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小さな設計事務所が20年目にしてやっとたどり着けたやり甲斐ある仕事|日本中の空き家問題の解決と受注型産業からの脱却までの道のり

小さな設計事務所が見つけたやり甲斐ある仕事の方法を、建築に出会った高校生から現在まで、約22年間の行動履歴を元に綴っていきます。一気には書ききれないので、途中の段階で公開していきます。内容が日に日に変わると思いますが、それも含めて楽しんでもらえれば嬉しいです。

*一つのnoteを更新する形で書き進みますので長文になっています。
*タイトルの数字は記事を書いた日にちです。
*気になるタイトルから読んでいただいた方が楽です。

株式会社Reborn 古市伸一郎/FAD建築事務所代表

201003...建築の世界を目指して

僕が、設計という仕事を知ったのは高校3年生の春。当時放送されていた”11PM(イレブンピーエム)”という大人の深夜番組だった。同年代の方々ならご存知だと思うが、いわゆる大人の深夜番組お色気系の内容が多かった。そんな中、月曜日(司会は三枝成彰)だけは今でいう意識高い系の枠で、世界のアカデミックな情報が提供されていた。そんな月曜イレブン(当時そう呼ばれていたと記憶する)で、イタリアの建築家という、もう名前すら忘れてしまったが、見た目にもかっこいいゲストが現れた。当時話題の建築物を紹介していたと思うが、この建築家という仕事がすごく魅力的に見え、自分の将来の仕事を意識した瞬間だった。それを今まで30数年やってるのだから、人生ってそんなもんなのかなぁと今更ながら思う。

進路を決めなきゃいけない時期、特に進学校というわけでもなかったが、系列の大学が同じ敷地内にあったため、普通科の生徒の半数以上はそのままその大学への進学を決めていた。同大学に建築学科があったため、僕も変わらずそこへの進学を考えていた。しかし、系列校といえどすんなり進学できるわけではない。高校での成績や普段の様子(いわゆる内申)で順位がつけられ、入学枠への振り分けが行われた。中でも、僕にとって一番のハードルは早朝課外への参加だった。早朝課外とは、系列大学への推薦入学を目指す生徒に課せられた必須の授業枠。朝7時から本来の始業時間までの特別授業だった(と思う)。

ただでさえ早起きが苦手だった僕にとって、この朝課外はとてつもなく高い壁だった。さらに、すごい田舎の自宅から高校までの通学はなかなか大変なもの。自転車を20分漕いで自宅から最寄りのバス停まで行き、そこからバスに乗って最寄りの電車駅まで15分、その電車に揺られること20分。ここで終わりではない、最後にもう一度自転車に乗って20分、待合の時間を含めると90分強の時間がかかっていた。朝7時に学校に着くためには、遅くとも5時30分には家を出なければならない。つまり起床時間は5時ということになる。そんなに人生を大切に生きているはずもない高校生にとって、毎日5時に起きて、雨の日も風の日もこの課外へいく気概はなかった。

そんなわけで、建築は学びたいが系列大学への進学を断念(今思えば情けない)した僕にとって、進路先をどこにするか。他大学へ入試を受けての進学も考えたが、やっぱり遊び癖のついた高校生はその選択をすぐに却下する。最終的に選んだのは、推薦枠がもらえた専門学校だった。建築学科があり歴史もある、熊本では老舗の建築系専門学校だった。その学校への入学(1989年4月)から僕の建築人生が始まったのである。

201003...専門学校時代は社会勉強

専門学校に通うようになって、行動半径は格段に広がった。自転車・バス・電車以外の移動手段の獲得”自動車”である。高校時代免許を取れなかった(高校一年生で原付を取得するも学校にバレて3年間免許証没収)僕にとって、専門学校の夏休みに取得した自動車免許。幸い自宅には車が複数台あったので、すぐに乗ることができた。その時も自宅からの通学ではあったが、時間に縛られない自分都合の移動ができることに、すごい感動を覚えた。

建築系の専門学校、卒業後には2級建築士の受験資格が与えられる。4年生大学よりも2年早く社会へ出れると、早く大人になりたい年頃にとっては魅力的だった。しかしその分、授業は朝から夕方までいっぱいいっぱい。大学へ行った同級生たちは、結構余裕のある時間割でみんなバイトしていた。

僕も、授業のあとはバイトをしたのだが、今思えばこの頃のバイトはいい社会勉強になっていたと思う。しかも、やったバイトがちょっと変わったものばかりだったので、ちょっとずれた大人たちと一緒に仕事ができた。

201003...居酒屋バイト編

最初にやったバイトは「十徳や」という居酒屋のホール担当。友人に誘われ面接に向かう。新市街という熊本のアーケードから地下に入るお店、従業員の控室と事務所があってそこにはすでに面接担当の人が座っていた。身長高くて色は白く目つきは鋭い。しかも髪の毛はオールバックでグリースで光っている。恐れずいうなら、絶対昔は○走族のリーダーだったろうという風貌だ。そんな人がいきなり友人に掴みかかり「お前よくノコノコこれたな」とヘッドロックしてきた。隣にいた僕はちょっと後退りながら、ヤバいところにきたのかなと少しびびった。

あとで事情を聞いてみると、その友人このお店で高校生の頃バイトしていたようだ。そしてある時何も言わずにバイトに行かなくなった、いわゆるブッチギリだ。よくそんなところにバイト申し込みに行くなと、その面接官じゃなくても思うはずだ。ここのバイトが気に入っていたようで、またバイトする時はここと決めていたようだった。でも、ブッチギリの過去があるため何か手見上げをということで、僕を生贄に差し出したのだった。

そんな初日だったが、すぐに昔に戻れたようで、みんな暖かくブッチギリの友人を迎え入れてくれた。お店の中を案内してもらう。厨房やドリンクコーナー、ストックヤード、どこも普段目にすることのない裏の世界、新鮮だった。厨房には、焼き場とか板場とか揚げ場など作るものごとにゾーニングされていて、面白いのはそこに上下関係があることだった。そのトップに君臨していたのが、ヘッドロックを友人にかけていたあの目つき鋭いリーダーだったのだ。よくよく見てみると、目つきは鋭いが切れ長で少し垂れ目、薄い唇の右上には小さなホクロがあった。いわゆるいい男、モテていたはずである。30年経ってもその人の雰囲気はしっかり頭に残ってる。

僕の担当部署が決まった。ホールでの接客だ。ここでの仕事を指導してくれたのが店長である黒木さん。背も低かったが腰も低かった、そして優しい言葉遣い。それでもその裏には、どっしりとした力強さがあり信頼できる存在だった。一緒にバッシング行こうと誘ってくれて、皿やコップを片付ける。最後に僕がテーブルを拭いていると「おぉ、古市くんすごいね。テーブル拭くのうまい!」って褒めてくれた。今思えばお世辞だったのかもしれないが、当時の僕はこれでやる気スイッチが入ったのだった。おそらく店長もそのことを知っていて、背中を押してくれたんだと思う。できる上司とはこんな人だと思う。

みなさん知ってますか?飲食店における厨房とホールの確執。ホールのスタッフって普段見てるし、颯爽と料理を運んだり、オーダーをとって厨房へ声かけたりとかっこよく見えていました。しかし現実は違った、力関係でいけば厨房の方が圧倒的に上で、裏(厨房)に行けばホールスタッフの扱いはお世辞にもいいとは言えませんでした。僕はそんなホールスタッフだったんですが、幸い友人と厨房トップの澤野さんとの関係から特例的扱いをされていました。いやマジで、普通にホールスタッフとして新規バイトに入っていたらと思うとゾッとします。

そんな特別扱いの僕でしたが、さらに特別扱いでホールと厨房どちらからも独立した部署、ドリンクコーナーを任されることになります。部署といっても一人きりで、ひたすらドリンクを作るところです。ホールスタッフがオーダ取ってきた飲み物を次から次に作るのですが、とにかく没頭できて心地よかった。それでも週末(当時は土曜日)の混み具合は半端なかった。バブルの時ですから大勢での宴会が盛んで、まずは生ビールという注文が多く一度に10杯とか当たり前。もちろんビールだけではなく、烏龍茶や酎ハイに日本酒などなどありとあらゆるものを提供していました。当時はカクテル(もどき)も出していたので、ドリンクの種類はゆうに100を超えていたと思います。今更ですが、よく注文聞き漏らさずドリンク作れたなと感心します。

2020年10月4日 ここから

201004...ホテル宴会場バイト編

こんな居酒屋でのアルバイト、とても楽しかったのですが、働きすぎて自損事故を起こしてしましました。バイト上がりがラスト(閉店が2時とか3時だったような)だと帰る頃には眠さMAX、田舎の一本道で歩道の縁石に車を乗り上げてしまいました。幸い早朝で誰もいなく、運転していた僕も無傷でした。反対車線側の歩道だったので、もし対向車が来ていたらと思うと今でもゾッとします。それ以来、眠くなったら必ず休むようになりました。

どっちが先だったか、今では記憶が定かではありませんが、ホテルの宴会係でもバイトしてました。ホテルで開催されるあらゆるイベント、結婚式を始め政治家さんのパーティ、企業の講習会や各種団体の定例会など、その会場での給仕が主な仕事。黒いタキシードに身を包み、背筋を伸ばし、スマートにワインを注いでいました。中でも、スプーンとフォークを使った食べ物の取り分け(サーブ)が、給仕が一番カッコよく見えるところじゃないでしょうか。↓こんなことを黒いタキシード着てやってました。

このバイトもちょっと変わっていました。先輩からの紹介だったのですが、こちらも特別扱いだったのです。先輩に連れられて、このバイトの面接に行った時のことです。「古市くん、バイトの子は大勢いるけど仲良くなってもお互いの時給の話はしないようにね。」バイト代ってみんな一緒じゃないの?まぁ経験積めば上がるだろうから、時給に差が出るのは当たり前だろうと、その時は深く考えず指示に従っていました。

結婚式が一番忙しかった。多いときには同じ会場で、午前に一件、午後に2件とか、とてつもなく動き回っていました。表ではスマートに歩いていても、バックヤードでは走りまくり、他のスタッフや調理人もいるので、すれ違いざまには「通りまーす!」と大声で叫んで、自分の存在を知らせていました。ぶつかって料理をこぼしたら最悪です。

そんなバックヤードで休憩中でしたが、他の先輩たちとカトラリーを磨いていた時のことです。もう2年くらいここでバイトしている先輩だったのですが、「時給上がらんかなぁ、810円じゃきついよ」と呟いたのです。えって思いました。なぜって、僕の時給その時830円だったんです。入りたてのペーペーの方が時給が高かった。決してその先輩ができない人ではなく、むしろ中堅としてバリバリ仕切れる人でした。

そのことを僕を紹介してくれた先輩にあとで聞いてみると、僕ら二人は特別なんだよと教えてくれました。雇用主が違ったのです。810円の先輩はホテル直属のバイトでホテルが雇用主、僕らは給仕の派遣会社(確か配膳会という名前だったような)が雇い主だったのです。当時はまだ派遣ってそんなになかったと思いますが、宴会ではコンパニオンと呼ばれる着飾った女性たちが派遣されてきていました。接待のプロです。

ということは、僕らは給仕のプロ?プロが欲しいから、ホテル側が給仕の派遣会社に依頼して、僕らを派遣しているってことだったのです。えーですよね、何もできない僕がプロだなんて。でもそう言われると俄然やる気出てそのあとの僕の働きは急成長しました笑。人材派遣というビジネスを深く理解した瞬間でした。ちなみに、この20円の差はずっと縮まりませんでした。

