるために、おまえは子どもを産んだのかよ!」

考え得る、この世に存在すると思われるすべての罵詈雑言を浴びせた。
もっと母を傷つけ、後悔させ、生きる希望を踏みにじる、
再起不能にさせるような邪悪な言葉はないか、と頭を振り絞った。

だけど、どれだけ罵詈雑言を浴びせても、涙が止まることも、
わたしの激しい感情がおさまることもなかった。

それは、母への復讐そのものだった。
「結婚」という大きな希望を失った「わたし」だけではなく、
不条理に母から暴力を受けた「幼いわたし」が復讐をしたのだ。

わたしが幼いころ、母は何かの拍子で機嫌が悪くなると、
帰りの車の中で、大声で私を叱責し、手を挙げるのがお決まりだった。
わたしは、つねられたり、叩かれたりした。
母の激しい感情の波を真正面から受け入れるのがわたしの役割だった。

友達とのお出かけを控えた前日、母と些細な事でケンカをしたら、
お出かけのために買ったわたしのお気に入りのブラウスを、
母はわたしの目の前ではさみで切り刻んだこともあった。

幼いころからずっと抑えていた感情が、もう行き場所を失っていた。
悲しみと寂しさが大きな怒りの渦となり、
わたしは老いた母にそれを容赦なくぶつけた。
もう目の前の母は、幼いころみていた「恐ろしいヒステリックな母」とは
まったく違うのに。

目の前で、小さくうずくまり、わたしの暴力と暴言に耐える母。
無抵抗な母に暴言を浴びせ、殴り蹴るわたし。
それはかつての「幼いわたし」と母の関係が逆転した、そのものだった。

老いた無抵抗な母を殴り、暴言を吐くたび、
わたしは楽になるどころか、さらに追い詰められていった。

そんな生活が1ヶ月ほど続いたある日、母から手紙を受け取った。
「あなたの幸せを壊してごめんなさい。
みえこと彼が眩しくて、直視できなかった。
社会の底辺で生きる、こんな母親でごめんなさい。」

謝られても、どれだけ後悔を口にされても、全然すっきりしない。
そしてわたしは、母に、こんなことを言わせたかったわけじゃない。
どうしようもなく、涙が溢れた。

暴力と暴言では楽にならない、解決しないと悟った。
しっかりと向き合わなければと決心がついた。

母と対峙し、幼いころ受けた暴力で傷ついたこと、
両親の離婚で、親からの愛を感じられず、家族の愛に飢えていたこと、
それがきっかけで自分を傷つける恋愛をたくさんしてきたこと、
ときには倫理的な道を外れた恋愛もしてきたこと、
お金を払って心理学や恋愛を学び、
幼いころの自分の心の傷を癒してきたこと、
人生をあきらめたくなくて、仕事やキャリアにも邁進してきたこと、
結婚して幸せな理想の家族を手に入れようと必死にもがいてきたこと。

母に話すつもりなんてなかったのに、ひとりでなんとかしたかったのに、
これまで抱えてきた想いを、泣きながらすべてぶつけた。

母にわかってほしかったわけじゃない。
謝ってほしかったわけでもない。
母を見下し、軽蔑したかったわけでもない。

母と対峙してわかったことは、
無意識に私の幸せを壊した母の「不安」や「弱さ」に、
私の「不安」と「弱さ」そのものを投影していた。

ずっと傷ついた過去に留まり、自分を押し込めていた。
母から受けた心の傷を原動力にしながら、
たしかに様々なものを手に入れてきたけど、
ずっと「傷ついたかわいそうなわたし」に甘んじて生きていた。

彼との結婚が破談になったのも、本当は母のせいではなく、
母の件はきっかけに過ぎず、
きっと、何か違和感や不安があったときに、
2人で話し合って解決するだけのお互いへの信頼や関係が
築けていなかっただけなのかもしれない。

そもそも、「傷ついたかわいそうなわたし」を卒業し、
「幸せなわたし」になる覚悟が、わたしにはなかったのだ。

人生で起こる不幸や悲劇を、自分以外の誰かのせいにして、
わたしは逃げていたのだ。
自分の人生を、ひとりで受け止めるだけの覚悟と責任が、
わたしには欠落していた。

わたしは「不安」や「弱さ」を狂気に変えることで、
傷ついた自分自身を守ろうとしたのだ。

いまならわたしの弱さも不甲斐なさも、全部抱きしめてあげられるのに。

そこから、わたしは母と物理的に距離を置いた。
同居を解消し、それぞれひとり暮らしの道を選んだ。

あれから3年がたった。先日39歳を迎えた。
相変わらず、わたしは独身だ。

あれから、何回か恋をした。
いずれも、結婚に至るまでの恋ではない。

だけど、自分の人生の責任を取り戻したわたしは、
前よりずっと生きるのが楽になった。

何が起きても、自分のせい。
ということは、自分の責任で、
全部好きなように人生を創っていけるということだ。

母との関係も、着かず離れず、
ちょうどいい塩梅の関係を築きなおしている。

それは、精神的に「親を捨てる」ことができたことが大きい。
親だと思うから、苦しくなるしつらくなる。
子どもだと思うから、捨てられず苦悩する。

だけど、何が起きても、誰のせいでもない。親のせいでもない。
もうわたしは、ひとりの人間だ。
自分の人生で起きた出来事の後始末ができる
「オトナ」というものに少し近づいただろうか。

とここまでで、ドラマや映画だったら、きれいにまとまって、
その先の未来は幸せなまま延々と続いていくのだろうと
思わせてくれるけど。

いかんせん、人生は続く。
母との関係も続く。
きれいごとにはなかなかできない。

現実は、問題は山積みだし、
いまでも母の一言にイライラするし、ケンカはするし、
苦しい母娘関係であることには変わりない。

でも、わたしは決めている。
親なんて、いつだって捨ててやる。
絶対に、わたしはわたしの幸せを優先する。

それまでは、もうすこし母娘でいてあげるよ。


#創作大賞2024
#エッセイ部門


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