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【マイルス・デイヴィス考古学】『Agharta』 Preludeの謎

マイルス・デイヴィスという音楽家の変遷をたどっていくことは、時に考古学にも近しい。それは「語られぬこと」を注意深く手に取ってみていくこと、考古学者が遺構で見つかった壺や断章的な作品に対して一つ一つストーリーを与えていくのと同じ作業なのではないかと思うのである。マイルスはその生涯において決して「語らぬこと」を善美としていた。語らぬこととは、彼がしばしば評された”Cool“の表現と一致する。この彼特有のスタイル・モードは、自己を曝け出したいという露出癖的な願望と、他人に理解され他人と混じりあうことを恐れるという異なる感情を同時に抱く、ある種アンビバレンツな感情が演出させるものであろう。
ステージの前面に立ち、誰も理解できないようなことを平然とやってのける。客には決して愛想は振りまかない、ステージに立つ者と席に座る者、さながら貴族と平民は決して交じり合わないというようなことを否応もなしに意識させるのみである。この点――理解されたいと願う気持ちと寄せ付けたくないという願い、極めて幼児的な暴力性――において70年代のマイルス・デイヴィスは極点に達していた。それが私、のみならず世界のマイルス者を惹く理由なのであろう。
1975年2月1日、大阪。この男はいつものようにほくそ笑んでいた。アジア有数のジャズ・マニアに恵まれた日本という国、戦前のモボ・モガの時代より始まり、アート・ブレイキー到来によるモダン・ジャズの波、この国においてジャズという音楽は決して主流の地位には納まらなかったけども底流の位置には常にあった。マイルスも多額の金を積まれては度々訪れ、本国ではいまだ風当たりが強かった60年代にも、まるで大スターのように彼を迎えたこの国の観客を内心気に入ってはいただろう。
1975年のツアーはマイルスにとって実に三度目の来日となった。それがこの『Agharta』、『Pangaea』(以降「アガパン」)にて録音が残されている。五年前『Bitches Brew』にて日本のジャズ界隈を激しく分断させたマイルス。「マイルスは商業主義に堕落した!」、「いやいや彼ぐらいの人間なんだから、この路線変更にもきっと理由があるんだと思うよ」、「そうか!マイルスは未来を見据えている!バンザイ!マイルス!」...などの会話が為されていたのは想像に難くない。とはいえ手痛い打撃には慣れていた日本の観客たち、2年前の2度目の来日でもツインギター編成という路線変更は衝撃的であったが、所詮は慣れてしまえば何てことない。しかしこの男、予想と期待を遥かに裏切ってくるのである。
午前の部、つまりは『Agharta』の一曲目、まずはマイルスの怪しげなオルガンから始まる。それからドラムのアル・フォスターとベースのマイケル・ヘンダーソンとが乗っかり、超ド級のディープ・ファンクの世界へリスナーを引き込む。サックスのソニー・フォーチュンなどジャジーな部分もあるにはあるが、強いて言えばそこのみである。レジー・ルーカスのジャンキーなギターカッティングと、これまた物凄いピート・コージーの技巧は、一見すると展開などないような感触さえ与える。
そう、これが《Prelude》と呼ばれる曲である。アガパンバンドに曲という概念自体ないと思われる方も少なくないであろうが、実はそうではないのである。確かにこの《Prelude》との題名は、コロンビアが発表時にトラック分けに悩んだ挙句、勝手に付けた題名である。しかしマイルス本人が75年来日時のインタビューでそう答えているように、一コンサートにつき大体四つか五つ程度の主題に沿って演奏を繰り広げていた。それもそのはずである、全くのフリーな演奏であれば、ここまでのアンサンブルが仕上がるはずがない。
その一方でこの時代のマイルスのいう「曲」の概念とは、極めて単純な物であったことは事実である。73年以降、このバンドによるおおよそ全ての曲は、「五拍子のリズム」であるとか「二拍子のリズム」であるとか、曲とも言い難い、ごくシンプルな骨組みだけで構成されていた。もっとも、この時代の彼らにとって曲とはある種の取っ掛かりでしかなく、存分にエネルギーを爆発させるためにはシンプルであればシンプルであるほど良かったのである。これはある種、レッド・ツェッペリンといったロックバンドのライブコンセプトにも近いものがあるだろう。
さて、私たち全国マイルス者連盟の関心を惹くのが《Prelude》である。先にも述べたように、このタイトルはレコード会社の後付けに過ぎない。本来のタイトルもせいぜい"Tune A"などごくシンプルな物であったろう。しかし、マイルスがこの時代にあっても、しっかりと「曲」を演奏していたという事実を知った今となっては、問題なのはタイトルなどではない。全国マイルス者連盟会員にあって取り組むべきは「いつ」「どのタイミングで」演奏され始めたか、という事実究明である。幸い、私はブート音源など手持ちの資料には恵まれている。YouTubeその他動画投稿サイトの存在もあることだし、この辺の事情は2000年代初頭と比べ大分易しくなってきた。《Prelude》という一曲を通じて、電化マイルスの万華鏡のごく一端をご覧に入れたいと思う所存である。

