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本当の意味での「リアリスト(現実主義者)」とは?ものの見方をアップグレードする概念、役に立つから意味がある人へ


ドイツの哲学者
「フリードリッヒ・ヴィルヘルム・
ニーチェ」氏の名言に
「事実というものは存在しない。
存在するのは解釈だけである。」
というものがあります。


『権力への意志』の中で、
(ちくま学芸文庫より抜粋)

”現象に立ちどまって
「あるのはただ事実のみ」と
主張する実証主義に反対して、
私は言うであろう、
否、まさしく事実なるものはなく、
あるのはただ解釈のみと。”


”私たちはいかなる事実「自体」
をも確かめることはできない。
おそらく、そのようなことを
欲するのは背理であろう。
(〜中略〜)
総じて「認識」という言葉が
意味をもつかぎり、
世界は認識されうるものである。
しかし、
世界は別様にも解釈されうるのであり、
それはおのれの背後にいかなる
意味をももってはおらず、
かえって無数の意味をもっている。
―「遠近法主義。」”


この言葉自体にも、
解釈はさまざまありますね。
ニーチェの影響力というのは
非常に大きく、
この言葉を自分に言い聞かせる
ことが多いという話です。


”ニーチェ”を研究したり、
本を読んだりしない限り、
誰も意識することはありませんが、
一番大きな主張である予言は、
「次の2世紀はニヒリズムの時代である」
というものです。
(20世紀と21世紀を指す)


ここでいうところの
“ニヒリズム”というのは、
絶対的にこれが正しいとか、
絶対的にこれが良いとか、
絶対的な価値や基準、意味、目的
といったものが、
すべてなくなるということを
意味しています。
そういった絶対的なものが、
20世紀に完璧に壊れて、
21世紀になっても修復することが
できないというわけです。


そしてニヒリズムの時代が到来して
絶対的な正しさとか、目的とか価値、
そういったものが消えてしまったら、
何が正しいとすればいいのか、
どうやって生きていけばいいのか、
という問題が生じます。


「上から見る」という視点は、
言い方を変えると
「全体を見る」ことです。


ある会社の全体像を描こうと思っても、
それは数字の上での全体像なのか、
人や組織も含めた全体像なのか、
ましてやその会社の
「見えない部分」も含めた全体像なのか
によって異なります。


つまり、「全体」に対して
”視点によって無限に存在する”、
あるいは、
”個人ごとに異なる”ものは
「部分」ということになるわけですが、
全体像というのは誰にとっても
定義が一緒である、ある範囲のことを
指していることです。


逆にいえば「部分」というのは、
人によって定義が異なるもので、
それが誤解を生じさせるもとで
あることです。
「他人と共有できない「部分」を
勝手に全体だと勘違いしてしまう」ことが
バイアスのもとにあるのが
ここでいう問題点だと思っています。


たとえば、
自分が経験してきた人生は、
世の中の「ほんの一部」でしか
ありません。
それを誰にとっても
それが一緒のものであると勘違いして
「自分の成功体験」を万人に
通用するものであると語ってしまうのは
この「部分が全体である」ことの
勘違いであるように思うのです。


このような場合には、
相手と自分の見ている世界が
本当に同じものなのか、
十分に確認することが
必要になるでしょうし、
そんなときに必要なのが
「全体像を共有する」
ということではないでしょうか。


私たちが
日常生活で「抽象」という
言葉を耳にする場面は、
大きく2通りではないかと思います。



一つは、
パブロ・ピカソやパウル・クレー
といった人たちの描く「抽象画」が
語られる場面において、
抽象画が好きな人たちがいる一方で、
多くの人が持つ抽象画のイメージは
「訳がわからない」というものでは
ないでしょうか。


もう一つは、
「あの人の言っていることは
抽象的すぎてわからない」、
あるいは、
「あの公約は抽象的で結局
何をしたいのかわからない」
といった場面での使われ方です。


いずれの場面でも共通するのは、
「理解できない」ことの代名詞に
「抽象」という言葉がなっている
ことです。
たしかに「抽象的」の対極にある
「具体的」であるものは
目に見えたり形になったり
しているので、
誰にでもわかりやすいことは
間違いないでしょう。