201004...テレビ局バイト編

あと、テレビ局でもバイトしました。こちらも先輩からの紹介でしたが、これは高校生の時から時々って感じでした。地元ローカルなのですが、このバイトも特別感半端なかったです。その中でも一番はザ・ベストテンの中継に参加した時。ベストテンではランキングに入っている歌手が、地方へコンサートなどで出かけている時、地元系列局にて中継をやっていました。「今日のマッチは横浜ですねー」って黒柳徹子さんが言ってましたね。その時の中継が中森明菜だったのです。バスから颯爽と降りてきた中森明菜、もう目と鼻の先、バスの出口付近に偶然いた僕に「お疲れさまです」とあの低音ボイスで囁かれたのです。

辛いものもありました。熊本には日本一の石段(3333段)があります。ズームイン朝という朝の情報番組がありましたが、その中でこの石段を紹介する中継があったのです。朝の番組なので現場は2時くらいから動いています。前日からの泊まり込みでしたが、僕の役目は機材を背負って山を登ること。頂上でのロケだったのですが、まだ未整備だったため、人力で登るしかなかった。大体15キロくらいの機材を背負って未舗装の山道を登りました。ふと気がつくと、スギ林が眼前を覆っています。なんでだぁと不思議でしたがすぐに状況がわかりました。

ひ弱だった僕は、あまりの辛さに途中気を失ったようでした。それで転んでスギ林が眼前に・・・。幸い背負っていた機材はケーブル類が多かったので被害なく中継も無事に完了することができました。初めて気を失うという経験をしたという意味では、このバイトも特別でした。

このテレビ局バイトの繋がりで、大道具のアルバイトにもいきました。やはり高校生でしたが、毎年夏休みはここに入り浸りでした。どんな内容かというと、テレビのセットや劇場での舞台セットを作ったり組み立てたりバラしたりが主な内容です。大きなベニヤ板にペンキで絵を描き、色を塗っていく。僕たちバイトの役目はそのベニヤ板の下地作り。熟練の職人さんたちが絵を描き色を塗るために、白色(ちょっとグレー)で塗り潰します。お化粧のファンデーションみたいな感じです。この時着ている服がペンキで汚れるのですが、それが勲章みたいな感じでした。

201004...美術大道具バイト編

このバイトでも特別な経験をしました。ある劇場での出来事、その時の演目は日本舞踊の京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)というやつ。

これです。当然この動画と演者は違いますが、こんな雰囲気で舞台は進行していきます。ここで何を僕はやっていたか?セットの裏に隠れて、暗転(あんてん)のタイミングでセットを入れ替えるという役目を担っていました。

勘のいいあなたなら、まさかとお気づきでしょう。そう、セットの交換をしくじってしまったのです。この三味線の音色を聞きながら、薄暗くて空調の効いたセットの裏にじっとしているんですよ。高校生の僕にとってはこの上ない子守唄になってました。寝ちゃったんですね。タイミングが来ても動く様子のないセット、先輩たちが駆け寄ってきてなんとか入れ替え完了。まじヤバかった、そのあとめっちゃ怒られたのですが、みんな分かるわかると少しフォローしてくれました。仲間って大事だなと強く思った瞬間でした。

2020年10月4日 ここまで
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2020年10月5日 ここから

201005...価値観の根源はバイトだった

アルバイトで経験したいろんな出来事、どれも偶然だったのかもしれません。けれど、今の仕事、というより、僕自身の人となりの根幹に大きな影響を与えたように感じます。それはどのアルバイトも、同級生という同じ世代で、感覚が一緒のものとの協同ではなく、年上で自分より遥かに経験豊富な人たちについていったからだと思うのです。

ある程度似た感覚を持つ同世代との繋がりより、年上の社員との繋がりの方が多かった。二十歳そこそこですから背伸びもしたい時期、そんな大人たちに早く近づきたいと、いろいろ真似をしていたんだと思います。それはやがて習慣となり、僕の人となりに染みついたのだと。

居酒屋での店長からの一言「テーブル拭くのうまいねー」は、僕にとって上に立つものの基本のき、「まずは褒めろ」に繋がっています。現代でこそ、部下は褒めて育てろが一般的ですが、30年も前にこれができていた店長は本当に凄い人だったと思い出します。

同じ仕事しても、より劣った仕事をしていても、時給が上だったバイトでは、理不尽さを感じながらも普段目にできない現実の世界、それをどこまでオープンにすることが全体にとってメリットがあるのか、オープンにしない方がいいのかなど、組織が活動を続ける際の方便を意識するようになりました。かなりクールに物事を俯瞰する癖があり、冷たいねとたまに言われます笑。

他のバイトも、僕の価値観に多くの影響を与えてきました。この価値観こそが、日本中の空き家をなんとかしたいという、今のRebornの思想へと繋がってきたのだと思います。

201005...学校での大切な出会い

バイトに明け暮れたわけですから、学校での勉強は少々お粗末な内容でした。課題こそなんとか提出していましたが、どれもやっつけ感満載です。設計とかデザインとか好きなんですよ、でも授業となると途端に眠くなったりとか。今思えば、専門学校へ通わせてくれた両親に申し訳なく思います。

そんな眠くなる授業の中で、僕が唯一A +の評価をもらっていたのがキリスト教の授業。学校自体がクリスチャンでしたので、キリスト教の授業が必須になっていました。これこそ、真っ先に学生が寝るはず(失礼)の授業でした。だけど僕はこの授業が一番好きで、たとえ一睡もせず夜遊びしていたとしても、決して眠くなることはありませんでした。

授業の大半はビデオ鑑賞です。内容はキリストの誕生から、その教えの起りまで。聖書にある内容を動画化したものあでした。だから普通では考えられないようなシチュエーションがいっぱい出てきます。それを教会の牧師さんが学校へ来てくれて、本日の内容は聖書の中のこの部分ですと案内して流してくれます。ビデオの後に少しだけ説教を聞かせてくれるのですが、教室にいる大半のものは頭を机に突っ伏していました。

その光景は異常ですごく心が痛かった。それでも先生(牧師さんですがあえて)は何も言わず、淡々と優しく説教してくれました。この先生だけがそうなのか、キリスト教の牧師さんが皆そうなのか、当時はわかりませんでしたが、「誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」みたいな教えなのかと漠然と考えていました。とにかく、この先生の覚悟というか、強さを全身で感じた僕は、このキリスト教の授業を一回も休むことなく全うしたのでした。宗教とかではなく、僕の周りとの関わり方には大きな影響を与えていると思います。

2020年10月5日 ここまで
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2020年10月6日 ここから

201006...構造力学という授業

このキリスト教の授業以外で、僕が大変お世話になった授業があります。それは構造力学。教える先生は僕の担任でもありました。構造力学ですから、設計にとっては必須科目です。しかし、一年次には取りこぼしてしまいました、原因は出席日数不足。

出席日数が不足するようなこと、普通にやっていたら起こらない環境です。寝坊したり、渋滞にハマって遅刻したり、それらをいくらか繰り返しても、あとどれくらいで日数不足に陥るなと予測できます。そうすれば普通は調整して、そうならないようにするはずです。

でも、そうならなかった。どうも、この先生とのウマが合わなかったのです。いつからかこの先生を避けるようになっていました。人間って不思議ですよね、片方がそう思っているともう片方もそうなるのか、先生の方も僕のこと調子よく思ってないようでした。

その結果、2年生の時にひとつ下の学年の授業に一人で参加していました。大学ではよくあることでしょうが、授業の組み立て方が高校と変わらない専門学校では明らかに浮きます。当時は30名ほどのクラスが2つあり、そのクラス単位で授業を受けますから、同じクラスの人間は皆知っています。というか、同級生80名くらいは完全にわかっています。

そこに知らない、あれって先輩だよねと思われる人間がいれば、みんなすぐに気付きます。先生の方もそこは気を使ってくれたのか、授業中僕を指すことはありませんでした。後輩たちも、一番後ろに座っている僕のことは気にかけずにいてくれました。

そんな落第生活でしたが、いいこともありました。一つは後輩との繋がりが持てたとこ。そしてもう一つが、構造力学が得意になったこと。当然と言えば当然なのですが、2回目の授業なのですごく分かりやすかった。テストの点数も上がり、授業日数もクリアして、きちんと卒業することができました。

先生との関係も改善して、卒業時には「先生のこと苦手だったんですよ」とか「古市は厄介な生徒だったなぁ」とか言い合えるようになってました。

201006...就職活動

時期は就職活動真っ只中、同級生たちは次々と就職先を決めていきました。全国的に「バブルは終わった」と言われていましたが、就活自体はまだまだ楽な方だったと思います。いわゆる大手ゼネコンからの求人もいっぱいきてましたから。とはいうものの、なんだか僕は就活の波に乗れず(たぶん天邪鬼です)、最後まで就職先が決まらないままでした。

専門学校ですから、就職率はほぼ100%。設計事務所志望だったのですが、県外への就職は考えておらず、県内設計事務所を探していました。バブルといえど、設計事務所の求人はそんなに多くありません。学校側も、成績や内申優先で生徒たちを斡旋していきますから、僕のような積極性のない生徒は後回し。とうとう、最後の一人になってしまいました。

ある日学校へ行くと、担任の先生から「古市、ここに面接行ってみろ」と一通の求人票を持ってきてくれました。県内事務所では、そんなに大きくないけど「もうここしかないから」と。そんな風に紹介されたのが、桜樹会古川建築事務所だったのです。

2020年10月6日 ここまで
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次回はいよいよ社会に出てからの体験記に移っていきます。ここで多くの実践的経験を積ませていただきました。


2020年10月7日 ここから
昨日は3年に一度の建築士定期講習でした。朝からみっちりビデオを見っぱなし、安いパイプ椅子でお尻痛いし、腰も辛い。特徴的なイントネーション「アンダーライン↑、200ページ中段付近、18行目↓」の解説が耳につきます。もう何度か受講していますが、毎回同じ講師の方ですよね、記憶にありますもん。ということで、今回はいよいよ就職無面談へ向かいます。

201007...緊張の就職面接

先生のその紹介の仕方おかしくないですか?と僕がいうと、お前がそんなこと言える立場かって、なんかちょっと違うような返事が返ってきました。あぁと、僕も変に納得しちゃいましたが笑。

早速、会社の方へ電話して面接の申し込みをしました。当時はまだまだ固定電話が主流ですから、当然SNSなどあるわけもなく、肉声での面接予約ってめっちゃ緊張しました。

ここまで、スムーズそうにさらっと書いていますが、実はこれ卒業間近の2月の話なのです。ほんとギリギリだったんです、同級生の中で最後の一人だった。なんなら、就職はまだ先でもいいかぁくらいの感じだったので、先生たちもやきもきしていたことでしょう。

それで面接当日、もうどんな話になったのかよく覚えていませんが、平日だったのは覚えています。会社に訪ねていくと、受付の方が僕を応接セットへ案内してくれました。会社の奥の方がザワついています、きっと僕がきたからだと緊張がはしりました。

数分後、所長(社長ですね)が登場。立ち上がって、一例「本日はよろしくお願いいたします。」学校で習った方法にて挨拶を済ませました。所長も、ニコッとしてどうぞと着席を促してくれました。

かなり緊張しています、初めてですこんなに緊張するの。変な汗が出ていたと思います、あの日本舞踊の舞台でかいたような汗が。

面接スタートです。所長からの質問に答えていきました。内容は覚えていません笑。確か志望動機は聞かれたと思いますが、なんて答えたか記憶にございません。一応ポートフォリオも準備して持っていきました。

