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【名古屋コミティア62】試し読み『砂漠に落ちろ、最後の涙』

2023年3月26日(日) 名古屋コミティア62
スペースF-30 サークル『Lovers&Madmen』で参加します!

こちら頒布予定の拙著『少女ジョイライド』に収録したSF短編『砂漠に落ちろ、最後の涙』の冒頭部分となっております。
読んで貰えて、当日に会場でお会いできれば嬉しいです。
表紙絵はAI生成したものです

以下、冒頭部分となります。


老人の前には見渡すばかりの荒野があった。この景色はいつまでも変わらない、と彼は思う。ただあるのは岩と砂。そして竃の奥から吹くような熱風。これがこの老人にとっての原風景だった。あの審判の日に至って、全ての都市が灰と消えても、この景色は変わらなかった。国境付近のこの地は、元より荒野ばかりで、大した街などなかったからだ。
大地を見渡せる小高い丘の上に、その男はいた。幾日も洗ってない白髪。幾日どころか幾週も洗ってない泥色に汚れたシャツ。焼けて焼けて、これ以上焼けようのないような赤銅色の肌。黒ずんだシミだらけの顔には深いシワが刻まれており、あたかも古い木彫りの人形を思わせた。白い髭といえば、管理されなくなった畑の雑草めいて伸び放題。身体は干からびたカエルのように瘦せぎすだった。老人の姿そのものが、この地に生きる事の厳しさを物語っているようだった。
しかし、彼の顔は自信に満ちていた。まるで長期間の好成績を残しているベテランアスリートのような、自分の実力を疑わぬ者の顔。背筋はしゃんと伸び、その体には年齢に見合わぬしなやかさがあった。
薄汚れたビンから、老人はウィスキーを一気に煽る。彼のお手製のウィスキーはおそろく強い。脳味噌が跳ねまわり、胃袋が雑巾みたいに締め上がった。悲鳴を上げたい気分だったが、それがむしろ彼にとって堪らなく快感だった。みるみるうちに身体と意識が覚醒していく。
男は大きく息を吐くと、首にかかった双眼鏡で地平の果てまで見渡した。
「さてと、今日は出会えるかねぇ」
彼はこの荒野いちの狩人であった。目ざとく獲物を探す。この一月ほど収穫がなかったために、彼は狩りにひどく飢えていた。
「なぁ相棒、仕事だ、仕事だよなぁ。人間は仕事をしてこそだぜ。今日もこなさないと。よろしく頼むぜ相棒」
彼は背後に控える、鋼鉄の巨人に話しかけた。

