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へその緒の無い空洞で。

昭和も昭和、昔も昔。子供の遊びと言えば男の子は木登りやベーゴマ、女の子は欠けた茶碗でママゴトしたり、縄跳びしたり。大人達は休む暇も無く家族の為に泥だらけになって働き、それでも生活は貧しくみすぼらしく、明るい未来を想像出来るような毎日など送ってはいなかった。貧しさゆえに国民は笑顔を失っていた。それでも生活の為、子育ての為、親達はとにかく働いた。毎日毎日疲れ果てていた。町の雰囲気はと言うと、どこの町にも小さなスーパーマーケットはいくつかあったがもちろんコンビニや美味しいレストラン等は存在せず、ほとんど果物や野菜を育てる畑や田んぼ、それ以外は長く伸びた草がたくさん生えた空き地が多く広がっていた。建物や家は小さくて古く、空が曇りの日には町も灰色に見えた。衣類や食品、生活雑貨もろくに揃ってはおらず、何の楽しみも無くとにかく贅沢はしないように国民はつつましく生きていた。唯一そんなどんよりとした日本の大人達を笑顔にしていたものがあった。それは破れた粗末な服を着てろくに学校へも行けない、食事も満足に摂れていないガリガリの子供達の笑顔と笑い声だった。この頃の日本は食べる物は少なく生活は貧しかったが、どの家庭でも子沢山で1家族に赤ちゃんから15歳くらいまでの子供が10人はいた。避妊具も無い時代で家族計画も出来ず、母親はいつも妊娠をして大きなお腹を苦しそうに抱えて出産のギリギリまで働いていた。中には畑仕事の最中に陣痛が起こり草むらの中で慌てて連れてこられたお産婆さんに赤ん坊を取り上げられる母親もいた。家族が増えて喜ぶのは兄弟ばかりで、父親は「また食費がかかる。」と安い酒を舐めるように呑みながら毎晩愚痴をこぼしていた。酷い父親だと赤ちゃんと添い寝をしている母親の背中を何度も蹴るような暴力的な男もいた。貧しい食生活の中で母親も栄養が十分に摂れておらず母乳も出ずらい状態であった。家族は病気になっても病院へ行くお金など無く、栄養失調や流行病等で生まれてすぐに亡くなる子供も多かった。亡くなった子供の両親はお金のかからない質素な質素なお葬式を近所や親戚を呼んでとり行った。両親は集まってくれた近所や親戚連中の前では「子供が親より先に死ぬなんて、この世に神様と仏様はいないのか!悲しくて気が狂いそうだ!」と泣き叫んだが、本心は死んだ子供には申し訳無いが口減らしが出来たと喜んでいた。泣き叫ぶ両親を見て近所や親戚連中は「可哀想に。父さん母さんから離れてしまって子供は辛いだろう。あなた達も気を落とし過ぎないようにね。」とそれぞれが気遣いの態度と優しい言葉をかけていたが、皆の家庭も子沢山で貧しい生活をしていた為、両親と一緒に涙を流しながらも心の中では「なんて羨ましい。」「1人いない事で明日からオカズが一品増えるではないか。」「チビチビ舐めるように呑んでいた酒を、子供が減った今夜からお猪口の酒をクイっと飲み干す事が出来る。」「畑仕事の最中に背負っている赤ちゃんがギャーギャー泣き出して、仕事を中断して子守りをして皆から冷たい目で見られなくなる。」近所や親戚連中は皆心の底から羨ましく思っていた。お葬式で皆が涙を流しながらガックリ肩を落としているのは、生まれてすぐに小さな子供を亡くした両親への悲しみを共感するするものでは無く、何故自分の子供では無いのかと言う気持ちでいっぱいだったからである。だからと言って自分の生んだ子供が憎いわけでは無い。殺したいわけでも病気で亡くなればいいと本気で望んでいるわけでも無い。