《Prelude》と《Funk》?

事態を簡明にする為に、曲そのものの構成について見ておこう。まず初めに断っておくと、筆者は楽理的な知識を一切弁えてはいないため、この節は実に曖昧な表現にならざるを得ない。YouTubeのリンクとシークバーを記載する積もりであるので、分かりにくい表現があればその都度リンクで確認していただきたい。
さて、《Prelude》とは先にも述べた通り、マイルスのオルガンから始まる。そこから全体の演奏へと移行するわけだが、この際特徴的なのはマイケル・ヘンダーソンとレジー・ルーカスの演奏である。アガパンバンドの楽曲を見極める上で、ベースとリズムギターの動きは注目に値する。基本楽曲に相当する骨組みの部分は、彼らが大いに形成しているからだ。そしてマイルス、ソニー、ピートらが順々にソロを取った後、ベースがうねり、ユニゾンへと突入する。その後は野になれ山になれの展開になることでお馴染みであるが、『Agharta』の場合は違う。次の展開を予測するまどろんだ展開の中、マイルスはあるフレーズを吹く(22:01)。それとともにリズムのパターンがチェンジ、ソニーもサックスで乗っかり、ほとんど別の曲のような展開になる。そう、『Agharta』の《Prelude》と、22分1秒から始まる《Prelude pt.2》の部分は事実別の楽曲のそれなのである。これは中山康樹氏の著作でも、異なる二つの楽曲が同じ題名で併記されていることからも誤解を受けがちである。しかし繰り返すが、これらは厳密に異なる二つの楽曲である。先にも見ていく積りだが、これは1975年1月30日の小倉公演にて、それぞれ別のタイミングで演奏されていることからもきっちり証明されている。また、同じく75年日本ツアーの1月22日初日公演においては、前半部分のみが演奏されており、22分1秒以降のパートは登場しない。さらにいえばこの前半パートと後半パートが続けて演奏された例は、この1975年2月1日のライブ(つまりは『Agharta』)のほかに存在しないのである。以上を踏まえれば、「実際に異なる二つの曲がメドレーで演奏された」と考えるのが自然であろう。
これらは世界最大のマイルスファンサイト、Miles Aheadでは如何様に表記されているのであろうか。前者は《Funk》、後者は《Agharta Prelude》と表記されている。またもややこしい話をまとめると、研究サイトによれば本来の《Agharta Prelude》とは22分1秒からの別パートを指す...ということになる。もっとも、それもこれも全く恣意的な後付けに過ぎないのだが、ここでは仮にも本サイトに準じておくとしよう。さて、ここまでの内容をまとめるなら以下の様になる。