荒野の中を一台のトラックが駆けていく。景気良く砂埃を立てながら。
そのトラックはどこまでもツギハギだった。
ミラーは右左で全く違う形。ドアは全て違う車からの流用。四つのタイヤもサイズが同じだけで、別のデザインだ。そのトラックは寄せ集めのパーツから構成されていた。
まるで鋼のパッチワーク。
しかしながら、この時代においてそれは珍しいものでなく、むしろ一般的だ。全てが灰に消えたあの日、世界から多くの技術と資源が失われた。生き残った人々は、残った廃材の中から使えるものを探し出し、それらを組み合わせ、活用した。規格も素材も違うものを無理やり組み合わせ、無理やり使っている。この時代の全ての技術は、過去の技術をツギハギに使い回す事で成り立っていた
そのカラフルなトラックの荷台に乗るのは、こちらも同じくカラフルな人々だった。肌の色も性別もバラバラの人間が、すし詰め状態で乗り込んでいる。
その中には子どももいた。まだ十代前半だと思われる少女が身体を小さくし、所在なさげに揺られている。色素の薄い白金の髪に、ぼろを纏った酷く焼けた肌。
少女——イェンレはこのトラックで街から街へ移動している最中だった。
トラックはこの時代の主な交通手段の一つだ。点在する街から街へトラックが客を乗せ行き来する。それはあたかも西部開拓時代の駅馬車を思わせた。
イェンレは姉のファティマと共にこのトラックに乗る客だった。
少女は小さな窓から外の景色を眺めた。
(なーんにもないなぁ)
トラックの荷台から見えるのは荒れた砂原とたまに見える雑草のみ。今朝からずっとこんな調子で、あまりにも変わり映えがしない。まるで同じ場所をぐるぐる回っているかのようだった。少女は自分の中の時間と距離の感覚がおかしくなるのを感じた。まだ今は昼過ぎなのに、もっと長い間走っているような気がする。
イェンレはトラックに乗る他の乗客たちに目をやった。九人の同行者たち。砂漠を無為に眺めてるよりはきっと面白いはずだ。
おそらくカップルであろう二人。黒人の女性に、アジア系らしい男性(イェンレは「アジア」というものが、どこの何かは知らなかったが、肌の色が黄色い者を「アジア系」という事だけは知っていた)。確か女性はジャネール、男性はゲイリーだとお互いに呼び合っていた。狭く窮屈な荷台の中、二人は仲睦まじく肩を寄せ合っている。何か話をしているが、車のエンジン音のせいで内容までは聞こえない。
五十代半ば程の白髪の黒人男性。運転手に対してエリオットと名乗っていた。彼はボロボロの巨大なリュックサックをさも大事そうに胸に抱いている。まるで「奪って下さい!貴重品です!」とでも言わんばかりだった。不用心がすぎる。よく今まで生きてこられたな。
その傍らには痩せた白人の男。名前は分からない。ボロボロのシャツを羽織っているが、全身に渡る数えきれない程の痣を隠すのに、そのシャツは薄すぎた。その痣の数々は、彼の今までの人生が苛烈な暴力の只中にあった事を雄弁に物語っている。
運転席の真後ろに、スキンヘッドの浅黒い肌の男。彼だけは武器を携えて完全武装であった。腕の中にはアサルトライフルを携え、また腰のホルスターに自動拳銃が差し込まれている。また、バックパックからは狙撃銃のグリップ部が顔を出す。こんな時代だ。誰だって少なからず武装をしているが、彼の佇まいは傭兵のそれだ。仕事を探して街々を転々としているのだろう。こんな武装で乗車を許可されたのだから、運転手とは友人なのかもしれない。もしくは用心棒を兼ねているのか。
しかし、そんな傭兵よりもイェンレが一番警戒していたのは、自分のちょうど向かいに座る大男。茶褐色の肌。伸び放題の小汚い髭。腰まである髪はライオンの立て髪を思わせる。襤褸の上からでも分かる鍛えられたしなやかな筋肉。その 姿はまさしく野獣めいていた。しかし猛獣ではない。その意思を感じさせない瞳のせいか、ライオンと言うよりは、獲物を捕らえられない弱ったハイエナめいていた。なんにせよ、この男の瞳からは正気を感じられなかった。
(こういう奴が一番よくない)
たった十数年間の短い人生ではあるが、イェンレは関わるべきではない人間がどんな連中かを理解していた。
少女は旅の間、彼と関わり合いにならずに済むよう祈った。
そのうちにイェンレは暇を持て余しはじめた。外の景色はクソつまらないし、他の客と関わるのも危険だ。横に座る姉は眠って久しい。
先程荷台で見つけた古いヘアゴムを弄ぶぐらいしかやる事がない。そのヘアゴムには花の形をした飾りが付いていた。色もピンクで、小さな女の子向けのものだろう。ヘアゴムは伸びる一方、簡単に千切れてしまいそうだった。指と指にひっかけ、ゴムをグイグイと伸ばしたり縮めたりした。決して楽しくはないが手の慰めぐらいにはなる。少女は、このヘアゴムがどこまで千切れずに伸びるか試してみる事にした。両手の人差し指に引っ掛けて、どこまで伸びるか限界まで引っ張る。そろそろ千切れるか、という時だった。
「あ」
ヘアゴムが弾け飛んだ。空中を舞ったヘアゴムは目の前の大男の髭に引っかかる。
その時、大男は居眠りをしていた。目を閉じ、頭を荷台の幌に預けている。
(まずい)
少女は焦った。変な汗が吹き出るのを感じた。
髭にくっついたのはお花飾りのヘアゴム。もじゃついた髭にキュートなゴムが絡まり、一気にメルヘンな印象になった。まるでクリスマスツリーに飾られた装飾みたい。
(これは取らないとアレだし、取るときに起きられたらもっとアレだし)
イェンレは自分がどうすべきかさっぱり分からなかった。こんなに困り果てたのは久しぶりだった。
周囲を見渡すとスキンヘッドの男が剣呑な目をこちらに向けている。
例のカップルも二人してこちらを注視している。さっきまで二人だけの世界だったのに、今にして黙ってこっちを見ている。「え、お前、そのままにしておかないよね?」という感じの目だ。
(勝手にイチャイチャしてりゃいいのに、何で!)
少女の隣には頼みの綱である五歳上の姉。しかし彼女も顔を伏せ、未だ夢の中だ。
イェンレは覚悟を決めた。大男が寝ている間にゴムを取る。それで終わり。話しかけないで済むし、それが最良だ。
少女が大男の髭に手を伸ばす。地雷に触るような気分だった。おそるおそる近づいた指はヘアゴムをキャッチした。
(よし! キャッチし——)
「何をしてるんだ、お前」
嗄れた、ガサついた声。
大男が目を覚ましてイェンレを見ていた。その黒い瞳は少女を威嚇するように見据えている。
彼女はハイエナに狙われるウサギみたいに縮こまった。
「何をしているんだ」
「あ、えーと、あー・・・」
イェンレは口籠った。正直に答える事すらできない。
「なんだ、これ? 俺の髭に何をしているんだ?」
大男の表情が怒りに歪んだ、その時だった。
「すみません、うちの妹が」
眠っていた筈の少女の姉——ファティマが間に入った。
「そのゴム、うちの妹が飛ばしちゃったみたいで」
眠っていた割には、話が合っている。
彼女はイェンレと同じく、色素の薄い白金色の髪をしていた。伸び放題にしている少女と違って、頭の上で団子にして纏めている。
「ごめんなさい。悪気はないんです。ね? イェンレ? イェンレも謝って」
「ご、ごめんなさい!」
それを見た大男は喉をゴホゴホと鳴らすと、
「気にしてない」
とだけ口にした。ひどく声が出しづらそうだった。まるで数年ぶりに声を出した人のように見えた
「そう言えば、どこまで行かれるんですか?」
ファティマがさらに話かける。彼女は満面の笑顔だった。
大男は黙っている。
「どうしてこのトラックに?」
「それを」
やはり獣のような嗄れ声だ。
「それを、あんたに言う必要があるのか?」
大男は鬱陶しげにそう言うと、大型犬めいて身体を丸め、そのまま眼を伏せた。
「そうですね、確かにその通り」
ファティマはニコニコしたまま言った。
車内からは会話がなくなり、聞こえるのエンジン音のみになった。
姉さんはさすがだな、とイェンレは思った。姉の言葉使いは丁寧で、イェンレと違って教養を感じさせる。最近では妹に対する言葉まで丁寧だ。
無理に話を続けて、相手を鬱陶しがらせて退散させる——こういった会話術も目を見張るものがある。今日までイェンレが生きてこられたのはファティマのおかげ以外になかった。
そんな中、エンジン音が徐々に小さくなっている事に少女は気付いた。
今夜停泊する街に着いたのかと思ったが、景色は変わらないのでそういうわけでもないらしい。奇妙に思っている間に、トラックは荒地のど真ん中で止まってしまった。
「おおい」
トラックの幌の後部を捲り、運転手が顔を出した。
「どうした?サイード」
スキンヘッドが運転手に声をかけた。
サイードと呼ばれた運転手は、豊かな髭を蓄える痩せた男だった。この仕事を長く続けているらしく、肌は黒く焼け、シミだらけだった。
「トラックの調子が悪い。車の整備について分かる奴がいたら降りてきてくれ。一緒に見てくれねぇか」
「分かった。今行く」
スキンヘッドの武装男が立ち上がる。
「ああ、俺も分かるよ。」
カップルの片割れのアジア人男、ゲイリーも立ち上がる。
「他は? 他に車の整備ができる奴は?」
スキンヘッドが見回すが、他に手をあげる者はいない。
「おい、あんた」
彼はあの獣のような男に話しかけ、肩を叩いた。
寝ているところ悪いが、車の調子が悪いらしい。あんた、整備はできるか?」
「・・・出来る」
スキンヘッドは、アジア人と大男を伴って荷台から降りていった。残されたのはイェンレたち姉妹と、カップルの片割れの黒人女性、白髪の男と痣の男。
「大丈夫かな。」
イェンレが呟いた。
「こんなところで立ち往生なんて」
「三人も見にいったし、大丈夫ですよ。」
ファティマは能天気に言った。
「さっきはヤバかったね」
黒人女性——ジャネールがイェンレに話しかけた。
「あの大男・・・ものすごくぶっきらぼうで、怖いでしょ?」
「・・・確かに」
イェンレは素直に同意した。
「私が話しかけた時もそうだった。昨日の朝よ。挨拶したのに、まともに返さずに、黙りこんじゃって。不機嫌なのかと思ったけど、ずっとあんな感じなの」
「なるほど。ずっとあんな風なんですね」
ファティマが眉を顰めながら言った。
「なんだろう・・・」
イェンレがぼそりと呟いた。
「どうしたんですか、イェンレ」
ファティマが妹の顔を覗き込む。
「考えごと?」
「いや、あの男の人の感じ、何かに似てるなって・・・」
「何? 何の話?」
ジャネールもまた興味があるようだった。
「あの男の人の、髪と髭が長くて、身体が大きいけど、素早そうなあの感じ・・・なんか小さい頃にカートゥーンで観たような」
文明も何もかも失われた世界であるが、映像媒体や本など、かろうじて残っているものもあった。それらは貴重品であったが、イェンレはかつて住んでいた街の商人そういったものを収集していた事を思い出した。
「小さい頃に見せて貰ったカートゥーン。毛の長い怪物みたいな男がキスで王子様になるって話」
ジャネールは少し考えて「『美女と野獣』かしら」と言った。
「あー、それだ! よくご存知で!」
「私も観たことあるわ」
ジャネールは楽しげだった。
「でも、ねぇ」
ファティマが笑う。姉が何を言いたいのかは、妹には何となく分かっていた。
「中身が野獣の王子様にしては、あの男はちょっと小汚な過ぎますよ」
「確かに」
全くその通り、とイェンレは思った。
「あんなのじゃ誰もチューしたがらないなぁ」
ジャネールが歯を見せて笑った。

