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天照大御神と呼ばれたのはいつからか?


トップ写真 天岩戸別八倉比米神社奥の院祭壇




天照大御神という名は古事記から

サッカー日本代表。
まさかの負け。
結果は変えられないので。
切り替えて進んでほしいですね。

さて今日は天岩戸別八倉比米神社。
祀神は大日孁貴(おおひるめのむち)
即ち、天照大御神のこと


古代史入門 藤井榮さん著の本によると、
天照大御神と記されたのは古事記から。

それ以前の阿波の記録には天照大御神という
記述はない。

天岩戸別八倉比米大神御本記では、
日孁大神(ひるめおおかみ)即ち、
八倉の日孁大神と記され、

万葉集の柿本人麻呂の歌には、
日孁命もしくは日の皇子(みこ)と
読まれている。

日神子命で、ひみこのみことと読まれる。
日孁命(ひるめのみこと)は、
日神子(ひみこ)の死後のおくり名である。

藤井さんの本にはそう書いてありました。

八倉比米神社略記

私たちが皇祖神として知っている天照大御神。
その名は、古事記が作られた時からの名前。

祀神が天照大御神として祀られている神社は、
古事記選定後に創られた新しい神社である。

そうも書いておられます。
すごい自信ですね。
説得力もあります。

古代史の解釈は多種多様

だいたいの阿波説。
他の本を読んでみても、
日孁命は天照大御神であり卑弥呼。
ここは同じ。

ただ一つ、
忌部研究の権威が書かれた本には、
フトダマの子。
天岩戸別が付く神社に祀られている神は、
アメノフトダマの子である。
と、全く違う見解もありました。

どっちが正しいと言いたいわけではなくて、
古代史は、こんな感じで、
人によって、全く見解が変わります。

大切なのは一つの情報で信じ込むのではなく、
いろいろな説を学んで、
ご自身の中で、説得力あるな~と、
感じられた場所へ行ってみる。
それが大事です。

結論出ていないからこそ、
ご自身の感覚を大切に。
○○大学の△△先生が言ってるから。
それが一番危ない考え。
まあ、人は権威に弱い。
ブランディングにすぐ騙されます。(笑)

最も古い鎮魂の様式

こちらの八倉比米神社の奥の院には、
大日孁貴の塚があります。
即ち卑弥呼の塚。

一辺2メートルの五角形の石で組まれた祭壇。
その下含め山自体が古墳。
周辺は200基を越える古墳群です。

江戸時代までは社殿はなく、
現在残る奥の院を拝んでいたそうです。
江戸時代に古墳の一部を削り、
社殿が建てられました。

元々は矢野神山と称されていた、
山自体が御神体。
社殿背後の古墳を拝む神社様式。
最も古い鎮魂の形。
阿波の古い神社に共通している。
(藤井さんの本から引用)

鳥居はこれが本物 社殿はひいらぎの木と伝わる



五角形 石積みの祭壇 この下が古墳 社殿出来る前の祭祀形態

確かに、そう言われれば、
徳島全域そうなんですよ。
神社の周りに古墳や遺跡が普通にある。

ここ八倉比米神社周辺なんか、
200基を越す古墳ですよ。
古代、ここ周辺は大いに栄えた町があった。
力を持った皇族や豪族が住んでいたのでしょう。

一度参拝されてみれば、
五角形の祭壇の周辺の気。
それは尋常じゃないパワーを感じます。

たまに、
龍神が見える!
龍神様に呼ばれた!
と、おっしゃる、
とても霊力をお持ちの方がいます。

しかし私は龍神どころか、
幽霊も見たことありません。
いたって普通の凡人。

そんな私でも、
この祭壇に近づくにつれ、
あっ!
ここすごい。
そう感じました。

人が言うには、祭壇に向かって左側。
そこが一番すごい気が出てるそうですよ。

ここも移された塚?


と、いかにも天照大神の塚。
というように書いてますが、
現在の場所は移された塚。

昔は気延山(東嶺)にありました。
そこから現在の杉尾山(南麓)へ。
神社の御本記には書かれているそうですが、

記紀の説話は阿波に実在したの、
髙木隆弘さんの私見では、

名西郡神山町神領の高根山こそ、
最初の天照大神、即ち卑弥呼の塚。
そのような見解です。

髙木さんの私見、実は私も同感。
ただ、高根山にはまだ行けてないので、
一旦、保留ということで。
高根山には、
卑弥呼が居たとされる悲願寺があります。

また、天岩戸立岩神社がある同じ神山町。

神山町の天岩戸立岩神社鳥居 ここも木
天照大御神の葬儀の場所か 天岩戸立岩神社

天の岩戸神事は、
天照大神の葬儀という説があります。

天照大神(卑弥呼)が復活したのではなく、
二代目の台与(とよ)。
即ち豊玉姫への王位継承。
現代へ続く大嘗祭。
その元となる初めての神事であったかも?
私の私見です。

天照大神は亡くなり、
葬儀が天の岩戸で行われ、
ご遺体を葬った場所は、
お住まいになっていた高根山。

その後、時代が進み、
倭の中心が、
(倭は阿波、大倭は奈良という見解)
現在の徳島市国府町辺りに移された。
(地名がいかにもと感じさせてくれます)
時は推古天皇の御代。

高天原であった神山町から、
倭の中心となった場所近くに、
天照大神の御霊を移し、
古墳を設け、塚を作った。

そんな流れかと予想。

まだまだ続きます

八倉比米神社。
かなり奥が深いので、
一度では終わりません。

続きはまた次回。

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