いやいや、とてもポートフォリオって呼べるものではないですね。ご存知の通り、劣等生だった僕のものですから、卒業設計や製図の課題といえど、今思えばとても人前に出せたものではなかったはず。気のせいかも知れませんが、所長がフッて鼻で笑ったのが聞こえました(あくまで気のせい)。

201007...印象に残すには十分だったはず

笑われたのはポーとフォリオだけではなかったかも知れません。当時の僕の風貌もなかなかいってました。↓

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当時、というか今でも好きなのですが、このデーブ・スペクターの髪型やってました。もともと強めのくせ毛だったので、果敢な高校時代はその髪の毛はストレスでしかありませんでした。

しかしそんなネガティブポイントだったくせ毛を、ポジティブパーツに変えてくれたのがこのデーブなのでした。顔の形は違えど、髪の毛の感じとおでこの広さはなんとなく似ている。これいけるかもと、いつもいってる美容室に行って、「デーブスペクターみたいにパーマかけて」とお願いしました。

で、出来上がったのがこちら。高校生ではこんなことできませんでしたが、専門学校ではOK。この髪型で面接に向かったのでした。あとで当時の僕の面接を見ていた会社の先輩たちは「すごいのがきたね」と、大笑いしていたそうです。

写真 2015-12-10 16 08 18のコピー

タバコ吸ってますが二十歳だったかと、その辺りのお正月の写真ですね。髪の毛の色は違いますが、着物の色をデーブに寄せてみました。着物こそ着ていませんでしたが、こんな風貌で一応のポートフォリオ持って面接行ったんです、信じられません。どうでもいいですが、この着物は30年たった今でもバリバリ現役です。

2020年10月7日 ここまで
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今回は就職面談のことでしたが、次回はいよいよ入社です。この会社で経験した多くの学びを書いていこうと思います。

2020年10月8日 ここから
朝晩、めっきり冷え込むようになってきました。晩ごはんでの鍋の登場回数が一気に増えてる我が家です。以前はもつ鍋が好きだったのですが、最近はいわゆる寄せ鍋が好きです。湯豆腐も好きです、やっぱり歳なのでしょうか。

201008...設計事務所へ就職しました。

ご心配いただきました前回の面接の結果ですが、あっけなく採用いただきました。入社後分かったのですが、新入社員はなんと5年ぶりとのこと。ただし、5年前に入った方はすでにやめられていました。

ということなので、一番年の近い先輩でもひとまわり違います。当時僕が20歳ですから、先輩は32歳。その辺りの年齢層で設計部に4名の先輩がいました。N山さん、F庄さん、F崎さん、M浦さんなかなかの個性派揃いです。営業のY崎専務はご実家でお坊さんもされていて、お盆の時期は忙しそうでした。

いよいよ社会人としてのキャリアをスタートしたわけですが、時は1991年まだまだ世間は華やかでした。この年の賑やかさを象徴するのが、あのお立ち台で有名になったジュリアナ東京。この年にオープンしています。熊本でも「ディスコ」といっていたダンスホールが、「クラブ」と呼ばれるようになり、夜の街は華やかでした。

ただ熊本の若者は早熟だったのか、その辺りへ通っていたのは10代〜20代前半で学生が多かったような気がします。就職してからはもっぱら呑みに行くことの方が多かった。

僕自身、もともと呑むことは好きでしたが、この会社の先輩たちも大好きだったようで、歓迎会はお花見でした。入社直後なので4月のはずですが、桜が満開だった記憶があります。今は3月末には桜の満開を迎えるので、ちょっと時期がズレていますね。

そのお花見には、会社の近所にある和食店のお兄さんとか、普段会社に出入りしているメーカーの営業さんとか、先輩たちの友達だとか、いろんな方が参加していました。

元来、年上には可愛がっていただける性格でしたので、そのお花見でもすぐに可愛がっていただきました。愛称は「しんちゃん」に決定したようです。50歳になった今でも当時の先輩たちからは「しんちゃん」と呼ばれています。これを書いていてふと思ったのですが、一番歳の近い先輩が12歳上なので、現在62歳。ちょっと前だったら、もうかなりお爺ちゃん的年齢。さらに所長は当時42歳くらいだったので、すでに70歳を超えている計算です。いや〜にわかに信じ難い時の流れです。

201008...呑みニケーションスキル

この会社の先輩たち、同業の中ではなかなか有名な酒豪ぞろいだったようです。定期的に他の設計事務所の所員たちとスポーツをやったり、そのあと呑みに行ったりしていました。そこでみんなに問われるのは「桜樹会だったら呑むんだよね」です。もうね、なんか桁違いに呑むらしいんです。

僕もその洗礼を受けるのは早かった。それが先ほどの花見でした。花見ですから昼間ですよね、日の高いうちのお酒って酔いが回るのも早い気がします。ほどよく酔って気持ち良くなった時、つまみがなくなっちゃいました。「しんちゃんつまみ買ってきて」、先輩から声がかかります。一緒に参加していた和食屋さんのお兄さんが、呑んでないから車で送ってやるよといってくれました。

なんか嫌な感じはしたのですが、二人で買い物へ出かけることに。車に揺られること数分、その瞬間がきます。喉の奥がカァーっと熱くなり、酸っぱい味というか匂いが口の中に充満します。そして次の瞬間、口を覆った指の隙間からいろんなものが・・・食事中の方ごめんなさい。

お兄さんの車の中にブチまけちゃいました。スッキリはしたのですが、車の中は酸っぱい匂いが充満しています。幸と言っていいのか、気を使ったというのか、僕から出ていったブツたちは、床マットの上に留まっていてくれたので、そのマットを洗えば処理は済んだようです。そのマットを処理してくれたのは・・・先輩方でした。その節はありがとうございました!

この会社に1991年4月〜1999年6月までいたので、約8年間の在籍期間でした。長ったような短かったような、それでもこの会社で多くの経験をし、その経験は現在の僕の骨格を作ってくれています。呑みニケーションスキルが磨かれたのも、この在職中だったのはいうまでもありません。

2020年10月8日 ここまで
毎回読んでいただいてありがとうございます。ついでに「すき(♡)」を押していただけるとめっちゃ嬉しいです。やっと就職できたのですが、まだ仕事については書き出せません。次回からはこの事務所での8年間の仕事について詳しく書いていこうと思います。

2020年10月9日 ここから
台風のせいかここ数日やたらと風が強い。自宅の貸家は築年数45年くらいなので、強風で音が鳴ります。目隠しと日射遮蔽のために窓という窓にセットしているタープも風にはめっぽう弱い。風がある日はそんなタープの収納で忙しいのです。

201009...すごい事務所だった

専門学校の先生からは、「もうここしかないから」と、落ちこぼれの僕がいけるのはこの会社くらい、みたいなノリで案内されたのはご記憶だと思います。僕もしっかり覚えています。そんな桜樹会での最初の仕事がいきなりこれでした。

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熊本県草池畜産研究所/熊本アートポリス (1994年度日本建築学会賞受賞)

学会賞を取るほどの設計事務所だったんですよ、学校が考える企業の評価ってあてにならないなぁと、この時強く思いました。ある意味、落ちこぼれたからこんなすごい事務所へ行けたともいえます。ちなみに、トム・ヘネガンとインガ・ダグフィンドッターとは受賞記念会で一緒に呑みました笑。

そんな初仕事、4人の先輩たちのアシスタントをやるわけですが、この案件の担当だったF崎さんにつくことが多かったです。なので、草池畜産研究所の実施図面をバリバリ描きました。まぁ多くは、展開図や建具表などの繰り返し図面で、花形図面(平面図・立面図・断面図そして矩計図)はF崎さんが描いていきます。

設計事務所での初仕事、展開図。ここで展開図について解説しておきます。学生の頃はこんな図面の存在、全く知りませんでした。今の学生たちも知らないはずです。一言で設計図と言っても、その種類や役割はたくさんあります。

201009...設計図の種類

建物を作るために必要なのが設計図です。人生設計とか、ほかのジャンルでも使われイメージできるように、ある計画を見える化するための書類です。この設計図を、一定以上のルール(読み解くための知識)が分かっている人が見れば、誰でもどう作ればいいのかが分かる資料になります。だから共通するルールが必要なのです。そんな大事なルールなのですが、全く学校では教わっていません。

ここでは、そんな学生諸君のために、設計図と呼ばれるものにどんなものがあるか、ちょっと書き出してみます。

まず図面には大きく4つのグループに分けられます。それが、意匠図・構造図・電気設備図・機械設備図です。僕らの事務所ではこのうちの意匠図を作っていました。あとの3つの図面も含めて一色の業務として受注しています。この3つの図面は協力事務所と呼ばれる、それぞれ専門の設計事務所へ外注していました。構造設計事務所と設備設計事務所です。どちらもその道のスペシャリスト、こんな事務所の存在も多くの学生は知らないまま就活やっているのが実情です。

話をもとに戻して、図面の種類についてです。まず意匠図にどんなものがあるか。代表的なものを列記します。

・図面リスト
・建築概要、付近見取り図
・敷地求積図、求積表
・建物求積図、求積表
・仕上げ表
・配置図
・平面図
・立面図
・断面図
・平面詳細図
・断面詳細図(矩計図)
・展開図
・建具表、建具キープラン
・法チェック図
・部分詳細図

種類としてこれだけのものが存在しています。これが意匠図だけです、ほかに構造図や設備図があるのですから、その業務量は結構なものになります。今でこそCAD化が進んで、パソコンを使い専用アプリで図面作成をしていますが、当時は手書きでした。多くの図面はA1とかA2サイズのトレーシングペーパー(トレペ)に書きます。このトレペも慣れないと扱いにくい紙なんです。新米社員だと、鉛筆の粉でめちゃくちゃ汚れるのです。

あと新入社員の大事な仕事に「青焼き」がありました。トレーシングペーパーは半透明の紙です。そこに鉛筆で書かれた黒い線は、光をかざすと影として現れます。そのトレペの図面(原図といいます)を感光紙というものと重ねあらせ、専用の機械に挿入すると、鉛筆で書いた線の部分は青く(濃い青)、何も書いていない部分は白く(薄い青色)になって出てきます。

同じものを複製するために青焼きするのですが、トレペと感光紙を重ね合わせるのが面倒でした。当時もコピー機ありましたが、複製する枚数が半端ないので、とてもコピーではコスパが合わないのです。今では青焼きをやっているところほとんどないと思います。

2020年10月9日 ここまで
本日はここで時間切れでした。朝イチで現在工事中の現場へ鍵を開けにいってきます。早朝からの限られた時間で書いているこのnote、合間にお気に入りの炊飯器(バーミキュラライスポット)でのご飯炊きも、なんだかいいルーティンになってきました。

2020年10月10日 ここから
10月10日が体育の日。僕らにとってはこれが当たり前でした。なぜ10月10日が体育の日だったかを知る子供たちは少ないでしょう。だって、いつの頃からか運動会も10月ではなく、5月とかに移っていっちゃったし。やっぱり10月の運動会の方が盛り上がると思います。

201010...図面を描くということ

新人の大事なお仕事青焼きについて昨日は書きました。懐かしーと同世代以上の方からのコメント。青焼きを知らない世代だと、あの雰囲気は逆にウケるかもしれないですね。

先に列記した通り、図面と一言で言ってもその種類と枚数は結構な量になります。もちろんそれぞれに意味があり、それら2次元情報を一定のルールでつなぎ合わせて、頭の中で3次元化し現場にそれを反映させていきます。