トラックの前のエンジンルームからは煙が上がっていた。
「こいつはダメですね、取り替えないと」
フロントパネルを開き、その中に手を入れていたゲイリーが辟易とした口調で言った。
「ファンベルトのゴムがイカれてますよ。劣化してゆるゆるだ。これのせいでオーバーヒートしたんですよ。中はまるで石窯みたいになってます」
「代われ」
大男がボソリとゲイリーに代わって手を突っ込んだが「あつっ」と言って、すぐに手を出した。
「予備はないのか? サイード」
スキンヘッドが運転手に問う。
「そんな部品の予備はないよ。残念だけど」
サイードもまた辟易していた。「お手上げだよ」と両手を広げてジェスチャーしてみせた。
「おいおいおいおいおい、勘弁してくれ。荒野のど真ん中で動けなくなるなんて」
スキンヘッドが嘆かわしげに言った。
「でも、車が動かなくちゃなんにもならん」
「前の街に戻って、助けを呼んで牽引して貰うとか・・・」
ゲイリーの提案に、サイードは少し考えて、
「それなら逆がいい。目的地に皆で歩いて向かおう。明日の昼には着くだろう」
と言った。
「歩くんですか?皆で?」
ゲイリーは不安げだった。
「明日の昼まで丸一日歩くんですか?」
「前の街に戻るのも、距離的には大して変わらない。じゃあ進んだ方がいい。」
そう言うサイード自身の顔も渋かった。やむを得ない、と言った表情。
「幸い水は積んでいる。明日の昼まではきっと持つ」
「そうは言いますが・・・」
「おい、あんた!あんたはどう思う?」
スキンヘッドが先程から話に交わろうとしない大男に声をかける。
彼はエンジンルームに手を突っ込んだまま動かない。
大男は一言も返さず、その場で立ち尽くしている。
「おい、どうしたんだアンタ?」
スキンヘッドが問う。
「・・・手が抜けなくなった」
大男がボソリと言った。
「助けてくれ」
誰も一言も返さなかった。