ただ、本当にそれだけで
よいのでしょうか。
「具体的」であることは
わかりやすい反面、
実は本当に大事なことを
”表現できない場面”が
往々にしてあるように思うのです。


たとえば、
”具体はわかりやすく、
抽象はわかりにくい”という
一面的な見方に対する、
もう一面のものの見方を
提供(顕在化)していきます。


よく引き合いに出されるのが、
英国オックスフォード大学の
マイケル・オズボーン准教授と
カール・ベネディクト・フレイ博士が
2013年に発表した
「米国において10 〜20年内に
労働人口の47%が機械に
代替可能である」という試算です。


日本においても野村総合研究所が
そのオズボーン准教授とフレイ博士
との共同研究から、
技術進化にともない、
シンギュラリティを迎える2040年代に
日本の労働人口の約49%の仕事が
AIロボットをはじめ、ICTに
置き換わられて、なくなると
予想されています。


今はインターネットで
何でも検索できる時代ですが、
その90%以上は『情報』です。


サービスやデバイスのデジタル化を
はじめとしたICTによって、
膨大なデータを蓄積できるようになった
「デジタル化社会」では、
さまざまな形式の膨大な量の
データを分析し、ビジネスの課題を
導き出すデータサイエンティストの
必要性が高まっています。


データサイエンス
(data scienceまたはDS)を
直訳するとデータ科学、
つまり、
「データを法則的・体系的にまとめる学問」
の意味になりますが、
語意だけではデータサイエンスの役割を
はじめとした詳細は理解できません。


データサイエンスとは、
膨大な情報(ビッグデータ)から
ある特徴や要素を分析し見つけ出すことや、
その方法に関する学問です。
統計学や数理科学など広い範囲の
学問と関連しており、
データから新たな特徴を
見つけだすことが目的です。
そのため意味的には”手法”の1つです。


一方、AIとは、
”artificial intellgence”の略称で
人間のような頭脳や知能を作ることを
目指した”存在”となることが目的です。
データサイエンスは”人”の視点によって
分析が行われていますが、
AIは、機械が”自動”で分析している
という点も異なります。


そのため、データサイエンスでは
人が考える範囲で物事を見るため、
データサイエンティストの
知識や経験によって、分析結果の
『質』が変わってきます。


言葉だけを聞くと
似ているように感じますが、
手法と存在である2つは、
全くの別物であるということからも
実際は意味が変わってくるため、
十分な注意が必要ですし、
アウトプットは記憶するうえで
核になるもの、いちばん大事なもの
なのかなと思います。


そのAIは人工知能のことですが、
知能を育てる方法も複数あり、
基本的に、
深層学習(Deep Learning)
機械学習(ML(Machine Learning)
の2種類の方法で知識を蓄え、
人間のような脳みそを作っていきます。
数あるAI技術はどれも
この2つの概念に分類できるからです。


より厳密にいえば、
深層学習(Deep Learning)は、
機械学習(Machine Learning)の
発展形であると捉えられており、
プログラムで制御可能な
ニューラルネットワークを使って、
機械が人間の手を借りずに
正確な判断を下せるようにします。


わかりやすくいえば、
深層学習(Deep Learning)は、
機械学習(Machine Learning)の
一種にすぎません。
深層学習は機械学習そのものであり、
働きもよく似ています。
だからこそ、この2つの区別が
正確でない場合があるのです。
しかし、
その性能には明確な違いがあります。


(※機械学習:私たちがAIの脳を
手助けしている形、深層学習とは異なり、
ものを見る観点をAIに与える
必要があります、
たとえば、リンゴの画像を分析する際、
「リンゴの色に注目して分析しなさい」
という指令を出します)


(※深層学習:構造が人間の脳に
似ている学習方法、
私たち”意志”を持った人間と同じ
行動ができているといえるでしょうし、
数をこなすたびに
どんどんAIが賢くなっていく、
非常に魅力的なAIの学習方法)


基本的な「機械学習」の場合、
与えられた機能が何であるかによらず、
精度は徐々に向上していくものの、
人間による一定の指示が
必要なのは変わりません。
AIアルゴリズムが不正確な予測を
返してきた場合、エンジニアが介入して
調整を行う必要が出てきます。


