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エッセイ「米国と日本における、信仰による文化と無宗教に関する比較」

序章

現代において、宗教は世界のあらゆる地域で決して小さくない影響を持つ。政教分離が採用されているか否かにかかわらず、政治的な関連も深い。また、国や諸団体のみならず、個人の生活様式にも密接に関わっている。キリスト教国家として最も分かりすい例が、アメリカである。カトリックから逃れてきた人々によって形成された清教徒(ピューリタン)の国では、その宗派の特徴が大きく現れた文化が形成された。アメリカがヨーロッパよりも商業的に成功しているのを、カルヴァンの予定説を基にした勤勉な労働を起因とするのも、その例の一つである。かの国では聖書に基づいた福音主義者も一定の割合で存在し、そこでは宗教は完全に人々の文化の一部と言っていいだろう。その対抗勢力として少しずつ台頭しているのが、無神論である。しかしキリスト教を土台とした国家であるアメリカでは無神論は嫌われる傾向にあり、政治家においても無神論を名乗る人はまだ少ないのが現状である。

一方、日本の信仰についてはどうだろうか。仏教と神道を主体とした日本の宗教文化は、現在でも多くの人の日常生活に取り入れられている。初詣や葬式などの冠婚葬祭がその主たる例である。そしてその多くの場合、その文化に信仰は伴っていないと考えられる。日本人の宗教観は、全くといっていいほどアメリカのそれとは対照的な場所にある。実際には日本人の習慣には信仰がかなり深く結びついており、それを理解せずに宗教行事に参加するのは愚かなことであるという主張もある。しかし私は、「宗教文化」に対しては無宗教であっても無神論であっても問題はないとする立場を取る。ただし、宗教は文化を形成するエネルギー源であるとする考えは否定しない。むしろ信仰を原動力とした文化の中で無神論者の生きる日本を考察するのが目的である。日本では政治に関しても、宗教との関わりは否定的に見られる。2020年7月の安倍首相暗殺をきっかけとして露わになった政党と宗教団体との関係が追及されるのも、日本人の宗教嫌悪が背景にあると考えられる。アメリカとは対照的に、日本で無神論者を名乗ることは、どちらかというと肯定的に捉えられる傾向があるのだ。

信仰を伴った文化を有するアメリカと、信仰を伴わない文化を有する日本での、宗教に対する考え方の差はどのように表れてきているのだろうか。また、近年では無宗教者の数は両国において増えているが、同じ「無宗教」と称する人々の中でもその精神はどのように異なっているのだろうか。本エッセイでは、キリスト教の信仰に基づくアメリカ社会と、教義と信仰が失われつつある日本社会とを比較しながら、両国における「無宗教」と「無神論」について論じていく。

アメリカの宗教観

アメリカは、その誕生の背景に宗教があると考えることが出来る国家である。16世紀のヨーロッパにおいて、堕落した聖職者とそれに伴い腐敗していったローマ・カトリック教会が批判され、ルターによって先導された宗教革命が起きた。その一部がピューリタンとなり、信仰の自由を求めて新しい土地に来たのがアメリカの始まりである。このとき最初の入植者の一人であるジョン・ウィンスロップが掲げた概念が、「丘の上の町」である。これは聖書に基づいた宗教国家としてのアメリカの、まさに始まりの言葉である。植村(2005)はこれについて、「現在もアメリカ人の精神に意識的また無意識的に確固と定着化しているのかもしれない」(p.2)と述べた*1。

近年世界中で注目を集めているLGBTQといった存在や、それに付随する同性婚、さらには中絶に関しても、宗教的価値観に影響されて評価されている。これらの問題は経済や外交とは異なり人々の生活と直接的な関係を持つ。このような問題に対してアメリカの政治界隈で大きな力を持つのが、ファンダメンタリストを含む保守系キリスト教の人々である。彼らはキリスト教原理に基づいた生活を求め、聖書で認められていないものは国政としても認めない方針である。日本での政治と宗教の結びつきに対する極端な嫌悪とは対照的に、アメリカでの宗教の立ち位置は分かりやすいことが分かる。

このような「超」キリスト教国家であるアメリカにおいては、無神論はある意味イデオロギーとして確立しようとしている。竹下(2010)は、日本ではそもそもマジョリティとして神がおらず、サウジアラビアのような宗教原理国では争うスペースすらないため、アメリカが最も先鋭的に無神論を議論しているのではないかとその著書で記している*2。しかし実際には、未だ多くの国民が宗教を日常生活、最終的には政治と関連させている現状において、政治家が無神論者を名乗ることはなかなかできないと思われる。前述した保守系キリスト教徒は共和党など、伝統的に宗派ごとに支持政党も決まっていることが多い。また、所属する宗派によってだけでなく、無神論を公言する政治家に対してはその信用が圧倒的に下がるとされている(竹下, 2010)*2。