灼熱の大地をイェンレたちは歩いていた。トラックの荷台も充分に暑かったが、幌があるだけでどれだけ楽だったことか。
彼女は全身の毛穴という毛穴から汗がじくじくと滲み出るのを感じていた。ボロ布を繋ぎ合せて作った肩掛けバッグ。その中から水のボトルを取り出して一気に煽りたい衝動に駆られるが、彼女は踏みとどまった。まだ先は長い。こんなところで貴重な水を消費したくはない。飲める水は限られているのに、水分と言えば汗で身体から出る一方だ。不公平がすぎる、とイェンレは思った。
運転手のサイードを先頭に九人の男女が荒野を歩いていく。トラックの中で始めて出会った者たちだ。お互いに少し距離を取り合っている。
身を寄せ合っているのは、ジャネールとゲイリーのカップルとファティマとイェンレの姉妹ぐらいのものだ。ジャネールたち二人が何事かをぶつぶつと喋っているのみで、他に会話をする者もなかった。
痣の男は、右足を引きずりながら歩いている。先天的なものか、もしくは身体の傷と同じく暴力によるものか。どちらにせよ、右足が動かし難いようだった。しかしながら、この時代において五体満足でないのはありふれた事だ。むしろ足が残っているだけ、彼はまだ幸せなのかもしれない。痣の男は俯いたまま、ずっと足元だけ見つめて歩いている。彼はほとんど前を行くジャネールとゲイリーの影だけを見て歩いているようだった。
イェンレは彼がどう言った人生を送ってきたのか気になった。しかしこういう旅の中では、相手と関わり合いを避けるのが一番穏便に済むやり方だ。
(さっきあの大男と危ない感じになったばっかりじゃないの)
イェンレは自分の中の迂闊さを恥じた。
「あの男を怒らせたら危なかったですね」
ファティマが、まるで妹が何を感じているのか察したかのように話かける。
「ごめん、姉さん」
「大丈夫。今回は不可抗力ですよ」
イェンレは前を歩くスキンヘッドの男を見た。彼はアサルトライフルを構えて、周囲を警戒している。いざという時は乗客たちを守ってくれるのかも知れない。しかし、最終的に自分たちの身を守るのは自分たちだ。
イェンレはファティマの腰ベルトの拳銃のことを考える。姉は自分たちを守るためにこれを使ってくれるかも知れない。同時に、そんな日が来ないことも祈った。

「よく歩いたな、みんな」
先頭を行くサイードが言った。
そろそろ日が落ち始めている。
「今からは小高い丘が続くが、そこを過ぎれば砂地が徐々に増えて砂漠になる。トラックが砂に足を取られて動けないから、普段は使わないルートだ。しかしこちらの方が近道なんだ。歩きゆえの特権だな。砂漠に差し掛かったら今日は野営にしよう。順調に行けば明日の昼には街に着く。ただ、このルートを通るのは俺も始めてだ。不足の事態も起こりうるから、警戒してくれ」
歩き始めた時は地平の果てまで何も見えなかったのに、今や眼前には小高い丘が連なって見えた。平らだった大地に斜面が現れ、ゴロゴロと大小の岩が転がって見える。ここを過ぎれば砂漠なのか。
「足元に気をつけろ。斜面で滑るぞ」
サイードはそう言うとまた歩き始めた。皆は続くしかない。
小高い丘が延々と連なっている。斜面を登り、また降る。日が落ち始めた事で暑さはだいぶ軽減されたが、坂道が増えた分、歩くのが辛い。
そのうちに、白髪の男——エリオットが列から遅れ始めた。無理もない。彼は一際大きなトランクを抱えている。巨大な古い皮のトランク。ボロボロの上に機能美もクソもなく、ひどく重そうだ。何が入っているのか、男はそれを後生大事に持ち運んでいた。ぜいぜいと息を吐きながらも、なんとか皆の列に追いすがる。
「それ」
大男がエリオットに話しかけた。彼もまた列の後部を歩いていた。
「それ、持ってやろうか」
白髪の男は訝しげに彼を見た。
「・・・本当か?」
「持ってやろうかって聞いているんだ」
エリオットがどさり、とトランクを地面に置いた。
「それならば頼むよ。ありがたい」
しかし大男はエリオットの顔を注視したまま動かない。ただ無表情に眺めるだけだ。
「・・・持ってくれないのか?」
「水のボトル一本」
エリオットはものすごく嫌そうな顔をした。
しかしながら、大男の方は微塵も表情を変えない。
「水のボトル一本」
大男はまた繰り返した。
そのうちにエリオットが大きくため息をついた。
「分かった。しかし成功報酬だ。野営まで・・・」
彼が言い終わるまでに、大男はトランクを引ったくっていた。話しているうちに列から離れてしまっていたので、追いつくためにとっとと歩いていってしまっている。
大男は彼の方をちらりとも見ない。
エリオットは再び大きくため息をついた。

小高い丘を登り切ると、その先は下り斜面ののち、平地が広がっていた。連なっていた丘はそこで終了し、その先はまた果ての見えぬ荒野が広がっている。空には赤赤と燃える夕日が見えた。白い砂の大地が、夕日に照らされて橙色に染まっている。
「すごい景色」
ファティマが呟くのをイェンレは聞いていた。
「大地が燃えてるみたい」
姉さんの言う通りだ、と少女は思った。
斜面にはそこそこの角度があり、皆が恐る恐る下っていく。
「うわ」
イェンレの近くを歩いていたエリオットが足を滑らせた。疲れからかもしれない。砂利に足を取られた彼は、前を歩く大男の背中にピンボールめいて衝突する。
二人はそのまま転倒した。斜面を転がり落ちさえしなかったが、大男の薄汚れたリュックの中身がブチまけられた。
「す、すまない」
エリオットが謝罪するが、大男は何も言わなかった。
「大丈夫ですか?」
イェンレが彼らの元を駆け寄る。ファティマもまたイェンレに続いた。
「怪我はないですか? 立てます?」
姉妹がエリオットを助け起こす。
「私は大丈夫だが・・・」
足元には大男の荷物が散乱していた。
数本の水のボトルまでは理解できる範疇だ。しかしそれ以外は奇妙なものだった。カビだらけのパンの切れ端、腐敗した謎めいた果実。まともに口に入れられそうな食料は何一つ無かった。何に使うか分からない多量の鉄屑。そして何本ものナイフ。ナイフはどれもがボロボロに錆びつき、刺すにも切るにも使えなさそうなものばかりだ。
イェンレは大男の方を見た。
彼の瞳の中にあるものは虚無だった。何の感情も読み取る事は出来ない。
助けるべきじゃなかったかも、少女は思った。
これが何かの争いの種になりそうな気がしたのだ。
「大丈夫かー?」
前を行くサイードがこちらを呼んだ。
「大丈夫。怪我はないよ」
エリオットが答えた。
「だが、荷物をばら撒いちまった。拾うから先に行っててくれ!」
「了解した。先に行っている」
そのままエリオットは大男の荷物を拾い集め始めた。大男は手を止め、エリオットの顔を見る。
「なんだい、わたしがぶつかっちまったんだぞ」
イェンレはエリオットの目に同情的なものがあるのを感じた。
大男も何も言わず、また手を動かし始めた。
(もうここまで来たら仕方ないか)
正直手伝いたくなかったが、イェンレも足元に散らばるゴミや鉄屑を拾い始め、ファティマもそれに続いた。
「この腐ってる実は捨てていい? 流石に」
イェンレが聞いた。
大男は彼女に一瞥もくれない。ただ小さく頷いた。