  1. 『Agharta』に収録されている《Prelude》とは、異なる二つの楽曲メドレーである。

  2. 《Prelude》のイントロから22分1秒までの楽曲は《Funk》と呼ぶ。

  3. 《Prelude》の22分1秒から32分33秒の楽曲は《Aghrata Prelude》と呼ぶ。

《Agharta Prelude》の歴史

楽曲部分の作りが概ね理解出来たところで、今度は歴史の部分を追っていこう。ここでは『Agharta』より《Prelude》の後半部分、《Agharta Prelude》の変遷を辿っていきたいと思う。
その前になぜ前半部分であるはずの《Funk》について先に著述しないのか。それは《Agharta Prelude》の方が楽曲として歴史が古いからに他ならない。この楽曲の初出は1972年11月29日、スタジオにて登場した。時期としては『On The Corner』の収録を6月の6日に終え、9月より九重奏団を率いてライブ活動を再開するも10月19日の交通事故により中断を余儀なくされた時期とほぼ一致する。かつて登場したブート『Unknown Session Vol.2』においては、1974年録音と記載されていたが、パーソネル・音楽の質から言ってまず72年が正しい。このセッションにはバダル・ロイ、カリル・バラクリシュナらインド楽器隊、この数か月後に解雇されるセドリック・ローソンなどお馴染みの72年面子が参加している。特徴的なあのマイルスのフレーズはこの時点で完成こそはしているものの、73年以降の洪水のようなサウンドとはいまだ程遠く、どこか気の抜けた印象すら受ける。
公式においては『The Complete On The Corner Sessions』にて一応聴く事が出来る。しかしこちらの方では《Turnaround》、別テイク《U-Turnaround》と誤表記されている。どちらも後付けに過ぎないのだろうが、こんなやっつけ気味なネーミングをされてしまうと『Pangaea』《Zimbabwe》の前半21分53秒までの、《Turnaroundphrase》(『Dark Magus』《Moja》に相当)とごっちゃになってしまって非常にややこしい。せっかく世界のマイルスマニアが分かりやすいように命名・区分化しているのだから、公式の方もいい加減それに倣ってほしいものである。
さて、1973年1月よりツアーを再開させたマイルス、《Agharta Prelude》はいつ頃からライブにも登場するようになったのであろうか。分かっている範疇で言えば、初出は1月13日ヴィレッジ・イースト公演であるといえる。このコンサートは、サックスがカルロス・ガーネットからデイブ・リーブマンへと変わってから最も早期の録音であるが、如何せん音が悪い。魔女のサバト現場さながらのマイルスたちの怪しい演奏は、轟音のあまり、並みのレコーダーにあってまともに録音できなかったと見える。しかし、この曲は録音されてホヤホヤのうちにセットリストに盛り込まれたという事実が、これらの音源から分かってくる。
その後、インド楽器隊とキーボードセクションが解体され、「プレ・アガパン・セプテット」となった73年6月19日の新宿厚生年金会館公演においても本曲は演奏されているようだ。二度目の来日音源の中において《Agharta Prelude》は、6月30日大阪を除いてほぼ全日演奏されており、同時期の定番曲となっていたことがこのことからも伺える。
6月末に日本ツアーを終えた後、そのままマイルスは7月6日より短期的な欧州ツアーに出る。しかしこのツアー以降、《Agharta Prelude》は暫しその姿を消す。本楽曲が再び姿を現すのは三か月後の10月17日、ボストンのポールズ・モールにおいてである。因みにこのライブはFM音源がソースということもあってなかなか良い音質で聴く事が出来る。だがその後は10月24日の第二回欧州ツアーにおいても――残されている音源のうちでは――登場する場面もなく、73年を終える。
