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自己紹介と、痒い冬

情報のせいで、割を食うことが多い。情報はいつも標準化を強いる。3回目のデートで告白するとか、そういう類。あんまりその妥当性を考える人が、いない気がする。

だから、冬の到来も、結局この標準化のせいで、個々人が抱いてそうな冬の幻想や想像力は損なわれ続けてしまう気がする。表参道のイルミネーション? 落葉しきった黒い幹? 椋鳥みたいに着込んだ人間の増殖? 天気予報? 暦? 雪? 幼稚園児のカレンダーの隅に描かれるような、こんな冬らしさ、もっともらしさのコラージュは、多様なようで、実に均一なんだと、この間思った。

だから、初投稿では、まずは標準化されたくない自己紹介として、自分の冬がどんな感じなのか、残したい。そんなものを、どうしてか不特定多数に見られたいのか、それはよくわからない。

さて、自分の冬の到来は、とても簡単で、乾燥からくる、指先、左胸の乳首、陰部の掻痒で、傷口から滲出する黄色い液体が、手紙や、計算用紙を汚すことと、下着を汚すこと。こんな生理的なものが、必ず周期に隷属してやってくる。

ずっと前に処方してもらって飲んでいない薬を、毎回この時期になるたびに思い出しては、ちょっとだけ飲んで、飽きて、飲まなくなって、また過越て、痒くなって、飲む。

時々、元号が変わっても、何も変っちゃいない自分の性惰が不安になって錯覚する時間とか西暦も、PTP包装シートの減り具合が、確実に経過を仮象するみたいだから、ある意味地雷系女子のように、冬を依存させている。勿論、すぐ飽きて飲まなくなるので、一巡しないと忘れるので、依存は過剰だけど。

依存。べったりとした、油みたいな動詞だけども、これを持たない人間はいないはずだと思う。人間は、必ず人間や人間以外に依存して存えているはずなのに。他人の依存が見える時の安心感と、見えない時の不安感。人間らしさは依存らしさで出るから、依存の見えない人間(まだ見えない、見えそうという言葉からは遠い)と関わるのは、3ヶ月くらいは楽しい。あとは、多分苦痛。見えすぎる、わかりやすすぎる依存は、結構苦痛。

苦痛がくると、縁を切りたくなってしまう。癌だと勝手に思って、切除しちゃうのだ。そう思うと、随分切り過ぎた。取り戻したいなぁ…と思うことがある。けれど、あんまり考えても、どうしようもないので、時々、冬の度に、「元気です」ぐらいかと、寝る前に妄想して、そんな詮ない妄想までもを整理してしまった夢の中で、元気そうならば、もうそれでいいのかも。


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