大男の荷物を集める間に、前方を行くサイードたちとはかなり距離が離れてしまっていた。サイード、ジャネール、ゲイリー、痣の男とスキンヘッド。彼らは斜面を下りきり、既に平地を歩いている。
「躍起になって追いつく必要ないかも」
ファティマが言った。
「確かに。何もないから見失いようがないな。ゆっくり行こうじゃないか」
エリオットが続けた。
イェンレは先を行くサイードらを見ていた。
彼女らはまだ斜面の上部にいるので、サイード達を見下ろすようなかたちになった。夕日に照らされ、炎のような橙に染まる大地を旅人たちが歩いていく。彼らの背後に仄暗い影がまるで帆のように伸びていた。旅人たちの姿はまるで何かの絵画みたいに美しい。
美しい、だなんて。
そんな風に思うなんて久しぶりだな、とイェンレは思った。
イェンレたち姉妹は、故郷を追われたのち、安住の地を求め旅してきた。
しかしどこに向かっても、目につくのは暴力と血ばかり。ある街では奴隷として捕まりそうになった。またある街では到着したその日に野党の焼き討ちに合い丸焼けになりかけた。野党といえば、道中で狙われ這々の体で逃げたのも一度や二度ではない。この時代、年端もいかぬ姉妹の二人旅のなんと過酷な事か。どこに行っても、あまりに人の命が安かった。数年間あちこちを転々としてきたが、故郷から逃げ出してきたあの日から状況は何も変わってはいない。
ただ姉妹が学んだのは、平和で豊かな土地なんてものが、もはや空想の産物かもしれないという事だけだ。住みやすい土地を探すのに比べれば、砂の山から米粒を探す方がまだ現実的に思えた。
しかしこの景色はどうだ。炎のような色に染まる地を歩く旅人たち。その姿はあまりにも美しかった。イェンレはその景色を「美しい」と感じたことに自分ながら驚いていた。まだ自分の中にそういった豊かな部分が残っていたことに素直に感動していた。
ひどい旅だった。何ひとつ良いことなんて無かった。でもこんな景色を見られるのなら、なかなかどうして、悪くないのかもしれない——
その時、何の前触れもなく、耳を割るような爆音がした。前を行くサイードたちの足元が突然爆発した。間欠泉のように砂が吹き上がり、彼らを覆い尽くす。
「なんだ!?」
エリオットが悲鳴をあげた。
煙の中でサイード達は見えない。何が起こっているのか分からず、イェンレは戸惑うしかない。ただ分かっているのは、普通ではないという事だけだ。
「・・・爆発したように見えたけど」
ファティマが不安げに言った。
「地雷!?」
イェンレが続ける。
「違うな」
大男がガラつく声で言った。
皆が彼を注視する。
その時だった。耳を突くような凄まじい女の悲鳴がした。土煙は収まりつつあり、その中に跪いて泣き叫ぶジャネールの姿が見える。彼女の傍らに、何か真っ赤な丸太のようなものがあった。
イェンレは目を細めてそれを見た。あんな荷物あったっけ?
土煙が完全に収まった時、少女はその丸太の正体を知った。ゲイリーの下半身
だ。彼の上半身は粉々に吹き飛び、土の上に趣味の悪いグラフィティを作っている。
ジャネールは髪を振り乱し、叫びながら必死に恋人の肉片をかき集めている。彼女は完全に正気を失っていた。サイードや痣の男は、呆然とジャネールを眺めるばかりだった。
「伏せろ! 伏せろって!」
腹ばいになったスキンヘッドがサイードたちに向かって叫んでいる。
イェンレは全身から冷や汗が吹き出る音を聞いた。体が彫像めいて強張った。
「地雷じゃ、あんな風にならない」
傍らで大男が言った。
「・・・狙撃されてる。かなり遠くから」