学校でも製図の授業ってあったのですが、とても実践に耐えるものではありませんでした。分かりやすさや正確さはもちろん、美しさとそれを仕上げるスピードはどうにもならないレベル。これらは実践の場で繰り返し体で覚えるしかありませんでした。

そこで、新人たちの訓練を兼ねた繰り返し図面(僕が勝手にそう呼んでるだけ)の、展開図や建具表の登場です。比較的描く順番とか、描き方などがルール化されているから、新人が没頭して描き続けることができる図面になります。

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これはうちで描いている展開図です。基本的には部屋の壁面を4面方向にみて、そこに高さや見え方などの情報を描き込んでいきます。僕の場合は余白に詳細図(スケールアップした詳しい図面)、この展開図でいえば波線で囲んだ部分を上の余白に書いています。この図面はCADで描いていますが、当時はこれをドラフターを使って手書きしていました。何度も何度も書き直し、トレペが真っ黒になるくらい汚してました。

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これがドラフター、左手で水平垂直に動く軸を基本に、手首を回転させることで角度も自由につけて線を引くことができます。

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設計室はこんな雰囲気でした。先輩4人と僕の5人だったので、規模こそ違えでどまさにこんな感じ。しかも当時は図面書きながらタバコを吸うのが当たり前だったので、ドラフターの横のテーブルに置かれた灰皿にはいつも吸殻が満タン。たまにうまく消えてなく、狼煙が上がっている時もありました。現代では信じ難い環境でした。

話を戻します。そうやって図面描いていると、F崎さんからツッコミが入ります。古市くん(F崎さんだけしんちゃんじゃなかった)書けばいいってもんじゃないよ。

「線にはちゃんと意味があるんだから」、いやもっと強い口調でした「古市ぃー線には意味があるとバイ!適当に書けばいいってもんじゃないとぞぉ」

あっと思いビクっと驚きました。CADで描くことが多い現代では、不要な線は表現されません。手書きの時代はその人が引こうと思えば、何本でも線が引けます。なんとなく描いていた線を、F崎さんは指摘してくれたのです。

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こちらの矩計図にも多くの線が引かれています。しかし、どれ一つとして不要な線「意味のない線」はないのです。そこに細くても線が一本描いてあれば、それが3次元になった時何かあるはずなのです。

この感覚は、設計者が当然持ち合わせないといけないものですが、その図面をもとに現場で3次元化するものも、そこに不思議に思う線があれば、「これはなんだろう」と考えなければいけないのです。現場でなんとなくこうだろうで作ってしまうと、もう図面の意味はありませんから。

図面とは出来上がりのリアルなものを、2次元情報として抜き取っているものです。だから現実にあるもの以外は、そこに表現されるのはおかしいのです。すごくもっともな話なのですが、線の意味を分からずに描いている人の図面には不要な線があったり、正確な位置でない部分に線が引かれたりしていて散々なのです。学生の頃の製図課題で、開口部の納まり詳細図というものがありました。

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これは当時のものではなく、うちの事務所で描いている開口部の詳細図です。こういうお手本をもとに、製図課題は写しとっていくのですが、波線で囲まれた部分に寸法の書いてない隙間があります。学生のころはここを、これくらいかなと適当に勝手に書いていたのです。実際はこの部分を10mmで描かないといけない。そのことを知っていれば10mmで描くのですが、知らなければ適当に済ませちゃう。それではいけませんよね。

図面の美しさや、スピードと同時に、3次元を正しく2次元化する能力が必要なのでした。これはセンスとかでなく、やはり繰り返すことで身につくものなのです。ほんとにたくさんの図面を書きました。夜中まで残業して書き続けていました。そのお陰で、美しいく正確な図面が描けるようになりました。

201010...繰り返し図面からの脱却

ここまでは、図面を描くことについて僕の経験を書いてきました。でも「図面を描くこと」は設計のうちの一部にしかすぎません。設計の大きな役目は創造することです。展開図や建具表は繰り返し図面と書きました。平面図や立面図、矩計図を花形図面と書きました。その理由がここにあるのです。

入社して2年目を迎えるころ、ある町の公共事業の設計を任されました。ある郊外の河原に建つ小さな小さな公衆トイレの設計です。その河原にはデイキャンプができるような広場があったり、ゲートボール場があったり、週末には賑わいをみせる有名な河原でした。

小さな公衆トイレと言っても、図面が全くかけません。あれだけ図面描いてきたのになぜ描けないか?それは創造できないからです。公衆トイレってどんな風になってたっけ?町からの要望にはどう答えればいいの?

まずは創造できなければ、何も先に進めないのです。担当を持つということはそういうことだったのです。この創造の作業、これは誰かに習えるものではありません。先輩たちにどうすればいいですか?と聞いたところで、明確な答えは帰ってきません。質問するために、何か自分で創造してみて、それを見てもらいアドバイスをもらうしかないのです。

そこでやるのは、事務所で以前設計した公衆トイレの設計図や、建築雑誌に出てくる有名建築を見ることです。町からの要望には、バリアフリートイレの確保もありました。男子トイレ、女子トイレの他に、小さな子供連れの方や、車椅子利用の方、高齢で足腰に力の入らないような方、そんないろんな条件下の方にも使えるトイレを設けたいとあったのです。

それら条件をクリアし、さらに使いやすくメンテナンスもし易い。公衆トイレですから、防犯のことも考えなくてはならない。小さな公衆トイレでも考えなければならない事はいっぱいあります。

いろんなところから情報を集め、創造を尽くしていきました。結果一つの形が見えてきて、それを図面化していきました。そこで花形図面に繋がります。まずは平面図です。創造を形にしていく過程で、エスキスという行為を踏みます。エスキスとは、分かりやすくいうとスケッチみたいなものです。頭の中にあるものを、紙の上にフリーハンドで書きがしていきます。

そのエスキスをもとに、平面図を書いていくのですが、この平面図化する工程でも間取りや内容などを考えていきます。ちなみにエスキスという言葉はフランス語で、下絵とかスケッチとかの意味です。でも、建築でそれを使うときには、企画やアイデア出しまたは整理などの意味も含まれます。

平面図ができれば、立面図や矩計図も描いていくのですが、それらの図面も描きながら、いろいろ方向修正していきます。その修正の中で、平面計画へ立ち帰り、大きく修正することもあるのです。だからこれら図面は花形であって、その設計の根幹になるところなのです。展開図や建具表は、それを繰り返され、まとまってきた内容を機械的に図面化していくものなのです。

201010...積算と内訳明細書の作成

そうやってこの公衆トイレの設計を完了させました。設計が終われば、一緒に受注している積算と内訳明細書の作成に移ります。積算って何?

2020年10月10日 ここまで
やっと設計事務所の所員らしくなってきました。公共事業をメインにやっていた事務所でしたので、設計業務一式を全て経験することができ、僕の建築スキルの向上にすごい助けとなりました。

2020年10月11日 ここから
先日はSCBイノベーションアカデミーという、地域イノベーションをどうやったら起こせるかを学ぶサロンへ行ってきました。これから半年間みっちりその考え方を学んできます。こういった学びの場へ出向くこと自体も大事ですが、そこで出会う志し高い人たちとの繋がりが魅力的です。

201011...積算業務について

積算とは、その建物を作るために必要な材料の量や、どれだけの人が必要で、それにどれだけの経費がかかるかを導き出すために必要な数字を出すことです。積み上げて計算するという感じです。

これが地味な作業で、大体夜にやる仕事でした。出来上がった設計図をもとにそれぞれの部位の材料を計測していきます。これを業界では「拾う(ひろう)」といいいます。

まず最初に仮設資材の積算です。代表的なものが工事中に設置されている仮設足場です。建物から1m離れたところで寸法を計測し、建物の高さに応じて設置する段数を考えます。そして、タテ×ヨコで面積を算出していきます。そこで導き出された数字の合計が仮設足場の面積となり、内訳明細書ではその数字に単価(1㎡あたりの価格)を掛け合わせ、仮設足場費が出るわけです。規模にもよりますが、こんな項目が一つの物件に対して、大体1000くらい出てきますので、この積算作業の地道さがわかっていただけるのではないでしょうか。

さらに、公共事業の場合補助金を使ったもの、つまり税金を投入しているため、健全な事業が実施されているかどうか、会計検査院による検査が行われます。これは年に一回必ず実施されていて、全ての公共事業が対象なのですが、かぎりある人材と時間なので、会計検査院が実際検査するのは都道府県別にピックアップされた数件で、数日前に抜き打ちで知らせがきます。その時期になると、一気に事務所内が慌しくなり、地方自治体担当者からの電話の数もグッと増えてきます。

201011...会計検査はいつもピリピリ

この会計検査、検査官は問題を探し出すのが仕事ですので、何か問題がないかすごく細かく細かくチェックしていきます。膨大な事業資料をテーブルに並べ、数日かけて確認していくのです。この検査は、その補助事業全体に関わるものなので、我々設計や工事に関する部分だけでなく、自治体内部でのお金の流れやスケジュール管理、その予算の使途に至るまで本当に細かにチェックします。もう、担当者はピリピリなんです。

僕が助手時代に何件か経験しましたが、えぇそこまでみるのとか、そこまで言わなくてもいいじゃん、という経験をたくさんしました。問題と言っても誰かが不正にお金を使い込んだとか、そんな分かりやすいものは基本的にありません。主にあるのは、発注時期と見積もりの日付が食い違っているとか、必要とされている書類がない(代表的なものは建退共の加入証明とか)、直接不正につながらないようなものなのです。いわゆる書類上の整合性ってやつです。

これに引っかかると、大変です。検査官はスケジュールが決まっていますから、自分たちの案件で問題が指摘された場合、検査官が移動している次の自治体まで追いかけて行って、整合性が整った資料を届けなければなりません。熊本にいるうちはまだいいですが、霞ヶ関に帰っちゃえば直接飛行機で届けなければなりませんでした。郵送でということはなく、基本持ち込みだったのです。

だからそうならないために、積算にも各省庁が作った基準があり、それを積算基準と言いました。先程の足場の面積を算出するにも、ただ面積を出せばいいわけではなく、積算基準に則って算出する必要がありました。つまり、その基準に則って算出された数字は、誰が積算しても同じ数字になるはずという形です。会計検査では積算根拠となる拾い表(数字を並べて数量などを計算している表)までも見られることがありました。これを検査できるのも、積算基準という共通のルールがあったからです。

そんな会計検査でしたが、一度だけ霞ヶ関に検査官を追いかけたことありました笑。費用はもちろん会社の経費ですから、僕個人的には東京に行けて楽しかったですのですが。

201011...公共事業の是非

公共事業って結構やり玉に上がりますが、本当に地味な作業の繰り返しを経て、形となって世に生まれてきています。問題となっているのはそれ自体ではなく、そもそもその事業(補助)が必要かどうだったか、その事業を獲得するために、不正なお金の流れがなかったかなのですが、それらは会見検査の範疇を超えています。

個人的見解ですが、公共事業と民間事業を経験して思うのは、公共事業の積算基準の見直しですかね。例えば、積算基準ではクロス工事は㎡の単価で算出されます。材料も職人の手間賃も合算したものです。それに対して、民間でクロス工事を発注する場合、そもそも㎡単位ではなく、m単位での取引になります。これは、クロスの材料が幅を90cm程度のロールで作られているからです。幅が2.7m、高さが2.4mの壁にクロスを張る場合、公共事業では6.48㎡となり、それに単価である2000円を掛け合わせ、金額は材工ともで12960円となります。民間の場合、7.2mの材料費とその長さを張るための手間賃を合算したものが発注額になります。ここで問題になるのが手間賃です。

