中国大返し 自分ならこうします。

230kmもの道のりをわずか10日間程で行軍して
仇敵・明智光秀を打倒した中国大返しの計略。
記録によれば秀吉軍は約二万という数字が大まかな所だろう。
ただ最近の調査結果では秀吉が備中を出たのは6月6日であり、
大阪の富田に着陣したのが6月12日だという。
つまり6日間で既に大阪入りし陣立てを行っている事になる。
しかしこの二万人のうち、いわゆるプロと言えるお侍さんが
何人いただろうか。
指揮系統はきちんとした武将だろうが
当時の合戦の兵力数のほとんどは足軽であったり、
あるいは傭兵集団のはずである。
足軽は招集された農民による兵団であり、
そう考えるならば以下の事が可能ではないだろうか。
―というより自分が軍師または秀吉ならばこうするだろう。
まず指揮官となる主要な武将たちは先行して騎馬で移動する。
伝令部隊数十名は東兵庫及び西大阪付近に先行して募兵を行う。
そして毛利攻めに従軍していた足軽には恩賞を与えて現地解散させる。
伝令部隊が旧信長シンパを糾合し兵力を募る事も可能だろう。
早馬を飛ばして三千~五千も集められればかなりの戦力になる。
長旅で疲弊した農民兵よりはかなりの戦力になるだろう。
何せ天下取りがかかっている。
恩賞など糸目をつけなければ
かなりの人間も招集出来るのではないだろうか。
加えて当時秀吉が水軍を引き入れている事を考えると
船による海上輸送も可能だったかも知れない。
陸軍についても大阪一番乗りを果たした集団には
倍の恩賞を与えるなどすれば生活がかかっているだけに
がぜん進軍速度は上がるだろう。
いずれにせよ、ただ陸路230kmを行軍させたのではなく、
このように多角的な作戦を用いれば、
無理に毛利攻めの兵力をそのまま移動させるより
はるかに効率が良かったのではないだろうか。
陸路を二万の軍が移動するともなると渋滞も起きる。
後続の集団はなかなか速度が上がらないだろう。
それならば精鋭数千のみを行軍させたり、
海路を使って兵力を分散させたほうが効率も良い。
最終的に現地で落ち合えて、
現地の足軽や近隣の傭兵、そして信長のシンパらを糾合すれば
電撃戦で6日のうちに富田で陣立てが出来たのではないだろうか。
この計略の肝は伝令と招集のスキルにかかっている。
用いるなら「ねずみ講」式招集法だ。
紹介者には恩賞が与えられるともなれば、
戦争の恩賞だけでなく参加者を集めるだけで金になる。
なにせ天下取りがかかっている。
手段や金の算段などいちいち気にしてはいられまい。
現在の資料などによると―
当時の京都の人口は低く見積もっても20万人。
大阪の堺の人口が約3万人。
労働者人口を半数とし、農民の比率は9割なのだから
1万の農兵や傭兵を伝令到着後の2~3日で集めるのは
確かに大変だが―
ねずみ講式募集なら出来なさそうでもない気がする。
これらはあくまでも自分ならこうしますという
特別に兵法をかじっている訳でもない愚者のお遊びの理論ですが
こういう妄想こそが世の楽しみの一つだと思うばかりなのです。
さて皆さんならどうしますか?
駄文・長文失礼しました。







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