とてもとても愛おしく、可愛くて可愛くて仕方ないのが事実である。すがって甘えてくるその笑顔にどれだけ毎日癒される事か。憎いのはこの時代、貧乏なこの国、この町、我が家の暮らし。我が子全員に贅沢では無くとも美味しい物を食べさせてあげたい、将来仕事に困らぬように読み書き算数が出来るように学校へ通わせてやりたい。両親にも休日がもらえて家族でゆっくり過ごせる日が欲しい。そんな夢のような事をどこの家の両親も考えていた。鬼畜な両親など存在していなかったはずだ。しかし自分の子供が1人減れば確かに生活は少しだが余裕が持てた。悲しみも事実だが嬉しさも事実だった。そんな時代の話である。
 静かな町に誰が言いふらかして広めたのか、おかしな噂があった。町には3軒のスーパーマーケットが町の中で一番ひっそりと、そして賑やかに営業をしていた。それぞれ町民の食材や日用品購入の大切なお店だった。店に売っている物は野菜や塩や砂糖等の調味料、ちり紙や質の悪い薄い靴下、色々な品が種類豊富にそこそこ売られてはいた。しかしよく見ると消費期限がきれている物もたまに並んでいた。肉や魚も売ってはいたが高級な為たまにしか買われず痛んで廃棄処分になっている事が多かった。パンが置いてある日は珍しく、まだまだ日本の田舎の地方では貴重な物であった。3軒とも正直言って利益は微々たるもので、先祖からの引き継ぎで仕方なく営業をしているような状態だった。町民はそれぞれ家から近いスーパーマーケットを選んで食品を購入していた。その中の一軒「あおいスーパー」そのスーパーマーケットが今回の事件の舞台となる。
 店主の名前は青井良雄25歳、5年前に父親からこのスーパーマーケットを譲り受けた。父は米屋を営んでいた祖父から店を引き継ぎ、町を盛り上げる為に数限りない努力をして小さな米屋をスーパーマーケットにまで大きくした。しかしひと月前に病を患い寝たきりになってしまった。母は看病の為働く事は出来ずやむなく東京で暮らしていた良雄夫婦を田舎町へ呼び戻した。一人息子の良雄は頭が良く高校を出てすぐに東京の大学へ入学した。妻とは大学のクラスメイトですぐに意気投合し、大学中に結婚をした。妻は東京生まれ東京育ちで垢抜けた美人だったが、高飛車な所も無く良雄の言う事を良く聞く大人しい女だった。大学生だった良雄はわずかな仕送りとアルバイトで生活をやりくりしていたので結婚式は就職して稼げるようになってから挙げたいと妻にはなし、妻も納得をしていた。大学卒業後に良雄と妻はそれぞれ一流企業へ転職し、一緒に暮らし始めて3年が経ち、東京暮らしに落ち着いてきたという時だった。
良雄のアパートに母が泣きながら電話をかけてきた。祖父からのお店を継いでほしい。この町の人々の生活を守って欲しいと母は熱心に語り良雄もしぶしぶ説得した。電話をきってから良雄は妻に何て話そうかと悩んだがゆっくりゆっくり事情を説明した。良雄夫婦はしばらく悩んだが親思いの良雄は田舎へ戻る覚悟をして少し不満そうな妻を説得してスーパーマーケットを存続させる決心をした。
良雄夫婦は引越し準備に追われながらアパートを引き払い、もう二度と戻らぬ東京に挨拶をして都会を後にした。東京から何度も電車を乗り継ぎ、途中で大きな船にも乗った。船を降りてからは1日数本しか無いバスに揺られ、バス停留所から20分程歩いた頃、ようやく良雄の実家へ辿り着いた。良雄にとって東京から7年ぶりに帰ってきた故郷は懐かしかった。景色も貧しい様子も変わってはいなかった。近所で飼育されている家畜の臭さが鼻を突いたがそれもまた懐かしかった。実家は祖父が建てた日本家屋で少し傷んでいたがまだまだ十分住める広い家だった。