ここで今一つ、第一回、第二回欧州ツアーにて演奏された楽曲を見ておこう。まず《Turnaroundphrase》とそれに続く《Tune In 5》である。後者は殆ど前者と一体化しているので、独立したセクションであるかどうかは不明瞭であるが、いずれにせよ73年の「プレ・アガパン」ライブでは福岡公演を除き、必ずオープニングアクトに採用されている(注:10月27日のスウェーデンはセカンドショウ)。《Turnaroundphrase》の方は33回、《Tune In 5》の方は48回、後者の方がショウの締めにも単独で演奏されたりもしたのでやや数が多い。二番目に多いのが《Ife》の29回である。次いで多いのが《Right Off》と《Calypso Frelimo》の15回。これらはオフィシャルなネーミングがある楽曲なので説明は不要であろう。この三曲は引退後までしばしば演奏される楽曲となった。三番目は『Pangaea』の一枚目、21分53秒以降のセクションを示す《Zimbabwe》と、無題曲《Untitled Original 730424》の13回である。知っての通り前者は75年まで演奏される定番曲、対して後者は73年のみ演奏されたにもかかわらず中々健闘しているではないか。最後に一番少ないのが《Funk》の8回である。これについての詳細は後述する。
以上のことを踏まえると、如何なる事実が分かるであろうか。まず《Agharta Prelude》が演奏され始めたであろう痕跡が残る1月から、6月にかけてのセットリストであるが、この時点ではいまだ《Rated X》や《Black Satin》など旧九重奏団の楽曲がいまだ死滅してはいなかった。一例をあげれば《Turnaroundphrase》《Tune In 5》が盛り込まれ始めた6月の来日ツアーにおいても、28日の福岡公演では《Black Satin》が演奏されているのである。
一方で、4月12日に《Turnaroundphrase》《Tune In 5》が初めて登場し、7月に入ると上記の楽曲は完全に姿を消す。さらに興味深いことに、《Agharta Prelude》が頻繁に演奏されなくなっていくのも上記の時期とほぼ一致しているのである。
上述したように、《Agharta Prelude》が初めて録音されたのは72年末のスタジオにおいてであった。この時期は『On The Corner』バンド時代の楽曲の影響をいまだ色濃く残していた時期である。このバンドの特徴を筆者の100%フィーリングで挙げるとすれば、混沌の中でも明るく、また強力なソロイスト不在...といった特徴が典型的だろう。それが73年6月から11月にかけて、ピート・コージーが加入し、インド楽器隊とキーボードセクション解体により、レジー・ルーカスのポジションが定まってくると、今度は「アガパン」バンドへの脱皮が次第に始まる。「アガパン」バンドの特徴は、黒く、またソロイストの存在が前提にあるというところが大きな特徴のように思える。
いわば《Rated X》主体の『On The Corner』バンドから、《Turnaroundphrase》主体の『Agharta』『Pangaea』バンドに置き換わったと見るべきだろう。いずれにせよ《Agharta Prelude》が徐々に演奏されなくなったのは、「明るさ」と「古さ」が理由であると私は見る。
とはいえ、知っての通りこの曲はセットリストから完全に消失したわけではなかった。74年に入ってからも、1月24日にはコネチカットのシャブー・イン、6月1日にはサンパウロ、12月13日にはオハイオのスマイル・ドッグ・サルーンにて登場していたことが分かっている。74年はマイルスの体調悪化によりライブ自体が散発的、なおかつ残っている音源も少ないことから実際はもっと演奏されたと考えても良いかもしれない。
75年においては1月30日の小倉、そして2月1日大阪『Agharta』のライブにおいて音源上最後の登場となる。これ以外については、音源など頼りになる資料が存在しないので、それこそ妄想を働かせるしかない。いずれにせよ72年に録音されたこの楽曲は、登場する機会こそは減らしつつも、しぶとく75年まで生き残ったようだ。果たして『On The Corner』九重奏団の要素を引き継いでいたがために登場する機会が減ったのか、あるいは逆に74年と75年において判明していないだけで実際多くの数演奏されていたのか、この点の真相は新たな音源の発掘を待ちたいところである。以上、《Agharta Prelude》についてであった。