たった7.2mのクロスを張るためにも、クロス屋さんは機械を持ち込んで、半日かけて現場まで来ているかもしれません。たとえ作業自体は午前中で終わったとしても、その作業のために午後の時間をロスしているかもしれません。そうなのです、数量が多ければ公共事業の積算基準や単価は使えるのですが、少なければ現実離れしたことになってしまいます。

さらに、元請けと下請けの関係性とかを考慮すると、現実社会にそくわないところが積算基準にあるのです。

2020年10月11日 ここまで
積算というかなりマニアックな部分について書きましたが、何かの事業を起こす場合も予算化は大事です。この積算と内訳明細書の作成などの経験は論理的な思考展開に役に立っていると思います。

2020年10月12日 ここから
最近、東京に住む友人から、クラフト系ECサイトの構築について相談を受けている。専門家でもない僕に、いっぱい質問してくる。彼の周りの存在の中では、一番相談相手として最適だったのだと思う。素人なので、その解答が正解かどうかわからないけど、頼られるって嬉しいよね。

201012...積算作業の中身

積算基準をもとに、いろいろな建物の積算をしてきました。当時はまだまだパソコン(当時はコンピュータということの方が多かった)の活用は進んでいなかったので、全て手書きです。積算用紙という専用用紙があり、エクセルシートのような格子状の罫線が引かれていました。サイズは確かB3だったと思う、現在はAサイズが主流だけど、当時は結構Bサイズも使われていました。

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↑この画像は、noteで建築のことを書かれている「なかしょう」さんの記事からいただきました。基礎地中梁の項目です。コンクリートボリュームと型枠の面積、そして鉄筋の量などが積算されています。

なかしょうさんのnoteページはこちらです。

積算が終わるころ、そのB3用紙が100枚を越えていることもザラでした。それを見ると、なんかやったなー感が半端なかったです。このやった感ですが、枚数が多かったからだけではありません。積算用紙の内容によるものが大きかったと思います。

2020年10月12日 ここまで
今日はちょっと時間切れです。積算用紙の中身はまた明日書かせていただきます。地味な地味な積算のことですが、思い返してみるとこの経験はかなり僕のスキルのバックボーンとなっているようです。

2020年10月13日
本日も早朝より一般業務のため、今日のnote更新も短めです。変なnote構成になっているので、更新がより分かりやすくなるように調整してみました。

201013...目次機能を追加

このnoteは、一つの記事を更新する形で書き綴っていっています。なので、いつ書いた記事なのか、新しく更新された記事はどこからなのか、更新量が増えてくると分かりにくくなってきました。と、自分で気付いたように書いていますが、実はこのnoteを見てくれている周りの友人達から、「分かりにくいだろ!」と相当なツッコミをいただきました。

それで、何か解決策はないものかと、他の方のnoteをみてみると、最初に目次みたいなものが付いています。この機能を使えば更新日を表現できるんじゃないかと考え、機能の使い方をみてみます。

実にシンプルで分かりやすい機能でした。

公開設定のチェック欄にチェックひとつ入れるだけで、記事中の見出しを勝手に目次化してくれる。早速試してみると、確かに見出しが目次化しています。

あっ、でもちょっと不味いことがあります。このnoteは、先にもいったように、一つのnote記事の中に毎日記事を追加しているものです。なので、見出しがひとつの更新日の中に複数あり、この機能だけでは更新日を整理することができませんでした。

そこで苦肉の策です。項目の前に更新日をテキストで記載しました。先頭に数字が来ると、なんとなく目次っぽくなるので、しばらくこの感じでやってみます。もっといい方法あるよって方いたら、是非アドバイスお願いします。例えば「ひとつのnoteでの更新じゃなく、別々に記事更新してあとでまとめられるよ」とかあったら最高です。要は、このnoteを書き上がったときに一冊の本になるようにしたいのです。それが記事の更新のたびに、別のアドレスになっていると、そのまとめ作業が大変そうでこんなやり方を選択しています。何かいい方法あるのでしょうか?

2020年10月13日 ここまで
いいアドバイス頂けましたら嬉しいです。

2020年10月14日 ここから
本日も気持ちいい朝です。気温16度無風、庭での深呼吸で体の細胞達が一気に活性化しました。なんて笑

201014..積算のその先

話が逸れていましたが、積算についてでしたね。まっさらの積算用紙はバックヤードに常備されていました。500枚梱包のものが常に10冊くらいあったと思います。

随分多いなって感じですが、それくらい積算用紙使っていたんですね。その枚数もさることながら、その中に書いた数字の量も相当だと思います。B3用紙にびっしり数字を書き込み、それがゆうに100枚越えるわけですから。

数えてみたことありませんが、4000文字以上はあったんではないでしょうか。お気付きかと思いますが、そこに書かれた数字は計算して、面積や体積や長さを出すためのもの。

そう、全て計算して集計することが必要なのです。

201014...役割分担

現代でしたら、エクセルをはじめとする表計算ソフトがあるので、ここまでの数字入力さえ終わってしまえば、全て計算集計も完了しますよね。しかし当時は手書きで手計算、この手計算という単語も現代ではあまり使わなくなった気がします。

この計算が面倒なんです。キーボードを見ないで文字入力を行うブラインドタッチ、普段からキーボードを触っている僕らでもこれをマスターしている人は少ないですよね。あれは意識的に練習しないとできないし、普段そんなに必要性を感じないから、練習することもありません。ゆえに、パソコン歴30年の僕自身、いまだに文字入力では何度もDeleteキーを連打しています笑。

積算の時の計算では計算機を使います。その計算機もキーボードと一緒で、ブラインドタッチができるかできないかで、スピードが全く違ってきます。新人の頃は、積算そのもの(数字を図面から読み取る行為)は難しいので、この計算の方をさせられます。手計算して手書きですから、右手は大忙しです。計算をして、いったんシャーペン持って用紙へ記入、そしてまたシャーペン置いて計算する。これをひたすら繰り返します。何度両手使えたらなぁと思ったことか。

そんな計算機での計算集計作業に、心強い存在の方がいました。それが総務のK田さんです。ブラインドタッチはもちろん、そのスピードも正確さもピカイチでした。当然、積算の時期になるとK田さんの人気は急上昇で、みんなK田さんを頼りにしていました。

僕がB3用紙を、一枚やっと集計し終わる頃には、K田さんはB3用紙を5枚くらい終わっていたと思います。しかも、検算までやって。検算って言葉も最近使わなくなったような気がします。

201014...計算機の機能

この積算作業、手計算といえど計算機があるのでまだ良い方でしょうね。もっと上の世代であれば、算盤だったはず。ゾッとします。そんな計算機ですが、ちょっと大きめの計算機だと、RMとかMーとかM+とかのキーがあります。さらにF320Aとかの切り替え装置まで準備されています。これらにはもちろん意味があり、それらを使いこなすことで、計算集計作業が一気に効率化されます。

まず一番使うのがM+とRMの二つのキーです。Mはメモリーを略したもので、入力された数字を記憶しています。それに+がついていますから、入力された数字を記憶しながら加算していくもの。Rについてはリコールと読み、記憶された数字を呼び出して教示してくれます。詳しくは↓でご確認ください。

F320Aの機能は、その計算した結果に小数点が発生した時、小数点以下の表示をどうするかとか、さらにはその小数点以下の処理を設定することができる「4/5」「↓」などの切り替えもあります。前者が四捨五入で後者は切り捨て。エクセルの関数で言うとroundにあたる部分です。積算基準では、積算の過程で出るこういった小数点以下の数字の取り扱いも決められているので、計算機のこの機能は最初に覚える必要がありました。

そんな便利機能ですが、便利なゆえに、それを原因とした間違いほど悔やまれるものはありません。積算経験ある方なら絶対あると思いますが、round設定の間違いです。すごい数の集計をするので、小数点以下の数字を切り捨てるのか切り上げるのか、四捨五入するのかで結果が変わってしまい、また最初から計算し直しという地獄が待っています。

このミスを発見してくれるのも、積算集計の救世主K田さん。「古市くん検算3回したけどやっぱり合わない」・・・、この時だけはK田さんを少し睨んでいました笑。

こんな経験を何度か繰り返し、どうせ間違うんだからその傷を浅くしようと、短いスパンで集計(小計)するようになりました。

2020年10月14日 ここまで
積算の話がなかなか終わりません。きっと僕の建築人生の中ですごい経験というか、印象強いものになっているんでしょうね。次回は少し話を先に進めようと思います。

2020年10月15日 ここから
昨日の夜は建築を通して学び合い、そしてイノベーションを起こそうと集まったメンバーと、多能工について議論しました。最後は多能工の話ではなくなりましたが、新たな発見があり非常に有意義な会になりました。その話も書きたいのですが、この記事で書くのはまだまだ先になるでしょう。

201015...内訳明細書

人生を振り返りながら書き進んでいるこの記事なのですが、なかなか現在に辿りつきません。現在体験していることにいっぱい書きたいことあるのに、それを書けないのはストレスですね。

さて、内訳明細書についてです。まず内訳明細書ってどんなもの?ということでこちらをご覧ください。

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これは20年ほど昔、独立して最初に取り組んだ住宅のもので、基礎工事の内訳明細です。現在ではほとんど作ることはなくなりましたが、独立当時は前職での経験が染み付いていましたので、こんな風にしっかり明細書を作成していました。

前回の内容の通り、積算にてこの明細書にある16の項目の集計をし、そこに単価を入れていきます。この単価とは、ある単位ごとに決められた金額のことで、普段の生活でいえば、リッター当り120円といったきの120円がガソリンの単価になります。

それでこの単価をどうするかですが、公共事業の場合は各自治体や国がその単価を決めていて、我々が作成した内訳明細書にその単価を記載していきます。これを「単価入れ」といいます。民間工事の場合は、工事の規模次第で、この内訳明細を作る場合と、専門業者さんに見積もりを依頼し、それを集計して全体額を算出する場合があります。

201015...単価入れ

この単価入れですが、これもなかなか大変なんです。内訳明細書は物件にもよりますが、30枚〜40枚くらいになります。1枚あたり15行〜20行くらいありますから、40枚×20行で800項目くらいの単価を入れなければいけません。800の単価を自治体が持っている単価表から探し出し、内訳明細書へ落とし込んでいくのです。ちなみにこの内訳明細書、現在ではエクセルなどで作成し、計算自体もエクセルがやってくれますが、就職したてのころは全て手書きの手計算でした。そう積算同様、もう右手は軽く軽傷炎になるくらいの作業だったのです。

話を単価入れに戻します。厄介なのが、単価表に単価がない場合。工事項目ごとに多くの単価が準備されていますが、半分くらいは単価のないものが出てきます。あっそうそう、単価入れのこと「値入れ(ねいれ)」と言ってました。そして積算用紙に数字を書き込んだものの事は「元拾い表(もとひろいひょう)」とも呼んでいました。今思い出しました、実に20数年ぶりの記憶の蘇りです。

2020年10月15日 ここまで
途中ですが本日はここまで。この単価入れにもいろいろな思い出があります。田中泰延さんの「読みたいことを書けばいい」的に書いてきていますが、この単価入れについてもまさに、僕自身が「読みたいこと」のひとつなのです。

2020年10月16日 ここから

201016...単価入れ(続き)