一方、「深層学習」の場合、
アルゴリズムが自分自身の
ニューラルネットワークを使用して、
予測が正確かどうかを自分で判断します。


たとえば、懐中電灯でいうと
機械学習の場合、
だれかが「暗い」という言葉を
声に出すと、
それに反応して点灯するように
プログラムされており、
学習を継続していくと、
最終的には「暗い」という言葉が
含まれているあらゆるフレーズに
反応して点灯するようになる
可能性があります。


しかし、この懐中電灯に
深層学習が搭載されていれば、
光センサーとの連動などにより、
「何も見えない」や
「電気のスイッチが入らない」
といった声にも反応して
点灯すべきだと学習します。
このように、深層学習は、
自分で自分の計算能力を使用して
学習を行います。
その様子は、まるで自分の脳を
持っているかのように見えます。


このように深層学習は、
人間が結論を導くのと同様の
論理構造を用いて、
データを絶えず分析するよう
設計されています。
そして、これを実現するために
深層学習のアプリケーションでは、
人工ニューラルネットワークと呼ばれる
階層構造のアルゴリズムを使用します。


人工ニューラルネットワークの設計は、
人間の脳の神経ネットワークを
ヒントにしたもので、
標準的な機械学習モデルと比べて
学習プロセスの精度が
はるかに高くなります。
深層学習が不正確な結論を
導き出さないようにするのは
容易なことではありませんが、


AIの学習プロセスの精度を高めるには
トレーニングを重ねることが必要です。
しかし、想定どおりに機能すれば、
深層学習は科学的な偉業であり、
本当の意味での「人工知能」を
実現する基盤になると考える人も
少なくありません。


今日、機械学習とこれを応用した
AI(人工知能)の技術が急速に
発展しています。
既知の問題に対する対処法を学び、
それを類型にあてはめて問題を
処理していくことにかけては、
近い将来、人間の出る幕は
なくなるでしょう。


ただし、この説を提言する
オックス・フォード大学の
マイケル・オズボーン准教授は、
仕事がなくなることよりも
「6割が、今、存在しない仕事に就く」
ことを伝えています。
いわば
「誰もが起業家になれる時代」
になるということです。


芸術、歴史学、考古学、哲学、
神学など抽象的な概念を
整理・創出するための知識が
要求される職業、
他者との協調、他者の理解、説得、
ネゴシエーション、サービス志向性が
求められる職業は、人工知能等の
代替は難しく、残っていく可能性が
予想されています。


教育において重要となるのは、
学習の成果として数値化されない
「非認知能力」であり、
夢中力を育むことが
とても重要になってくると思います。


現代は
すさまじい勢いで変化していますし、
昨日までの正解が今日からは
不正解ということも珍しくありません。
誰かが用意してくれた
「答え」が
役に立つ時代はとうに終わり、
常に降りかかってくる
新しい未知の問題を
自分の頭で考えて解決していく
数学的思考力が今ほど必要な時代は
かつてないと思っています。


経済産業省のDX化により、
さまざまな業務プロセスが
自動化されていきはじめていますが、
業務のプロセス自体が大きく変わる中で、
これまでに存在しなかった
仕事や課題に対処できる人材育成が
企業に求められています。


有名になった
深層学習の技術は、
様々な形で人間のやっていることを
凌駕しつつありますが、
これは人間以外の存在が
知性に足を踏み入れたと同時に、
従来のAIブームでは
全く手が届かなかった、
人間が突出して持っていた能力である
考える力(抽象化する力)を
人間以外の存在も持つように
なってきたということでは
ないでしょうか。


「知力」は磨けば磨くだけ、
鍛えれば、鍛えただけ、
自分自身の成長につながり、
どこかで役に立ちます。
ただし、いつ、どこで、
どんな形で役立つかは決して
一様ではありませんから、
普段から磨くことは重要ですし、
ネットで誰もが高速学習ができる今、
「役立つ」だけのスキルは、
競争過多になります。


人生100年時代になり、
AIが仕事の半分を置き換える
といわれる中、


「他の誰かではなく、
あなたに仕事を頼みたい」という
誰かにとって意味がある存在に
なるということでしょうか。
自分が誰かにとって
「意味のある」存在になる、
その積み重ねで、たくさんの人の
「意味のある」存在となり、
最終的に人は
「何者かになる」のだと
思っています。


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