《Funk》の歴史

(1973年6月19日,23:31,25:44)

(1973年7月8日,1:03:40)

(1974年3月30日,25:23)

(同上,〜18:50)

《Agharta Prelude》の変遷についてはある程度辿れたところで、次は《Prelude》の前半部分、つまりは《Funk》について見ていこうと思う。まずこの《Funk》という題名そのものであるが、実にやっつけ気味であるように思える。だいいち、この時期のマイルスで厳密な意味でファンクじゃない曲を教えてもらいたいぐらいである。それはともあれ電化マイルスブートの世界でタイトルとは「いつ」「だれが」名付けたのか、全く不明瞭であるということは間違いない。もっとも初期のブート作品などでは《Unknown Medley》等々、命名に関して責任を負いたくないといわんばかりにしらを切りがちであった。それが――筆者はマイルス者となって日が浅いのでこの点を具体的に何時ごろか説明できないのは惜しまれるが――何時しか、音源の発掘による研究が進むにつれ、仮称的ではあるけども命名が為されるようになってきた。この《Funk》という楽曲も「いつ」「だれが」名付けたのか不明であるが、あくまでファン間での仮称的な呼び名である、という点に留めて理解してもらいたい。
さて、この楽曲が初めて登場した場面は《Agharta Prelude》とは違い、スタジオではない。またもここでその名が登場する、1973年6月19日東京、新宿厚生年金会館のライブにおいてであった。とはいえこの時点では私たちが知る、マイルスのオルガンから始まり、バンド全体がおどろおどろしいグルーヴを刻む、あの形式とは異なる。注意深く観察すべきは23分31秒以降、《Right Off》明け、リズムが変わり始めた頃合い。ここではピート・コージーがソロを取るが、まだ《Right Off》の要素を引き継いでいる。そこに25分44秒、マイルスが割って入って吹くソロのフレーズ、これは明らかに『Agharta』の2分38秒に吹かれるフレーズと一致しているだろう。それに呼応するかの如く、マイケル・ヘンダーソンらを中心にパターンを少しづつ変えていく…というのが《Funk》の初登場場面である。しかしメンバーの躊躇いがちな感じ、いまだ色濃い《Right Off》の要素、これらを加味して考えると恐らく、というか間違いなく、この時点では即興に過ぎなかったと思う。
マイルスのライブにおいて、スタジオ録音に先駆けて新曲が演奏されることはそう珍しいことではない。7月8日モントルーにて、スタジオに先駆けること二か月で演奏された《Calypso Frelimo》などがその典型的な一例である。しかしこれらは恐らくライブに臨むより前、録音こそは為されていなかったものの、既にスタジオにて譜面に起こされていたケースであろう。さらに念慮に入れるべきは、「即興で楽曲の基が生まれた」というケースである。一例を挙げるとするなら、64年ミラノ(《All Blues》のソロ前半部分)においてマイルスは、《Jean Pierre》のフレーズを81年の復帰に大いに先駆けて演奏していたこともある。「即興は作曲の一種」という言葉がある。演奏家としてのマイルスは弾け散るような天才的な即興で必ずしも魅せなかったが、上記の様に即興で吹いたフレーズを何時でも引き出せるように温めていたのだと思う。以上を踏まえると、《Funk》の場合は「即興で楽曲の基が生まれた」ケースであると結論付けられる。
《Funk》は1973年、分かっている限り8回ほど演奏されている。その大半が初登場の6月19日から四か月後、10月以降の第二回欧州ツアーに偏っており、いずれもが《Right Off》と繋がる形で演奏されていたようだ。6、7月にはあまり登場の機会がなかったようだが、これは恐らく6月19、20日、7月10日以外に《Right Off》が演奏されていなかったことと何らかの関わりがあるのではないかと思う。まず《Funk》が初めて登場した翌日、6月20日であるが、この時点では未だ即興のフレーズに過ぎなかったのであろう。これは恐らく7月10日ロンドン・レインボーシアターの場合も同じであったと考える。
《Funk》が再び登場するのは、10月のボストン・ポールズモールにおけるコンサートである。この際、《Right Off》が三か月ぶりに登場しているのは偶然であろうか、はたまた必然であろうか。事実がどうであるにしても、この時点から《Funk》が《Right Off》のメドレーに加えられ始めたということは間違いなさそうだ。それ以降24日から始まった第二回欧州ツアーにおいても、この二曲は決まってセットで演奏されていたようである(唯一最終日11月24日ボルドー公演は《Right Off》が未完全収録のため、二曲が演奏されたかどうかは不明)。これらを鑑みるに、73年の時点で《Funk》は《Right Off》の一部に過ぎなかったが、もともとは後者だけで独立たりうるものであり、二曲とも分離独立できる下地はすでにあった…という考えが自然と導き出されてくる。
さて、73年に始まる《Right Off》と《Funk》のメドレー、判明している限り少なくとも1974年1月27日までこの演奏形態が常態化していたようである。この状態が変わり始めたのが74年3月30日、公式盤で言うと『Dark Magus』におけるライブであった。この時期のマイルスのコンサートホール演奏はクラブでのそれと比べ、セットリストに大きな変動が少なく、変則的な演奏も少ない、ややパターン化しているのが特徴でもあった。しかしこの日のコンサートはカーネギー・ホールという権威的な場でありながら、かなり「崩し」に掛かっていたように思える(とはいっても観客はそんなことを知る由もないのだが)。
《Funk》が初めて単独で登場する場面はタイトルで言うところの《Wili(Part.2)》、アルバム全体で言う25分23秒頃に登場する。《Tune In 5》のフリーキーな演奏を終え、暫しの静寂を打ち破るかのように登場するのはアル・フォスターのドラム。ここでは明らかに既存の曲とは異なるドラミングパターンとなっている。ベースのパターンなど細かな点でまだ未完成な部分もあるが、マイルスがアレンジをしながら断続的に吹くフレーズは明らかに我々が『Agharta』で知るそれと同一。さらにセカンドセット一曲目《Tatu(Part.1)》部分における再登場でそれは確信へと深まる。