なんかいろいろ思い出してみたら、単価入れよりも値入れ、積算よりも元拾いという呼び方をしていたようです。

その値入れ作業ですが、厄介なのは先日も書いたように単価表に単価がない時です。その時どうするか?というと、物価本を持ち出して単価を探し出します。物価本とは建設物価調査会が発行している「建設物価」という月刊誌です。この他にも「建設コスト」と「積算資料」、この3冊が値入れの際の必須本でした。

数十年ぶりにこれらの情報を見ましたが、デジタル版が出ているんですね。当たり前と言えば当たり前ですが、指先の乾燥を気にしながら、ペラペラページをめくっていた頃が懐かしい。

数千ページに及ぶ中から目的の単価を見つけ出す作業です。なれてくるとどのあたりに何がついているか、だいたい分かってくるのですが、慣れないうちはあっち行ったりこっち行ったり大変です。法令集程ではありませんが、目的にたどり着くまで時間かかっていました。

さらに、この本の中にも掲載のない単価は、複合単価として自分たちで作っていました。いくつかの情報を複合的につなげて、そのひとつ一つの情報にある金額を足し合わせることで、単価を作り出す作業です。この複合単価を作るためには、その目的の行為(例えば道路の縁石設置)の全体的な流れを知っておかなければなりません。

材料そのものの価格はもちろん、その材料を運搬する時のコストや、設置するために必要な下地作りや下地材。もちろんどれだけの人手が必要になるかなど、たった道路縁石の設置という項目の単価を作るために、いろんな情報が必要なのです。

こんな値入れ作業ですが、積算同様やはり夜の作業が多かったです。市町村の場合事務所でやることが多かったですが、熊本市や熊本県発注のものだと、単価本(熊本県熊本市が持っている)の持ち出しができないので、それぞれの役所へ行って作業していました。

スケジュール厳しいことが多かったし、値入れは終盤の作業なので役所で徹夜というのも何度か経験しました。その時は、役所側の担当者も一緒に徹夜をし、休憩中には一緒に缶コーヒー飲んだりしてましたね。今でもそんなことやってるのかなぁ。市役所の9階の明かりが遅くまでついている時は、そんな時かもしれません。

こんなに苦労する元拾いや値入れの作業なのですが、内訳明細書にしてしまうと、紙の枚数こそ多いけど、それに至るまでの作業の痕跡が全く見えないのが悔しかった。複合単価を作る時には、その数文字の数字を導き出すために、数百文字の数字や計算をしているのも全く表に出てこない。皮肉なことにその資料が表に出てくるのは、会計検査で突っ込まれた時という。

2020年10月16日 ここまで
値入れまですみましたが、これで終わりではありません。まだ納品できないのです。この後に本当に苦しい作業が待っています。

2020年10月18日 ここから
昨日は週に一度のビジネススクールでした。授業のお題はプレゼンテーション。自分が取り組んでいる活動について、100秒間で紹介というものでした。来年1月まで4回あるこのプレゼン授業、TEDxの講師人からのものなのでどんなスキルが身につくか楽しみです。

201018...金額調整=辛い作業=磨き作業

値入れが終わると、その単価と数量を掛け合わせ、それらを集計し総合計を出していきます。ここでこの総合計が、予定予算に収まっていれば良いのですが、大抵の場合収まっていません。

公共事業の場合、その金額も大きいので、一般の方が見たらビックリすると思います。予算が3億円の場合、1割オーバーでも3000万円ですからね。2割オーバーとかよくありました。

オーバーのままでは納品できませんから、ここを予算調整していきます。僕らは、VE(Value Engineering)と言っていましたが、そんなかっこいいものではありません。そのほとんどは、予算を合わせることを目的とした減額作業なのです。

ここから減額項目を探していきます。3000万円分の項目を探すのですから大変です。その案件の担当者は当然ですが、この減額作業の時は他の仲間も加勢していきます。

人手が欲しいのはもちろんですが、この加勢には大きな別の目的があります。それが冷静な(冷徹な)目です。担当者だけだと、なかなか思い切った減額ができないんです。長い時間かけて設計してきた内容なので、どこもここも思い入れいっぱいなんです。そこをバッサリ周りの「仲間」はカットしてきます。

そんなバッサリの減額項目で多いのが、仕上げ材の変更です。特に外壁については面積が広く、その単価も比較的高めです。設計時点では外壁にタイルを採用していても、減額作業で吹付タイル(タイルといっても塗装)になる事が多かったです。

この減額作業のコツとしては、先ほど書いた他人の目とともに、数量が大きい項目・単価が高い項目を探すことです。例えばこんな感じです。

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これは、タイルを吹付タイルへ変更した場合の内容です。タイルの場合は合計で800万円ですが、吹付タイルにすると一気に200万円安くすることができます。つまり、こんな感じの項目を10個見つけ出せれば、2000万円の減額が可能になるという事です。

これが、数量が多いくて単価の高い項目を使った減額になります。マンションとか団地の場合は、同じものを戸数分準備するので、これもわかりやすい減額項目になります。例えば100戸の団地で、洗面化粧台を1台10万円だったものを、8万円のものに変更した場合、これも200万円の減額に成功という感じです。

身近なところでは、コンビニなどの駐車場に引かれている白い線。あの白い線の単価の単位はm(メートル)です。大手コンビニチェーンであれば、全国の店舗分、この白線を合計すると相当な長さになります。これを大量に発注できると、単価の交渉が可能になり、減額効果の高い項目になります。

話がそれましたが、こんな感じで減額作業を繰り返し、最終的に予算に合わせて納品という感じになります。良いと思って設計したものを減額するのは辛い作業ですが、実は良いこともあったりします。本当に求められているものを残し、過剰なものを削ぎ落としていく。まさに磨きの作業という事です。

201018...独立

こんな感じで、9年近く設計事務所に勤務していました。将来は独立したいとは思っていましたが、まだ先のことだと漠然としていました。それが突然独立する事になったのです。

1999年5月、仕事中に電話がかかってきました。家内からでした。あっ、就職して3年後の23歳(独立は28歳)、高校生の時から付き合っていた彼女と結婚しました。なんと彼女はまだ20歳、周りからたくさんの祝福をいただき幸せな結婚をあげることができました。

電話の内容は、家内のおばあちゃんが亡くなったというものでした。家内の実家に同居されていたおばあちゃんで、うちの長男(ひ孫)なんか相当可愛がってもらいました。

その死があまりに突然でしたので、みなショックを受け、僕ら家族も大きな悲しみに包まれていました。お通夜、火葬、お葬式とお別れをして、仕事の方は忌引きをいただいていました。当時、いくつかの現場が動いていましたので、忌引き中も電話連絡などで、現場が滞らないようにしていました。

そして忌引きがあけ、1週間ぶりに会社へ行くと、部長から呼び止められました。「古市くんちょっといいかな」「忌引きちょっと長すぎたんじゃないかな」と。

まだ、悲しみ癒えていない時でしたので、少々僕もムッとしました。「それって会社としてですか?」と聞いてみました。確かに、僕とおばあちゃんの血縁からいくと、忌引きとしては3日間程度かもしれまえん。

部長は、「そう、会社としてだね」と言われました。この瞬間です、僕が独立を決意したのは。独立というか、辞めると決めた28歳初夏のことでした。

ほんとに瞬間的に、いろいろなことを考えました。確か金曜日だったと思います。週休二日制がすでに取り入れてあったので、翌土曜日はお休みでした。「明日所長に辞めますって言おう」「あとで、所長に電話して、明日の予定を確認しよう」「今動いている現場は、だれかれに引き継いでもらおう」などなど、走馬灯ではないですが、いろいろなことが頭の中を巡りました。

2020年10月18日 ここまで
いきなりすごい展開になってきました。さぁ、ここからどんな風に進んでいくのか、乞うご期待!

2020年10月20日 ここから
めっきり朝は肌寒いを通り越して、寒いになってきました。布団から出れずにそのまま書いてます。

201020...覚悟しかなかった。

先に書いたように、僕の独立のきっかけって実は忌引き問題だったんですね。忌引きで辞めるってどうよ!って感じですが、当時は本当に息が詰まるほどなんかショックだったんです。

ショックが大きかったので、アドレナリンもバンバン出ていたんだと思います。本当にそのまま所長へ電話、めちゃくちゃドキドキしましたが、震える声でこう切り出しました。

「明日お時間いただけますか?」

所長は「ん?なに?」「どうしたの?明日休みだけど・・・」みたいな感じです。当然ですよね、この状況絶対知らないはずだし。そして「なんの話なの?」ズバっとその質問が返ってきました。

えー、電話口で言うことじゃないなぁと困ってしまって、「こ、今後のことについて・・・です。」と声を詰まらせたのは今でも鮮明に覚えています。すると、所長も察してくれた(何を)ようで「明日は無理だから、明後日日曜日に。」と言ってくれました。

なんだろう、この数十分間って人生はジェットコースター!って感じでした。一種の覚悟とでも言うのかな、ちゃんと目的を果たすんだという強い思いがこの時の僕をグイグイ押していたような気がします。

201020...無謀な独立宣。

日曜日の誰もいない、事務所の応接コーナーで所長を待っていました。シーンと静まり返った、コンクリート打放しの吹き抜け空間が、その緊張感に拍車をかけます。

玄関のドアがスッと開き、所長の登場です。もう、心臓バクバク、喉はカラカラ、自分がどんな顔しているのか想像もつきませんでした。「おはよう」所長の低い声がさらに僕の息を詰まらせます。

この時だけは、「おれなんて大それた事やってんだろう」と、自分を客観視したのを覚えています。忌引きについて注意されて、それにショックを受けたのは本当だけど、何も辞めることはないじゃないか。

「お休みの時に申し訳ありません。」

「電話でお話しすることじゃないと思ったので・・・」

所長の表情は硬いままです。ここまで言って、少し落ち着きました。

「実は辞めさせていただこうと思っています。」

「どうして?」返事が当然のように返ってきます。

「忌引きについて、会社の考え方に同意できないので」

ここが、この辞めます宣言には大事なところなのですが、記憶が曖昧なんです。この忌引きについてのことを口に出したのか、それとも心の中で呟いただけだったのか。20年たった今では、思い出すことができません。

ただ、「辞めてどうするの」という所長の問いに、変な声の調子で「独立します!」と元気に答えたのは覚えています。「どっ、独立?」、所長は不思議そうに問い返してきました。

それもそのはず、入社して8年ちょい。実務こそ経験を積んで一通りの事ができるようになっていましたが、仕事にかまけて建築士の資格取ってなかったのです。そう、無免許で独立とか言っていたのです。

2020年10月20日 ここまで
この無謀な独立宣言、ほんと今でもあの勇気というか、覚悟はなんだったんだって思います。でも、それがあったおかげで今があります。人生にはこんな瞬間がきっとあるんでしょうね。

2020年10月21日 ここから
僕の横にはいつもこいつがいます。ハチワレのムサシ。寒くなってその身体はより丸っこくなってきました。

201021...家内への報告

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無免許でのいきなりの独立宣言、こんな大事なこと、誰にも相談せずに僕の頭の中だけで、しかもほんの数時間でやっちゃいました。驚くことに、この僕の行動を家内はまだ知りません。

所長への宣言のあと自宅へ戻り、そこで初めて家内に伝えました。

「会社やめてきたけん」

その時初めて、相談してなくて悪かったなぁと気付きます。ひどい旦那です。勝手な行動に怒られるだろうと覚悟していましたが、意外にも家内は冷静で、

「えっ、うん。わかった」

少し戸惑ったように見えましたが、それ以上は深く追求する事なく、んじゃこれからどうする?と、一緒に前を向いてくれました。普通なら怒るところでしょうが、彼女は怒りませんでした。