妻は良雄の隣で鼻をつまみながら疲労と田舎の雰囲気にしょぼくれた表情をしていた。良雄が玄関のドアを開けて帰宅した事を大きな声で叫んだ。奥から廊下を走る音が聞こえてきてずいぶんと痩せてしまった母が現れた。母は良雄を見るなり激しく抱きつき嗚咽した。良雄もまた激しく抱きつき嗚咽していた。その光景を見ると流石に妻も隣でハンカチを取り出してもらい泣きをしてしていた。母と子の再会にしばらく3人は玄関で感動して泣いていた。玄関からは春の暖かい爽やかな風が吹き込んできて気持ちが良かった。母は良雄の妻をよくこんな田舎へ来てくれたと暖かく迎え、奥の部屋で寝ている父の所まで2人を案内した。
父は祖父が商売で儲けたお金で建てた広い家で育ち田舎を出た事が無い。ひと月前に病で仕事中に倒れ、入院できる病院も無いまま現在の家で休養し、痩せ細って布団の中にいた。優しい父は良雄との再会、妻に会えた事を何より喜んだ。妻の手を握り涙が何度も頬をつたっていた。再会を喜んだ父と母は良雄と妻に本当に「あおいスーパー」を継いでくれるのかを尋ねて東京から田舎へ呼び戻してしまって申し訳ない事を何度も詫びた。
スーパーの名前の「あおい」とは祖父と祖母の間に生まれた長女の名前だったが生まれてすぐに病気で亡くなってしまった子の名前であり、大切にしてきた名前である事を父は亡くなった顔も知らない姉を思いながら説明した。現在「あおいスーパー」は休業しており時々母が様子を見に行く程度だと言う。あおいスーパーは品数が良く良品で集客や売上に問題は無い事、妻と2人で経営すれば余裕ある暮らしが出来るはずだと父は力説した。良雄は妻とあおいスーパーをもっと立派にし、父母や祖父母に育ててもらった恩返しを必ずする事を誓った。そして父を大きな病院へ入院をさせてあげたいと強く思った。
良雄夫婦は実家から少し離れた家で暮らす事にした。まだ祖父母が元気だった時に父母が暮らしていた離れである。少し痛みはあったが広さは十分であった。妻はまだ心細く良雄と2人きりになると胸に寄りかかりしくしくと泣いていた。良雄は強く抱きしめて自分と結婚してしまったばかりにすまない。今は苦労しか無いが必ず将来幸せにすると言いきかせた。
そんな「あおいスーパー」だが父の代からだが、町の住人達が決して口には出さない、口に出してはいけない、しかし暗黙の了解のような噂話があった。この時代田舎は土地が余っており価値も安かった為、あおいスーパーもスーパー自体は通路も広く品数は現在のスーパー程では無いが大きなスーパーだった。子供がかくれんぼや鬼ごっこをするには十分で、子沢山の家族は我が子が1人で何処かへ行ってしまわないか、いつも注意が必要だった。そして誰が言い出したのか、子沢山で口べらしに困るとあおいスーパーへ連れて来て迷子にさせて置き去りにすると、誰かが連れ去ってくれると言う噂。もちろん連れ去りは罪であったが、人身売買や連れ去りはひっそりと行われていた時代だった。その場所にあおいスーパーが残念ながら使われるようになってしまっていた。良雄の父母は知ってはいたが余計な口出しをする事で町の住民から村八分をされてスーパーの経営が出来なくなる事を恐れた。父は良雄と妻にもきちんと話し、面倒な事にならないように、迷子がいても怪しい大人がいても関わらないように釘を刺した。それが田舎のルールであると知り、良雄も妻も悲しい気持ちになったがこの町で死ぬまで生き抜くと誓った以上、父の言う事に従うしかなかった。


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