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一遍上人をたずねて⑤

 一遍上人によって流行したとされる踊り念仏は、のちの盆踊りや伝統芸能に影響を与えた。

 と、するのが一般的な紹介である。しかしながら、どうも私には違和感しかない。この違和感は一体なんなのだろう?

「一遍上人の踊り念仏」というならば、その踊り方の手順や音楽について、取り扱い説明書的なものがあってもよさそうだが、どうもそういったものは一切ない。私は元々西洋音楽を学んだ人間で西洋音楽にとって楽譜は絶対的なものである。ましてや自分で考案したものであればなおさら残したい。という観点からして、踊り念仏を踊り念仏たらしめるものが存在しないとなると、いささか怪しさが出てくる。

 ここでポイントになるのが、一遍上人が「捨て聖」と呼ばれていることである。彼は晩年、自らが書き記していた思想や考えなどを一切焼き捨てた。一部残っているものもあるが、それは踊り念仏に関することではない。また、周りの人間が彼の言葉を残しているが、踊り念仏についても踊り方などに言及しているわけではない。

 盆踊りに影響を与えたという点について、出雲の阿国が念仏踊りなるものを始めたことに影響しているということらしいのだが、因果関係を確認できるものは今のところない。

 伝統芸能に影響を与えた点についてもだが、これは能を指していると思われる。なぜならば、室町期の能楽者・観阿弥、世阿弥親子における「阿弥号」が時宗のものだからである。

 一遍上人の没後、他阿真教上人によって時宗が確立され、時宗僧侶には「阿弥号」が用いられるようになった。室町期の時宗はかなりの勢力であったと言われている。

 しかしながら、他の宗派と違って時宗の僧侶は得度を受けずとも「阿弥号」を用いることが許された。つまり、僧侶と名乗りたい人間は勝手に「〜阿弥」と名乗ったのである。

 では、観阿弥、世阿弥親子はどうであるか。彼らは時の将軍・足利義満の寵愛を受け、能は保護された。当時、朝廷や貴族以下の人間が将軍に直接お目見えするなど許されない時代であり、庶民が近づけるとするならば僧侶だけだったのである。僧侶は、方外の人と言われ、浮世から超越した存在とされていた。

 つまり、将軍に近づく手段として僧侶になるというのが一番簡単な方法で、その僧侶になるにも時宗僧侶であれば簡単になれたと言うことである。つまり、観阿弥、世阿弥親子は時宗の僧侶であるとか信仰しているということではなく、将軍のそばに行くことを許される存在として「阿弥号」を名乗ったのである。

 庭師の善阿弥や同朋衆や御伽衆なども同じ理由で「阿弥号」を名乗っている。庶民が将軍に近づいてはならないというのは江戸期まで引き継がれることで、将軍お抱えの医者なども坊主頭にしているのは、それによるものである。

 このように、踊り念仏が伝統芸能に影響を与えたのではなく、当時の時代背景として時宗僧侶の「阿弥号」を利用していたに過ぎず、残念ながらここから踊り念仏との因果関係を確認することはできないのである。

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