なぜこれほどアメリカで無神論は受け入れられないのだろうか。ヨーロッパにおいてもアメリカにおいても、一定数の無宗教の人々は存在する。しかし彼らのうち、この世界が完全に科学的に説明されるものであり、神や上位存在などいないと考える人の割合は少ない。これはWilkins-Laflamme(2019)の調査からも分かることである*3。つまりアメリカでは、カトリックやプロテスタントなど、一神教の特定の宗派の教義を信仰していなくとも、何かしらの絶対的な存在を認める傾向があるのだ。そして、それが善悪の判断をすると考えるのが、一般にアメリカの道徳とされている。日本の学校のように授業で道徳を学ぶのではなく、倫理規範は家庭や教会で学ぶべきものとされているアメリカの風潮も、そのことを示していると考えられる。

日本の宗教観

さて、移民によって成立した比較的新しい国家であるアメリカに対し、島国として固有の文化を育んできたのが日本である。16世紀にイエズス会によってキリスト教が布教されたときも土着の宗教の力が勝り信者がそれほど増えなかったのは、多くの日本人が知っている事実である。日本では主に神道と仏教の考えが主流となっている。神道は『日本書紀』にある神話から続く日本固有の宗教であり、仏教は6世紀頃に日本に伝わったとされ、それ以降国内で圧倒的な支持を集めてきた。

現在では、神道の宗教行事である初詣然り、仏教の宗教行事である仏式葬儀然り、信仰心を持って参加する者は少なくなってきている。そしてそのような日本の中で散見されるのが、積極的に神の存在を否定する無神論者である。彼らはいわば「逆ファンダメンタリスト」であり、宗教行為を、信仰心をもって行う人々を狂人として軽蔑する。

しかし、信仰心がない宗教行事は形骸化された意味のない行為であるとは言えないとするのが本論の立場である。信仰心が風化した宗教行事に関する著者の見解をここに述べる。例として、本来は神道を基にした宗教的な意味を持った行為である「お年玉」を挙げる。神様からの「魂」をお餅に見立て、それを家族に渡していたことが起源とされている。そしてその文化は、神様も魂も存在しないと多くの人が考えている今でも残っている。これに関してはもはや宗教行事ではなく単なる習慣と捉えている人が大半であるが、それは問題ではない。これを、宗教を起源とした行為であるとした上で、日本人は日本の文化として取り入れているのである。神を信じなくとも文化は享受することができる。これが信仰を伴う宗教行事と、それを伴わない「文化」の違いである。

また、上記したように、宗教行事として日本人にとって最も関わりの深いイベントは、葬式であると考えられる。葬式は、仏教に限らず多くの宗教の中でそれぞれ特有の形を持ち、その共同体の中で死者を弔うときに必ず経る行為である。その際、仏式葬儀で僧侶がお経を唱えるのを聞き、そのことによって死者が極楽浄土に行けると本気で信じている日本人は多くはないと思われる。しかし、だからといって葬式という儀式は必要ないのだろうか。否、宗教的な意味はなくとも社会的な意味は大きく存在する。葬式というイベントを通して、親族や友人と集まって悲しみを共有し、慰め合うことができる。また、一瞬のうちにこの世から消え去った命に対し、それを現実として受け止め、気持ちに区切りを付けることが出来る。このような社会的、言うならば非宗教的とも言える意義は、葬式だけでなく初詣を含めあらゆる儀式にも当てはめて考えることが出来る。

日本ではこのようにして、神を信じない者たちによって、文化としての宗教行事が尊重されてきた。しかし全ての日本人が無神論者であるわけではない。霊魂という概念にしても葬儀という行事にしても、それらを完全に否定することのできない考えが根底にある人も一定数いると考えられる。それが、神の存在を肯定も否定も出来ないとする不可知論という概念である。これは多くの日本人が潜在的に持っている考え方であるとされる。冷静に科学的に考えてみれば神などいないはずであるが、大吉が出れば何かいいことがあるかもしれないと感じる。ただの石だと分かっていても、墓石や地蔵菩薩には何か神秘的なものを感じる。ここでは、これらのような考えも不可知論の一種であると考える。つまり、日本人の不可知論の根底にはやはり神道や仏教があり、それは多く場合アニミズムと似た性質を持つと考えられる。

結論

以上のように、その国家の成り立ちから現代の信仰に関してまで完全に異なった背景を持つアメリカと日本であるが、両国において共に無宗教を主張する人が増えてきているのが現状である。しかし無宗教は決して文化を壊す存在ではない。ある時期において信仰によって形成された文化に対し、現代人の信仰の有無は問題ではないのである。

また、両国における不可知論のあり方も、その国の伝統的宗教の性質を持っていると考えることが出来る。日本人の場合はアニミズムに際した不可知論であり、アメリカ人の場合は一神教に際した不可知論である。これらは少々異なっているように見えるが、科学によって否定されていく宗教が最終的に落ち着いた先の姿は、それらのようになるのではないかと考えられる。現代に生きる人々がこのような価値観を認めていき、無神論を含めたあらゆる宗教観が受け入れられる世界を期待したい。

参考文献

*1 植村泰三. (2005). アメリカ例外主義に関する一考察. 目白大学総合科学研究, 1, 1-9.
*2 竹下節子. (2010). 無神論―二千年の混沌と相克を超えて. 中央公論新社.
*3 Wilkins-Laflamme, S. (2019). Religion, Non-Belief, Spirituality and Social Behaviour among North American Millennials.


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