大人の階段とジブリ
大人になってしまったんだなと、子どもと接していて思う。
私には2人の子供がいるから、その子どもと接しているときに自分がいかに世間体を気にして生きているという事を自覚せずにはいられない。
仕事で接する子どもといても…。
大人はやっかいだ。
ただ、生きていくためにはその時その時の顔を持って、無意識の中で使い分けをしながら生きていく必要がある事も事実だ。
何も、知らないのに知ったかぶりをして子どもに諭す瞬間、必死な自分とどこかでシラケている自分のギャップに気づいたりする。
この子が幸せになるように…と子どもの将来に祈りを捧げる事があるが、果たして、私自身「幸せ」になりたいと思った事はあるだろうか?
少なくとも財や名声には全くと言うほど興味が無い。
こんな事を書いたら、「贅沢もの!」とか「思い上がり」とか?言われるのかな。
義理の母がよく、「うちは幸せで良かった」と言う。その時に「そうですね、幸せですよね」と言ってあげたいし、そう思う事が大切なんだと思うのだが、上手く言えない。軽く口角を上げて頷くのがやっと。心の中は少しばかり複雑だ。
「あたし幸せになりたいんだっけ?」
ふとそんな言葉が頭に浮かぶ。
美味しいご飯を食べた時、子どもとアンパンマンを一緒に観ている時、お風呂に入った時、友人と美味しいお酒を飲めた時、心地よい風が吹いた時、遠くに旅行に出かけられた時、ふとした瞬間に「あっ、幸せなのかも」と思う事があるが、自分だけがずっと幸せでいたいとは思わない。
最近、また私の中でジブリ熱が再燃していている。「君たちはどう生きるか」を鑑賞してからだろうか。YouTubeでジブリ制作秘話や舞台裏、鈴木敏夫さんのラジオ、宮崎駿氏のインタビューなんかを観まくっている。
その中に私がモヤモヤと感じていた「幸せ」について言及した宮崎氏のコメントがある。
「人生の目的は幸せになる事ではない」とハッキリ彼は言っている。
とにかく目の前の事を必死でやり続ける事
自分を簡単に許さない事
諦めていきながら諦めない事
宮崎氏は作品について考えている時、鼻奥から血の匂いがしてくるという。
眠れぬ夜を当たり前に過ごすという。
もっと苦しめ。と言う。
大人の階段路半ば。
でも、大人になりきりたくないと思っている。
心のままに生きる事は、きっと苦しい事なのだろう。
ジブリ作品には人生の節目で出会う様々な葛藤に対する熱いメッセージが沢山ちりばめられている。
そのメッセージを、大人になるにつれて受け入れていけなかった。
宮崎氏がずっと意識していたのは「子どもの目と心」だ。
その子どもを知るということは、単純でなくて、もっと深いところまで探しに行かないと出会えない。
それは魂を磨くような気の遠くなる作業なんだ。
若い頃は、複雑な事象を単純明快にした方が世の中を渡って行けるし、生きやすくなるのだろうと感じていた。深く考えたり、心のまま感じる事はややこしさを生むと思っていたから、感情とか思考に蓋をした。
しかし、単純明快にしようとするほど、事象は複雑な事に気づく。混沌として複雑な中に生きているのだと実感する。
綺麗事を言えば、私は「誰かの心からの笑顔」が見れた瞬間に感動する。仕事柄そうなのかも。
「幸せ」より「感動」して生きていたい…が私の望む生き方なのかもしれない。
心が震える瞬間に出会いたい。
もっと苦しんで、楽しみたい。
子ども達が心から震える感動に出会えていますように。その心を育てていけますように。
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