あとで聞いてみたのですが、心臓飛び出るくらいびっくりして、これからどうなるんだろうと不安でいっぱいだったとのこと。そりゃそうですよね、突然会社辞めてきたって旦那から言われたら。しかもこの時すでに3歳になる長男もいましたし・・・。

201021...両親への報告

家内への報告も済んで、次はお互いの両親への報告です。まずは家内のご両親のもとへ。僕が高校生の時から、息子のように接してくれている義父母です。結婚の報告の時よりはるかに緊張しました。

結婚はおめでたいことだし、付き合いも長かったので、すごく喜んでくれました。でも、今回は違う。「会社辞めました、独立します」の報告ですからね。やはり、怒られることは覚悟していました。

ところが、両親は「おぉそうか、じゃ頑張らなんたい」と言ったのです。長い付き合いで、かなり日本人離れした、ワイルド家族だってことは知っていましたが、こうもあっさり認めてくれるのかと、あらためて有難い家族に恵まれたなと思いました。

さらに、「しんちゃんならやれる、大丈夫」とまで言うのです。さすがにそこまで言われると、いやいやそんな大丈夫じゃないですよと、僕の方が尻込みするくらいでした笑。

家内の実家を出て、次は僕の両親です。実家は自営業をやっていましたので、僕の独立自体は反対しないだろうと思っていました。ただ、今このタイミングは早いんじゃないかと、ちょっと引き止められるかなと思っていました。

しかし、こちらもあっさり「あぁそうか」と一言。こちらもあとから聞いてみると「あなたは決めたこと曲げないでしょ、小さい時からそうだった。あのテレビ買った時もそう」と、僕が中学生の時の話になりました。

小学生の頃から、独立心が強かったのは覚えています。5年生6年生くらいになると、何をするにも親と一緒は嫌だった。その年頃って、普通は洋服とか、親と一緒に買い物行くじゃないですか。僕の場合は、お金だけもらって、隣町まで一人で自転車で行ってましたからね、ちょっと変わってました。

母がいうあのテレビというのは、中学入学すぐのことです。明確な反抗期というわけではありませんが、自分の部屋に籠ることが多くなってきました。そこでテレビとか電話とか欲しくなるわけです。

当時テレビってまだまだ高くて、14インチの小さなものでも、8万円くらいしたと思います。そんなテレビを、中学入りたての僕は、自分で買おうと考えたのです。出入りの電気屋さんにカタログを届けてもらい、好きな色を決めて月賦(ローンって言わなかったです)を組んでもらいました。

どうやってその代金を工面しようと思ったか、中学生が稼ぐ方法なんてそんなにないですよね。そこで選んだのは新聞配達でした。今思えば、中学生といってもついこの間まで小学生、いや見た目は今でも小学生だった僕によく新聞配達のバイトができたなと思います。

新聞販売店も、一般的には、中学一年生に新聞配達はさせないだろうし。おそらくですが、父親が「自分が責任持つからやらせてくれ」とお願いしていたんじゃないかと想像します。

この件については、中学校でも問題になっていたようで、その経緯をのちに母から聞きました。中学校からは「アルバイトはダメです」と再三言われていたらしいのです。僕は全然知りませんでしたが、「なぜ子供が自らの力で欲しいものを手にする事がダメなのか」と、父はその度に意見していたとのことでした。

ルールを破ってまで、僕にそんな経験をさせてくれた両親に感謝しています。今回の無謀な独立宣言が、この新聞配達の延長線上にあるとしたら、なんかすごいなぁと素直に感動しています。

ちなみにこの新聞配達は中学3年間全うしました。田舎なので全部で60部くらいでしたが、自転車で2時間半掛かっていました。雨の日も雪の日も風の日も、よくやったなと今の自分の自信にもなっています。

2020年10月21日 ここまで
独立宣言から家族への報告、ドキドキが続きましたが、あとひとつ驚きの事実を知る事になります。これはまだ誰も知らない事でした。

2020年10月22日 ここから
久しぶりの雨模様、屋根にあたる雨音と小鳥のさえずりが凄く清々しい。

 201022...会社への報告

金曜日に辞めることを決意し、その日のうちに所長へ会うためのアポを取り、日曜日に「辞めます、独立します」と宣言し、そのあと家族のみんなに報告という、緊張しっぱなしの週末でした。

そして月曜日を迎え、いつものように会社へ向かいます。会社ではいつものように先輩たちと挨拶を交わします。当時は同僚(僕の翌年以降入社)も何人かいて、設計室には確か僕含め8名いたと思います。

就業時間に近づくと、そんな8名が設計室に全員揃います。「みなさんちょっといいですか」と、部屋の中央付近で僕が声をかけます。「実はご報告したい事があります」設計室の中が一瞬ざわつきました。

「会社、辞める事にしました」

寝耳に水とはこの事でしょう。みんななに言ってるの?という表情です。誰となく、「なんで?」という質問があがります。「僕がとった忌引きの件で少し言われまして、それがどうにも我慢できなくて」。

「あぁ、ちょっと長いなぁとは思ってたよ」、先輩たちもそう感じていたようです。僕自信、長いとわかっててとった忌引きなので、みんながそう思うことは当然のことだと、不思議に思うことはありませんでした。

この段階までくると、かなり冷静に、いろいろなことを考えられるようになっています。忌引きが長いと注意されたことも、凄く当たり前のことで、辞めるに至るほどの理由でないこと。

そしてはっきりしているのは、会社も会社の誰も嫌いではなかったこと。むしろ、まだまだこの会社にいるつもりでした。にもかかわらず、こんな風にみんなに「辞めます」と言っている。

これは僕のわがまま、僕の心の中に燻っていた、独立心という種火に火がついただけだったのだろうと。そう思うようになったのは、「辞めます」というネガティブな話を、気持ちよく話している自分がいたからでした。

すごくスッキリして、これまで以上に前を向いていました。忘れてならない「無免許である」という事実すらも、全き気にならないほどに。このあと仕事の引き継ぎをすませ、6月いっぱいでの退社を認めていただき、8年2ヶ月の会社員生活に幕を引いたのです。

2020年10月22日 ここまで
会社から退社を認めていただき、正式に辞める事ができました。円満退社とはいきませんでしたが、人生の一つの区切りがついた出来事でした。

2020年10月23日 ここから
長女(高校3年生)が原付免許の試験へ出かけて行きました。旭屋っていう徹夜で過去問解く学校があるんだけど、全国的にはないのかな?すごい的中率で数時間前には今日の試験にはこの辺りがという情報が入ってきます。

201023...二級建築士学科試験

毎朝会社へ出かけていたのが、7月1日この日を境になくなりました。まずは、無免許をなんとかしなければなりません。二級建築士の免許を取るためには、学科試験と実技試験に合格する必要があります。

学科試験は、多くの場合7月の第三週に実施されます。この年も、同様に実施されました。会社辞めてからは自由時間だらけです。この学科試験合格に向け、約3週間必死で勉強しました。あんなに勉強したのは、生まれて初めてでした。

と、ここに書いていますが、どうも記憶が正しくないようです。僕の記憶では5月に忌引きして、そのまま辞めます宣言、そして6月に引き継ぎを行い、6月いっぱいで退社。その後3週間ほど猛勉強して、学科試験を受けたはずなのですが、ネットで調べてみると、学科試験は7月の第一週が通常とあります。

つまり、一ヶ月のズレがあるようなのです。3週間の猛勉強は間違いない記憶なので、6月初旬には辞めていた事になります。さらに、試験の申し込み期限は4月に終わっているはず。ここが最大の謎です。4月には、まだ辞めるとか微塵も考えていなかったので、果たして試験申し込みをしていたのかどうだか・・・。受験しているので、申込みは、しっかりやっていたのでしょうけど笑。

20201023...学科試験合格

猛勉強やったし、試験会場でも全問答えることができました。手応えからいけば、合格しているはずなのですが、やっぱり通知が届くまではドキドキでした。そして無事合格通知が届きました。これで一つ目の壁をクリアした事になります。

次は難関と言われる実技試験です。すでに、実技試験の課題は発表されており、確かこの年は「〇〇を併設したコミニュティセンター」というお題だったと思います。〇〇の部分は覚えていませんが、コミセン自体は仕事で何度か設計しているのでラッキーでした。

実技試験合格への課題は、エスキスと図面を描くスピードです。エスキスとは提供されている諸条件や、当然考えるべき法律のことなどを踏まえた上で、企画立案しそれをスケッチする事です。このエスキス自体は自分さえわかればいいものですが、凄く重要な工程になります。

多くの受験者がこのエスキスでつまずき、実技試験で合格を掴み取ることができません。エスキスとは基本設計のようなものなので、実務経験者はそう言った意味では有利でした。

あとは、エスキス自体を正確にまとめ上げるスピードと、それを時間内に製図として書き上げること。この実技試験が、学科合格発表から2ヶ月後の10月(本当は9月みたい、記憶があやふや)ですから、ここも超練習頑張りました。

朝から晩まで、過去に提出された類似の題材をひたすらトレースして、スピード感を身につけていきます。試験時間は5時間、この間にエスキスし製図として仕上げなければなりません。いくら実務経験があるといっても、5時間でここまでやることはありませんでしたから、その経験があることのアドバンテージは意外に低かったです。

逆に、実務ではきれいな(見やすい)図面や、そもそも製図板やT定規なんて使わず、ドラフターに慣れているものに対しては、過酷だったかもしれません。その中でも、一番のハードルがエスキス。ベストを求める実務に対して、ベターで良いとする試験の感覚は、実務者として良心との戦いでもありました。実務では許されないことにも目を瞑って、試験合格を目指していたのです。

2020年10月23日 ここまで
学科試験合格して一安心ですが、実技で受からなければ、来年まで待たなければなりません。それはやばいですから、その必死さは想像していただけるでしょう。

2020年10月25日 ここから
お隣に暮らされているご夫婦より昨夜電話がりました。熊本地震以降、何かと頼っていただいています。昨日の電話は玄関先にあるスチール柱の錆が気になるから、どうにかできますか?という内容。あぁ、ご近所付き合いってこんな事だよなとあらためて感じました。

201025...事務所登録から事務所開業

実技の製図試験、あまり記憶がありませんが、無事に最後まで描くことができ、その後12月に合格通知が届きました。晴れて建築士になることができたのです。

無謀な辞めます宣言から半年、無事に資格所得までたどり着きました。あとは設計事務所登録だけと思っていたら、管理建築士講習を受ける必要がありました。その年の分はすでに終了していたので、年明けに受講して、事務所登録できたのは2000年の2月、実は今年でちょうど開業20年だったのです。

いよいよ設計事務所開業です。とはいうものの、なんの準備もないまま独立したので、仕事なんてまだありません。しばらくは雇用保険があるので、それを使いながら、仕事を探していきました。

ここで、あらためて考えるのです。「仕事ってどうやって取ってくるんだ?」と。どう動いていいかさっぱりわかりませんでした。学校ではもちろん習ってないし、勤めている間も仕事を受注するなんて経験していません。

営業職の部長と専務、それに所長が、県やいろんな市町村の仕事を受注してきて、僕ら社員が実務でバリバリ設計しているって感覚でしたから。まさか、市町村へ営業に飛び込むわけにもいかず、住宅の設計をしたいと思っていたのですが、個人住宅の営業こそ皆目見当もつきませんでした。