老人はひゅうっと口笛を吹いた。
狙いはドンピシャだった。二人連れの男だけを粉々にした。思い描いた通りだ。老人は快感にぶるっと身体を震う。このために生きてるよなぁ、と彼は思った。
彼が駆るのは高さ十メートル前後の鋼の機動兵器だ。蜘蛛か蟹めいて開いた鈍色の多足の上に、人間の上半身のような巨躯が載る。それが構えるのは五メートルはありそうな巨大な対物ライフル。
人型機動兵器『ハードコア』。老人はその鋼の巨人の胸のコクピットにいた。
かつては世界各地の紛争で用いられ、その汎用性により恐れられた兵器。
しかし全てが塵芥と化した現在において五体満足の機体は少なかった。老人が駆るこの巨人もまたその例に漏れない。故障した部分を廃材などは補っている。別の機体から持ってきたであろう右腕は、左腕より一回り大きくかなり長い。装甲には廃車のボンネットまで使われていて、部分によって色もバラバラ。随分歪だ。中身の駆動部に至っては、家電の部品まで使われている始末だった。
その姿はまるで鋼のフランケンシュタイン。機械の死体を継ぎ接ぎされて造られた、歪んだ人形だった。
「さぁ、あと三人か。楽しもうぜ相棒」
そしてこの人形こそ、老人の唯一無二の家族であった。
「狙われてるって・・・どこから!?」
ファティマが叫ぶ。
「分からない。今から探す」
大男が素早く服の中から小型の望遠鏡を取り出す。
イェンレたちは咄嗟に近くの岩陰に隠れた。こちらが見つかっていない事を祈るばかりだった。
「人が粉微塵になりましたよ! あんなの人を撃つ弾じゃない! わけわかんない!」
ファティマが焦燥に駆られて叫んだ。
「対物ライフルか・・・?」
大男は呟いた。
「ハードコアの装甲を打ち抜くためのやつか」
エリオットが続けた。
イェンレは前方のジャネールを見た。
彼女は未だ泣き叫びながら、ゲイリーの肉片をかき集めている。
「おい! あんた伏せろ! 伏せろって!」
スキンヘッドの傭兵が腹這いのまま叫ぶが、ジャネールは聴く耳を持たない。
スキンヘッドは狙撃銃のスコープを覗きながら前方を見渡した。サイードと痣の男は既に彼に従って腹這いの姿勢になっている。
「落ち着け! 目立つと死ぬぞ! 伏せろ!」
スキンヘッドの言葉にジャネールはようやく動きを止めた。泣きはらし充血した目で傭兵の方を見る。
スキンヘッドはスコープ越しに夕陽に照らされた赤い地平線の隅々まで見渡す。
「おい!」
彼の大きな声はイェンレにまで届いていた。
「見えたぞ! ハードコアだ! ハードコアが一機、こちらを狙っ」
しかし彼がそれ以上の言葉を発する事はなかった。着弾の轟音と共に、スキンヘッドの肉体が吹き飛んだからだ。彼の血と肉片が、あたかも高所から落とした果実めいて弾け飛ぶ。近くにいたジャネールがその血を頭からもろに被った。
口の中に入った血を、彼女が噴水のように吹き出す。ゴホゴホと一通りえづいた後、ジャネールは声にならない悲鳴を上げた。
彼女が狂乱して駆け出すと同時に、弾かれたようにサイードと痣の男も走り出した。もはや伏せて隠れていては死ぬだけだ。三人は一斉に別方向に全力疾走した。
ジャネールはもはや理性を完全に打ち捨ててしまっていた。脇目もふらず、どこに向かっているかも分からず、ただただ悲鳴を上げながら走る。その姿はまさしく駆り立てられた獣そのものだ。
しかしその命を賭けた疾走もすぐに途切れる事となる。放たれた弾丸が彼女の下半身を粉々に破壊したからだった。巻き上がる土埃の中からジャネールの上半身がくるくると舞い上がった。そして投げ捨てられたゴミめいて硬い地面にドサリと落ちる。
彼女が先程まで発していた悲鳴はイェンレたちに届いたのち、乾いた大地の果てに消えた。

老人は歯噛みした。なんて事だ。狙いが逸れた。上半身を狙ったつもりだったのに。カップル二人仲良く上半身を吹き飛ばしておそろいにしてやるつもりだったのに。
ここ数年、的を外す事が明らかに増えている。老人は自分の老いを自覚せずにはいれなかった。
「くそ、どうだぁこれ? 俺もこんなの外すようになっちまったかぁ?」
彼はスコープの中の獲物を見つめた。下半身を無くした女。だがまだ身体は反応するようで、両手がびくびくと跳ねるように動いた。
老人にはそれがひどく滑稽なものに見えた。まるで死にかけのひっくり返った虫だ。狙いを外して沈んだ気持ちがたちまち晴れやかになっていく。ここ最近で一番愉快な光景だ。
「男の方は下半身だけ残った。女は上半身。二人合わせてようやく一人前だぁ」
そう言って彼は一人げらげら笑った。
獲物は残り二匹。どうせ隠れられる場所は少ない。悠々と狙い、アリを潰すように殺すだけだ。なんて楽しい狩りだろう。
そう思ってスコープを覗くと、妙なものが目についた。丘の斜面の方に向かって逃げていく男。その男はまるで誰かに助けを求めるように手を振っている。
「・・・他にまだいるのか?」

イェンレは呆然としていた。無理もない。人が粉々に粉砕される瞬間なんて、彼女も初めて見たのだから。
「おい、まずいぞ!」
少女を現実に引き戻したのはエリオットの一声だった。
「あいつ、あんな手を振っちゃ、こっちの事がバレるじゃないか!」
見るとサイードが助けを求めて、こちらに手を大きく振りながら走ってくる。彼は明らかに冷静さを失っている。
イェンレは姉と顔を見合わせた。青ざめていたファティマの顔色がさらに悪くなり、ほとんど死人みたいに黒くなった。だが次の瞬間、イェンレは姉の表情が即座に変わるのを見た。意を決した顔だった。
ファティマは岩から半身を出すとベルトに指していた拳銃を抜くと、こちらに向かってくるサイードに向けた。
「来ないで下さい!」
サイードとファティマの目が合った。しかし彼は走るのを止めない。
「来ないでって言ってるのに!」
ファティマが語気を強めても彼には届かない。
「おい、一旦隠れろ!」
エリオットがファティマの銃を掴んだ。
「まだこの岩の裏に俺らがいる事はバレてない! あんたが身を乗り出せば見えちまうぞ!」
「だがバレるのは時間の問題だ。奴がここに来たら岩ごと狙われる」
大男が抑揚のない声で言った。彼はこの場において一番冷静だった。
「じゃあ」
ファティマは泣き出しそうな声で言った。
「じゃあどうするんですか」
「銃を貸せ」
大男が静かに言った。