まずマイルスの怪しげなオルガンから始まる部分、これはもう殆ど『Agharta』の《Prelude》と同じであろう。ソロを担当するのはマイルスがジミヘンの再来と一時は称えた仏国の黒人ギタリスト、ドミニク・ガモー。途中で挟まるヤケクソ気味のオルガン乱舞に、とにかく粘っこいガモーのソロが絡みつき、ドープ度数は間違いなく史上最高度に達している。
一度のライブに二回、それも判明している限り初演であるという事実は我々を何より驚かせる。これらは果たして全くの即興パートなのであろうか、或いはある程度楽曲部分が作られたうえで演奏された、再現演奏なのであろうか?事実は恐らく天国ではないあの世に居るであろうマイルスか、生き証人であるマイケル・ヘンダーソン、アル・フォスター、デイヴ・リーブマン辺りに尋ねるしか術はないように思えるが、幸い私たちには残された音源と楽曲の分析という手段が残されている。音源という観点で見れば、73年セットリストの面影を偲ばせる74年1月27日のマッセイ・ホールでのコンサートから、同年3月30日カーネギー・ホールまでのおおよそ二か月間は空白期間である。この間もマイルスは多忙なスケジュールをこなしていたことが分かっている。
音源が歴史の闇に埋もれて分からないとあれば、貴重な資料である『Dark Magus』にて聴ける、「音」の面に、実に皮相的な試みではあるが注目してみよう。まず計二回に及ぶこの《Funk》パートであるが、全くの即興にしては仕上がりすぎてはいないだろうか。この段階において《Funk》は概ねどのぐらいのタイミングで演奏されるか定まってはいなかったようだ。しかし一方で、殆ど変則的といっても良い登場にあってもベースやドラム、トランペットのフレーズパターンは決まっていたように見える。全くの即興であれば前曲のパターンを多少なりとも引き継ぐはずであるし、事実それが二度も登場するとあれば却って「弾きこなされていた」と考える事も出来なくはない。73‐75年のマイルスにおいて、同じコンサートで同じ楽曲が二度三度登場するというのは《Turnaroundphrase》と《Tune In 5》以外ほとんど例がない。これらはアル・フォスターのドラムパターンから入るという極めて明瞭な「キー」を持っていた。明瞭なキーを持っていることは、楽曲部分がシンプルであるためバンドメンバー間で非常に共有し易い。繰り返し確認するが『Dark Magus』における《Funk》の一度目の登場は前曲からごく自然な流れで、二度目の登場はマイルスのオルガンから一曲目に演奏されている。性格を変え何度も登場するということは74年3月時点、《Funk》はある程度メンバー間で共有される楽曲となっていたのではないだろうか。
《Agharta Prelude》とは違って、《Funk》のスタジオ録音は現時点で確認されていない。スタジオで予め録音されていない曲はライブに登場するはずがないと思われるかもしれないが、先述した通り《Calypso Frelimo》はライブが初出である。確かにこの時点の《Calypso Frelimo》は細かな点で仕上がってはいなかったものの、マイルスのプレイにバンドメンバーたちが応えていく様を見るに、明らかに「準備」されていたものであった。つまりは録音こそ為されていなかったが、既に譜面に起こされていたり、構想の下メンバー間だけで共有状態にあった、と見るのが順当であろう。
以上を踏まえるなら『Dark Magus』における《Funk》も、おそらく即興というわけではない。73年からのフレーズを発展させて予め譜面に起こされていたか、あるいは一月から三月までの音源空白期間に登場し始めた説も可能性としては十分ありうるだろう。
さて、その後の《Funk》は殆どセットリストとしては定着したように見える。4月19日のキーストーン・コーナー(http://www.plosin.com/にて情報のみは記載されてはいるが、未だブートとしてはリリースされていない)を始め、12月13日に至るまで大半のライブにおいて演奏されたことが確認されている。それらの内、8回ほどがオープニングナンバー(セカンドセットも含む)、2回ほどが何らかの楽曲に続く形式で演奏されていたようだ。『Agharta』のイメージもあり、《Funk》はオープニングテーマとして採用されていた印象も強いだろうが、事実その傾向が強かったことが分かる。
これは楽曲そのものの特性もあるだろう。知っての通り《Funk》は、マイルスのオルガンから始まる。次から次のセクションに移行するにあたって、マイルスはトランペット&オルガン、あるいは身振り手振りでメンバーに指示を与えていた。しかしオルガンの場合、アガパンバンドの轟音の最中にあって明らかに埋もれかねてしまう側面があったのではないか。もちろん《Maiysha》の様に突然割って入るスタイルもあるにはあるが、《Funk》の場合は《Ife》の導入部分と同じく、割り込むには導入フレーズそのものがスローでダウナー過ぎたように思える。対していざという時に決まって現れる《Tune In 5》、この場合はアル・フォスターの強烈なドラムから入るが故にメンバー全体が演奏に乗りやすかったのだろう。
話を戻して75年以降の動向も見ておこう。まず『Agharta』『Pangaea』を輩出した日本ツアーである。一連のツアーでは偶然か、1月22日(東京)、23日(東京)、30日(小倉)、2月1日(大阪)、7日(東京)、8日(東京)という録音記録においては全日程で演奏されていたようだ。それらは何れもセカンドセット含め、オープニングナンバーとして採用されていたことが確認されており、その点74年の変則性が浮き彫りとなっている。
状況は帰米後も変わらなかったようだ。残された音源を見るに、3月22日ホフストラ大学から6月11日ボトムラインまでの計7回の登場中、5月3日ポールズ・モールを除いて全てがオープニングナンバーとして選曲されていたようである。アガパンバンドのラストイヤーとなるこの年、同時に『Agharta』『Pangaea』にてやっと公式お披露目ともなるのだが、おそらくこの時点で演奏そのものは大分パターン化していたのだと思う。

