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西の瀬戸内海の海賊。愛媛県西予市。グーグルマップをゆく㊷

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は愛媛県西予市。

 西予市は東西に細長い市で、西側が海に面している。グーグルマップ上を市の境界線に沿ってなぞるように見ていると、西予市の南に位置する宇和島市との市境に法華峠というところが目についた。

 四国は空海にゆかりがあるため、空海伝説があちこちにあり、法華峠も空海に関係のある名称かと思って調べてみたが、全く違った。西予市と宇和島市の境にある港を「法華津」といい、室町期にこのあたりを天台宗寺院が占めており、天台宗の教義である「法華経」に由来するものらしかった。

 室町期から戦国期にかけ、伊予西園寺氏が宇和島を拠点とした。西園寺家の家臣で法華津を拠点とした水軍が「法華津」を名乗った。

 西園寺氏は、土佐の長宗我部元親や対岸の大友氏と対立した。ここで活躍したのは法華津氏である。とにかく海戦が強く、負け知らずであった。四国の武将は法華津だけではなく水軍が多くいた。

 伊予の瀬戸内海側には河野水軍。ここから村上水軍が出る。中国・四国地方は瀬戸内海の覇権争いであった。いかに水軍を手中にできるかが瀬戸内海での勝敗を大きく左右した。西園寺氏は法華津氏によって、所領である宇和島を守れたと言ってよい。

 しかし、天正十二年(一五八四年)に長宗我部軍が攻めてきた際、西園寺を裏切り長宗我部に寝返った。その後、豊臣秀吉の四国攻めによって長宗我部が撤退し、その代わりにやってきた小早川隆景の元に組み込まれる。

 その後、小早川が筑前に移封されて代わりにやってきた戸田勝隆に下城を命じられ、西園寺氏とともに法華津氏は滅亡する。

 戦国期、瀬戸内海は水軍の時代であった。しかし、海でどれだけ強くとも、それだけの話であった。豊臣秀吉が天正十四年(一五八六年)に太政大臣となって豊臣政権を確立させると、水軍は無用となった。天正十六年(一五八八年)に海賊停止令が出されると、水軍は事実上消滅することとなる。

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