老人は斜面を登り始めた髭面の男をスコープで注視していた。
男はまだ手を振っている。仲間もいい迷惑だろう。彼が助けを求めなければ、やり過ごすこともできたかも知れない。
しかしどこだ? どこに隠れている?
老人は男から目を離すと斜面に転がる岩々を眺めた。どこかの岩の後ろで息を潜めているに違いない。
あの髭男。岩に隠れてる仲間を撃って粉々にしてやったら、奴はどんな顔をするだろう。その表情を楽しんでから、ゆっくり殺してやる。
老人がそんな事を夢想していたその時だった。
一つの岩の背後から勢いよく土煙が巻き上がった。何かが動いた証拠だ。
「そこか!」
老人は躊躇いなく引き金を引く。
放たれた弾丸は、岩をめちゃくちゃに破壊した。
しかし奇妙だ。土煙でよく見えないが、少なくとも人がいるようには見えない。岩の背後には誰もいなかったのか?
すると突然、着弾地点から数メートル離れた岩の背後から人間が蜘蛛の子を散らすように飛び出した。
「なんだと!?」
男が二人、女が一人、そして子供が一人。
彼らは必死に斜面を駆け上がり始めた。
「反対側に逃げるつもりか」
斜面を登り切られ、反対側に降りられたらいくら対物ライフルでも狙いようがない。
素早く次弾を撃てたら良いのだが、ボロがきているこの機体では、再装填に時間がかかる。
「クソッ!」
今まさに逃げんとする獲物たちを前に、老人は激しい苛立ちに駆られていた。
奴らは銃で離れた地点を撃って土煙を起こし、それを囮にした。おそらくこちらの再装填が時間がかかるのも奴らにはバレている。二匹目を殺した際に、一匹目から時間が開いた事で推測されたか。
そんなことを考えている間にも獲物たちは、今まさに斜面の頂点に到達しようとしている。
早く、早く、早く再装填を!
装填を完了するやいやな、老人は引き金を引いた。
獲物たちの何匹かは既に斜面の反対に消えている。だが一匹たしかに遅れている者がいた。
弾丸は髭面の男の肉体に命中した。夕陽で赤く染まる土の上で、赤い血と肉が弾け飛んだ。まるで地面の上に奇妙な花が咲いたようだった。
一匹は仕留めた。しかしそこには達成感も快感もない。怒りと焦燥はむしろ余計に沸き立った。
「ちくしょう!」
老人は叫ぶと手元にあった空き缶をモニターに投げつけた。
「ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう!」
頭を抱えて俯いたのち、声にならない声で叫んだ。逃した獲物は何匹だ! 何をあんな汚らしい虫けら連中に出し抜かれている!?
(待て、待て、待て、待て)
老人は必死に自分に言い聞かせた。
冷静になれ。まだゲームは終っちゃいない。
老人は操縦桿を握りしめた。
追いつけばいいだけの話だ。
ハードコアの下半身の駆動部が音を立てて動き始める。モーターが回転し、鋼と鋼が噛み合い、軋む音を立てた。巨人の脚部がまるでパズルが組み変わるみたいに変形していく。蟹の足めいて展開していた多脚が全く別の形に変わりつつある。
老人はこの時間が好きだった。モーターや歯車の動く振動を尻の下に感じる、この時間が好きだった。この巨大な鋼の巨人を自分が操っているという実感を得られる。自分が無敵になったように感じる。
老人の心の中に、既に先程のような焦燥はなかった。今、老人の中にある感情は、これからどうやってあの腐れネズミどもを料理してやるか、ただそれだけだった。「さて、狩りは続行だぜ。カスども」