まとめ(1973年~75年までの変遷)

さて、これらの省察を踏まえて、73年から75年までの変遷を振り返ってみよう。まず73年1月から6月までの九重奏、十重奏団、「晩期イン・コンサートバンド」。ソロイストより大人数によるグルーヴの偏重視、《Rated X》や《Black Satin》といった楽曲など、『On The Corner』のコンセプトをライブで再現したようなスタイルが依然継続することからこの名を付けた。しかし《Turnaroundphrase》と《Tune In 5》の登場により、少しづつアガパンバンドへの脱皮を控えていた時代だといえる。
続くのが6月から7月にかけての「前期ターンアラウンド・フレーズ・バンド」。この時代はサックス担当がソニー・フォーチュンではなく、デイヴ・リーブマンであることから特徴づけられる。バンドは6月の来日ツアーにて初お披露目となったが、28日の福岡においては《Black Satin》が登場するなど前時代の影響を引きづっているように思える部分はある。また7月の欧州ツアーでは《Calypso Frelimo》は二回、《Rigt Off》は一回と、以降のバンドを色鮮やかなものにした楽曲の登場が控えめであることも特徴の一つといえるだろう。
この体制は10月から11月にかけての第二回欧州ツアーにてある程度安定期を迎える。この時期を仮にも命名すれば「完期ターンアラウンド・フレーズ・バンド」ともなるかもしれない。9月17日にスタジオ録音された《For Dave》、《Calypso Frelimo》が頻出する様になり、セットリストはある程度固定化している。また先述の通り、《Right Off》には必ず《Funk》が伴って演奏されるようになった。このバンドは演奏の練度を上げつつ、分かっている限りであれば1974年1月27日マッセイ・ホール公演まで、セットリストが維持されていたようだ。
しかしこの安定状態にマイルスは不満を覚えたのか、1974年3月30日カーネギー・ホールにて、サックスにはエイゾー・ローレンス、ギターにはドミニク・ガモーを加え、オーディション兼本番に挑ませるという暴挙に出る。結局エイゾー・ローレンスの方はお眼鏡にかなうことは無かったが、セカンドセットにおいて素晴らしいソロを披露したドミニク・ガモーの方は正式加入が決まる。これによりマイルス史上類を見ないトリプルギター編成、「前期ファンク=ターンアラウンド・フレーズ・バンド」時代へと突入する運びとなった。この時代は74年3月30日からガモーが脱退する同年12月下旬まで、またサックス奏者がソニー・フォーチュンとなった時代も含有するものとする。セットリスト面での大きな変更点といえば、まずは《Funk》の単独登場が挙げられるだろう。これ以前のマイルスバンドはオープニングナンバーには必ずといっていいほど《Turnaroundphrase》、《Tune In 5》のメドレーが選曲されていたが、この時期より《Maiysha》《Mtume》など多様な楽曲が演奏されるようになった。
ところで、新規加入のセクションがギターとサックスであるという事実は何を意味するのであろうか。恐らくマイルスはこの時期、デイブ・リーブマンとピート・コージーに不満を覚えていた。例えばマイルスが1983年、従来のギタリストであったマイク・スターンに加えて、ジョン・スコフィールドを入団させた理由は、スターンにスコフィールドのテクニックを学ばせる企図があったということで知られている。ここには「競わせる」意図があったのも確実であろう。実際リーダーとしてのマイルスは、キャノンボール・アダレイとジョン・コルトレーン曰く、あえて「あいつを見習え」というようなことを吹聴して回り、メンバー間の対立を好き好んで演出していたようだ。
つまりはガモーとエイゾー・ローレンスは、コージーとリーブマンに対する「当て馬」だったのではないか。しかしガモーとローレンスがあっさり解雇された事実を見るに、結局はマイルス、「従来の二人がベスト」という判断に落ち着いたのだろう。以上をまとめるとするなら、74年「前期ファンク=ターンアラウンド・フレーズ・バンド」は、73年第二回欧州ツアー「完期ターンアラウンド・フレーズ・バンド期」の安定期を、再度「崩し」に掛かっていた時期だと見ることが出来るかもしれない。