一方、痣の男は走り続けていた。
サイードが消し飛んだのを見て、次は自分だと彼は思った。
一瞬あとには粉々になって死んでいるかも、と考えると生きた心地がしなかった。しかし、死は一向に訪れない。
何らかの理由でこの一方的な殺戮が中止になったに違いなかった。
痣の男は肩で息をしながら立ち止まった。身体が太陽みたいに暑い。
何とか、何とか生き延びたぞ。
彼は心の底から安堵していた。
なぜ自分が狙われなくなったのか考えを巡らせたが、正直よく分からない。相手はいきなり人を撃ってくる狂人だ。狂人の思考なぞ、考えたって分かるものか。思いを巡らすだけ時間の無駄だ。
今はただ生き残れた幸運に感謝しなければ。
痣の男はこの旅に出る前の事を思い起こしていた。
小さい頃に拐われ、奴隷として売られ、家畜同然に扱われ、そしてここまで何とか逃げてきた。なんとか自由になれたと思ったのに、次は荒野で行軍し、狂人から狙い撃ちされるときた。しかしようやく、ようやくだ。真の自由はもうすぐだ。
笑顔でそんな事を考えている時、地面が小さく振動していることに気付いた。砂利がぶるぶると震えている。
「・・・なんだ?」
一定の間隔で響いてくる地面を叩くような音。その異音は次第に近づいてきている。
彼は何となくその音に聞き覚えがあった。先程まで自分自身が発していた音。足で砂地の荒野を蹴り、走る音。その音をかなり大きくしたような感じだ。
巨大な何かが走る音?
そこまで考えを巡らせた時、彼は地平の果てからこちらに向かって疾走する巨大な影を見た。
ハードコアだった。
ハードコアが一機、スプリンターめいた前傾姿勢でこちらに全力疾走してくる。
老人の駆るハードコア『ミニットマン』は可変機能を携えた機体だ。
遠距離狙撃用に安定を重視した多脚形態、そして機動性の高い二足歩行形態。
『ミニットマン』は狙撃と追跡を万能にこなす、まさに理想の狩人と言えた。
「こっちに来るんじゃない!」
ハードコアは明らかに痣の男の方に向かってきている。目標として、見据えられてしまっている。
彼は周囲を見回した。人ひとり隠れられそうな岩までは五十メートル前後。
彼は岩に向かって走り出した。こんな、こんなところで死んでたまるか!
ハードコアはその間にも凄まじい速度で近づきつつある。はじめは微かな異音だった地面を蹴る音。しかし今やそれも耳を塞ぎたくなるような轟音と化していた。
身を、身を隠さなければ!
岩まであと数メートル。
だが、その時彼は気づいた。
(待て。俺は何を考えているんだ。もうあっちは俺を見つけたんだ。今更こんなちっぽけな岩に隠れたってどうなるっていうんだ)
痣の男は自分が現実逃避をしていたことに気づいた。生き残れるはずだと、現実逃避をしていた。もはや逃げ場はないのに。
彼はゆっくりと走る速度を遅め、そのまま止まった。
その瞬間、ハードコアが彼を空高くに蹴り上げた。打ち上げ花火めいて、彼は空中に投げ出された。その後、枯れ葉みたいにくるくると舞いながら落ちていき、地面に墜落した。
ハードコアはそのまま走り去った。

丘を越えたイェンレたちはその場に立ち尽くしていた。後ろに戻れず、かと言って前に進むのも論外だった。
壁があった。真紅に染まった巨大な壁が地平の向こうからこちらに押し寄せてきていた。
それは規格外までに巨大化した砂嵐であった。豪風によって巻き上げられた砂が、天を突くような巨大な砂嵐を形成している。それはあたかも砂漠がそのまま立ち上がったような出立である。夕陽に照らされた砂嵐はまさに真紅の壁に見えた。砂嵐はイェンレたちより数百メートルは離れていたが、それは刻一刻とこちらに近づきつつある。
文明が消滅し代わりにもたらされたものの一つが、地球の歴史上未だかつてないような異常気象であった。かつて大地を散々凌辱した人類だったが、今では一方的に蹂躙される側に成り下がっている。
「どうすればいい・・・?」
エリオットが呟いた。
全員の気持ちを彼の言葉が代弁していた。
しかしファティマは既に歩き出していた。砂嵐の方向へ。
「・・・姉さん?」
ファティマは歩みを止めない。
「姉さん、どこ行くの?」
「急いだ方がいいわ。ハードコアが追ってくるかもしれない」
「でも、あっちになんて行けない! あんな馬鹿でかい砂嵐が来てるのに!」
イェンレは姉の無謀に戸惑っていた。気でも違ったのか。
逃げ場がないなら、どちらに進むか決めなきゃいけないでしょ」
「そりゃそうだけど!」
「死に方が違うだけかもな。ハードコアに撃たれて粉々になるか、砂嵐によって遥か彼方に吹き飛ばされるか」
エリオットが言った。
「岩にしがみつけば何とかなるんじゃないですかね」
ファティマが続ける。
「賭けが過ぎるよ・・・」
イェンレは半分呆れていた。
「私は行く」
ファティマはそのまま歩き続ける。
「吹き飛ばなさそうな、デカい岩にしがみつくわ」
イェンレは姉の顔が恐怖に引きつっているのを見た。
それでも行くらしい。
「少しでも生き残れそうな方を選ばないと・・・嫌だけど。」
「待て待て待て」
今まで沈黙していた大男が声を上げた。
「まだハードコアが追って来ていると決まったわけじゃないだろ」
「それもそうだけど」
「追って来てないって事もありうる。砂嵐に入るなんて俺は嫌だね」
「・・・じゃあハードコアが来てないか、見て来たら?」
ファティマがボソリと言った。
「俺が、俺がか?」
大男は表情を変えない。だが声色は微妙に戸惑っている。
「・・・分かった。少し待っていろ」
大男は斜面を再び登り出した。
イェンレたち三人は無言で彼を待つ。
大男がおそるおそる斜面から顔を出す。そして弾かれたようにこちらに向かって走って帰ってきた。
「駄目だ。ダメダメダメ。ハードコア来てる。駄目だ。やっぱり砂嵐の方がいい」
 大男の焦りようには奇妙な滑稽さがあった。
こんな状況じゃなきゃ笑ってたところだ、とイェンレは思った。
エリオットが大きく息を吐いた。
「四の五の言ってられんか。やむをえん」
彼は小走りでファティマの後ろについていく。
「どの岩にしがみつくべきだと思う? お嬢さん」
「どのって言われてもなぁ」
「それは自分で決めた方がいい。吹き飛ばされた時にあと腐れがないように」
大男も素早く彼らに続く。
「イェンレも早く!」
ファティマが叫んだ。
「ああっ! もう!」
イェンレはまだ覚悟ができていなかった。しかし進まなければならない。彼女は震える足で駆け出した。うまく走れない。足がガクガクしている。そうしている間にも砂嵐が近づいてくる。真紅の壁はすぐ目の前だ。豪風でイェンレの髪はめちゃくちゃに揺れた。
「あ、あんな砂嵐に、突っ込んでくなんて、あ、頭おかしいよ!」
「本当に頭おかしいのは、いきなりライフルで人を狙ってくる奴の方!」
ファティマが叫んだその時、砂嵐に突入した。


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