さて、ガモーは結局マイルスの期待に応える事は出来ずに12月下旬に解雇される。これによりサックスのソニー・フォーチュンを除き、73年6月~74年3月までの編成へと前戻りすることとなった。しかし技術の面ではコージー、ルーカスを中心に進化が目覚ましく、明らかに73年スタイルとはかけ離れたものとなっている。以上の特徴を備えたバンドを仮に「完期ファンク=ターンアラウンド・フレーズ・バンド」(1975年1月~3月)と名付けるとしよう。
この時期に至って《Turnaroundphrase》と《Funk》がオープニングチューンとして頻繁に採用されるようになり、やや固定化したような印象を受ける。『Agharta』『Pangaea』にてようやく音盤化するこの時期、73年から始まった一連のバンドとしては、円熟期に当たると思われる。総じて74年の「崩し」に掛かっていた「過渡期」に対して、73年10月以来の――それでいて技術面では別物レベルで進化した――「安定期」であると考えられるだろう。
さて、サックスのソニー・フォーチュンは同年3月ごろにバンドを脱退したと思われる。ところで従来音源上彼のラストステージとされてきた3月22日ホフストラ大学でのライブであるが、これまた奇妙な事にMiles Aheadの方では後任サクソフォニストであるサム・モリソンのファーストステージであると断定している。曰く、2月27日のスタジオセッションを最後にソニーはバンドを去ったのだという。しかし、あくまで私の頼りない耳を当てすれば、手癖の強いフレーズはかなりソニーのそれと似通っているように思われる。楽理的な根拠を持ち出せないのが何とも惜しまれるが、ともあれこの話はこの程度で留めておくとしよう。
サム・モリソンの音源上の初登場は(Miles Aheadを参考にすれば3月22日)5月2日のポールズ・モールである。その三日後には早速スタジオ入りし《Minnie》と《Untitled Original 750505》の吹込みを行っている。この70年代のマイルスが最後に率いることとなったバンドは「晩期ファンク=ターンアラウンド・フレーズ・バンド」と名付けよう。特徴としては《Funk》《Turnaroundphrase》を始め、以前までのパターンを踏襲したような演奏が続く反面、新たな可能性を模索していたような部分も感じさせる。特に《Minnie》と《Untitled Original 750505》という二つの新曲は、これまでのリズムを徹底追求するスタンスとは明らかに性格を異にする、メロディックな作品となっている。しかしながら今や限界に達していたマイルスの身体には、これらを発展深化させていく余力は残されていなかった。同年9月5日、セントラル・パークでのコンサートを最後に、マイルスは長期引退期に突入することとなる。

あとがき

私がここで仮にも示した考証は、人によれば無粋であると非難を受けても致し方がない面があると思う。だいいち、こんな風な説明がましい「理解」が音楽を楽しむうえでどの程度関係があるのか分かったものではない。音楽は偏に感性に依るものなのか、それらしい理屈を混ぜたりはしたものの、楽理を弁えぬ筆者は結局フィーリングに頼らざるを得なかった。
マイルスの音楽は神秘である。それはもう、「理解を寄せ付けない」それ自体が彼の魅力であるように。では、「分からない」ことだけが彼の楽しみ方なのだろうか?
しかし、実際彼の音楽は知性と緻密な理論で、さらには慎重な実験のもとで練られていた。マイルスが語らなかったことに言葉を与えること、今回は私の力量の及ばない点もあったが、「マイルス考古学」を今一度進めていくべきであると深く思う所存である。





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