そうこうしているうちに、僕が会社辞めたという情報が、いろんなところで広がっていきました。勤めているときにお付き合いのあったゼネコンさんや、工務店さんたちです。

幸いそんなお付き合いの中から、声を掛けていただき、分譲マンションの企画設計や、まるまる一棟分の実施設計なんかを回していただきました。勤務時代にも書いたことのない量の図面を、ひたすら書き続け大変でしたが、独立当初はこの繋がりにめちゃくちゃ助けられました。

このお仕事、量もさることながら、締め切りが非常にタイトでした。鉄筋コンクリートのマンション(8階建40戸程度)の実施図面を2週間でとか、今思えばゾッとします。この2週間のうち、徹夜を何日やったことか。

これ、めっちゃ大変だったのですが、そんなに嫌でもなく、何件もやりました。それを繰り返すうちに、先方からの信用も頂けるようになり、次々にご依頼いただくようになりました。それを実感したのは、急なマンション計画の企画なんかを依頼されるときです。

そのマンション建設を受注するために、オーナーへ提案するための企画資料、それをゼネコンの設計室から依頼されるのです。しかも、その企画料が一件5万円程度だったので、当時の時間給的には良かった。企画のために実質費やしていたのは5時間くらいでしたので、時給1万円になりました。

当時、こんな都合のいい仕事ばかりではありませんでしたが、この繋がりにものすごく助けられました。そして、自由な働き方を少しだけ感じていた時でした。

201025...そういえばいい忘れていました。

ここまで、順調に事務所登録まで済ませて、独立できた話を書いてきましたが、いい忘れていることがありました。実は、「辞めます」宣言の直後、だから1999年の6月ごろ、大きなお知らせが届きました。

それはまだ、仕事辞めたけどどうするの?と、家族みんなが少なからず不安を持っていた時期でした。

「3ヶ月目だって」

家内からの電話でした。そう、次男の妊娠が分かったのです。「辞めます」宣言の時に長男がすでに2歳、正直ここには不安がありましたが、もう勢いで突き進みました。そんな勢いだけで言った「辞めます」宣言の直後に、次男の妊娠が発覚したのです。

このタイミングでマジかと思いましたが、もうすでに遅い。辞めますって言って、引き継ぎを進めている段階でしたから。逆に、これがあったから覚悟が持てたのかもしれませんけど。

幸い、僕も家内も、どちらかというと楽観的な性格でしたので、家族が増えて、賑やかな暮らしを想像することができました。この長男と次男、3つ違いの兄弟ですが、古市家のこんな一番不安定な状態を経験してきましたが、二人とも曲がることなくまっすぐ育ってくれました。

長男は、物心ついた時に家庭の状況を感じたのでしょう、すごく慎重派で真面目な性格です。3歳年下の次男は、慎重派というより僕に近い思いっきり派に育っています。ただ共通するのは、「家族大好き」ということ。これはその後生まれる、長女と次女にも引き継がれていきました。

2020年10月25日 ここまで
今日は長女の誕生日、18歳になりますが特別な誕生日になりそうです。先日就職試験を受けてきたようですが、試験官さんにすごく好印象を持ってもらえたよと、笑顔で帰ってきました。さらに、今日の誕生日会は彼氏と友人たちが、うちでこっそりサプライズ飾り付けをするとのこと。長女がどんな顔になるのか今から楽しみです。

2020年10月26日 ここから
昨夜は大盛り上がり、長女の誕生日会でしたが、サプライズ続きで娘はずっと泣き笑いでした。僕は早々に酔っ払いましたので、先に寝ちゃいました。

201026...自宅での仕事

先のような仕事を、独立当初は自宅でやっていました。当時、間取り3DKの市営住宅に住んでいたので、そのうちの一室が僕の仕事場でした。まだ長男が小さく、次男はまだお腹の中でしたので一部屋つぶしてもなんともなかった。

この時住んでいた市営住宅がこちら、くまもとアートポリス事業になっている熊本市営託麻団地/14棟(坂本一成設計)でした。タイトル未設定となっていますが、↓はpdfの資料です。

各階段室ごとに、吹き抜けの中庭が、建物中央を縦にブチ抜いており、そこに2戸の住宅が配置されています。間取りこそ3DKと、至って普通の市営住宅ですが、そこでの暮らしは僕の設計者人生に大きな影響を与えました。

吹き抜けに面した部分には、屋根のあるベランダが設けられており、そのベランダに対して、食堂(台所)と居間が面しています。そのベランダの広さは8帖くらいありましたから、そこを暮らしの中に取り込めれば、気持ちいい生活になるのは分かっていました。

設計者も、意図していたのはそういう暮らし方だろうと、ベランダに面する窓には何も置きませんでした。ただこれには、モノを持たない暮らしが必要でした。

モノは極力持たないようにと、以前から意識していたので、うちには持ち込みの家具が少なかった。でも他の家は違いました。もともと、壁よりも窓の多い住宅でしたので、大抵の家はその窓の面に、大きな食器棚が置かれていました。

こういったところに、設計者が意図したことと、そこでのリアルな生活にズレが発生しており、公営住宅という不特定多数の暮らしを想像することの難しさを学びました。

至って普通の間取りであれば、持ち込み家具のレイアウトも簡単だし、暮らし方に迷う人の数もずっと減るのかもしれません。しかし、せっかく暮らすのであれば、より気持ちよい暮らしを創造したいと設計者は考えます。このあたりの折り合いをどう設けるかが、優れた設計者なのかなと考えていました。

2020年10月26日 ここまで
自宅での設計活動は、暮らしと仕事が直結していました。それはそれでよかったのですが、やはり暮らしと仕事との間に、時間のズレが出てきたので、外に出る事にしました。

2020年10月27日 ここから
気温10度を下回る日が多くなてきました。そろそろ暖房始めようかなと、いやまて11月まで待とうなどと、変な葛藤をしています笑。

201027...家賃の考え方

自宅での作業に、いろいろ不都合が出てきたので、事務所を借りる事にしました。お金に余裕なんてなかったので、とにかく安くしたいなと、情報誌を買ってきます。が、大抵は安くて6万円程度、市営住宅は当時48,000円だったのでそれを超えると、なんだかすごく高く感じたんです。

このあたりの感覚もまだズレてますね。今考えると、独立なんて本当に無謀だったんだなと、家賃に対する考え方からも伺えます。本来、事務所を借りるということは、そこで仕事をし、お金が生まれる場所を作るということ。

自宅の家賃とは全く別のものであるのに、ここを比べてしまっていた。家賃6万円で、売り上げ100万円だったら全然問題ないはずです。

自宅の家賃 = 住宅費 → 給料から生活費として支出
給料から、所得税などの税金を引かれた手取りから支払いするので、安いほうがいいし、この家賃から得られる経済的効果はありません。

事務所の家賃 = 事業費 → 事業売り上げから支出
事業の売り上げから、必要経費として支出されるものであり、必要経費ということは売り上げを生み出すための要素であること。税金も控除されるので、金額の高い安いの評価ではなく、売り上げに対する比率で考えるべきものです。

この時考えなければいけなかったのは、安い家賃の事務所を探すことではなく、売り上げ100万円をどう実現させるか、本当に悩むべきはこちらだったはずですよね。

そんな賃貸探ししている時に、義姉から家内に連絡がありました。「付き合っている人紹介したいから時間作って」と。

201027...運命の出会い

義姉といっても、歳は僕の一つ下で、高校生の時から知っている妹みたいな存在でした。そんな義姉が彼氏を紹介するっていうので、ご飯食べながらということになりました。

外ではなく、うちでやりたいというので、自宅で鍋を囲むことに。材料は全部義姉たちが買ってくるから、場所だけ提供してということでした。鍋の準備をしながら、彼氏ってどんな人(ヤツ)だろうと変な緊張があったような気がします。

そして、ピンポーンとドアフォンが鳴り、二人が入ってきます。玄関まで迎えに行くなんてことしません。兄弟仲が良かったので、普通に入ってきます。そしてその後ろに彼氏がいました。

「年上じゃん」

心の中で呟きました。見た目明らかに僕より年上です。しかもスーツを着ていました。色が白く髪の毛はなんだか金髪っぽい。この表現だとなんだかチャラ男っぽいですが、そうでななく、アメリカ人みたいな雰囲気なのです。

僕の驚きを察知したのか、日本人だよ。ちょっと色素たらなくて、いろいろ薄いのという解説がきました。色だけでなく、顔立ちもそうだったし、身長も高かった。誰だって僕と同じような反応をしたと思います。

2020年10月27日 ここまで
いよいよ僕の人生が大きく動き始めます。この出会いから少しずつビジネスについて考え始めるのです。

2020年10月28日 ここから
昨日も一本、Rebornのプレゼンやってきました。プレゼンやっていると、空き家所有者の顔がみるみる明るくなり、終わった後には「いやぁお話し聞いてモヤモヤが晴れました」と言われます。みなさん漠然とした不安をお持ちのようです。

201028...事務所移転

鍋の準備が整ったので、まずは「かんぱ〜い」。鍋をやるくらいなので、もう寒い季節だったと思います。元来、年上にはめっぽう強い方ですから、この鍋を囲んだ数時間で、しっかり打ち解け会えたと思います。

ここでざっくり、この彼氏のことを紹介しておきます。僕とのご縁ある方であれば、あぁあの人ねって思われる方も一定数いらっしゃると思います。本名書くとアレなんで、ここではMI(エムアイ)さんとします。

MIさん、年齢30代後半(当時)僕との年齢差は10歳までないくらい。仕事は不動産業で、飲食店も経営している。いつも笑顔だが、あまり熱くなったりしないが、クールってわけでもない。最近のことはいろいろ話してくれるが、昔話はしない。暗い過去でもあるのか?街宣車に昔乗っていたという噂はある。

人吉出身でお姉さんがいるようだが、他の家族の存在を感じさせない。友人に、人吉や八代で飲食店を経営しているOTさんがいた。このOTさんとは親友関係のようだった。僕にもこのOTさんはよくしてくれた。

そもそも、10歳近く年上の彼氏っていうのもアレでしたが、義姉はその性格から交友関係がとても広く、僕と家内との出会いを作ってくれたのも彼女でした。まだ高校生だったのに、合コンをセッティングしていたのです。

さて、MIさんですが、僕のことを気に入ってくれたようで、いろいろ話を聞いてきます。僕がなぜ会社辞めたのか、独立してどうしたいのか、今の仕事の状況はどうなのか?などなど、根掘り葉掘りです。僕は正直にそれに答えていきます。

「うちの仕事手伝ってくれないかな」

最終的にはこんなお誘いをいただきました。MIさんの仕事は不動産業、建築と不動産ですから、親和性はいいですよね。断る理由もないので、もちろん了解しました。ただ、社員になるとかは、もうなかったので、あくまで独立した個人事業主ということで。

そこにもあまり拘りはなかったようで、どっちでもいいよとのこと。ちょうど自宅から出て、事務所を探していたので、どこかいいところないか聞いてみました。すると「うちの会社の中でいいじゃん」と。

会社の中には余っているスペースがあるので、「そこにFAD建築事務所の机おいて、電話回線も引っ張ってパソコン置いて仕事すればいいじゃん」、事務所を改めて構えたところで、お客様がくることもまだない時代ですから、それで十分でした。お言葉に甘えて、早速引越しさせていただきました。

201028...屋号の意味

そういえば、独立するにあたり、屋号をどうするか決めなければいけませんでした。今でこそ、FAD建築事務所って馴染んでいますが、事務所登録する時、どうしようと結構悩んだのを覚えています。

設計事務所として開業し、営業を行うためには、事務所の所在地である都道府県に登録が必要です。それが設計事務所登録で、知事登録の番号が付与されます。うちの場合は熊本県知事になります。

二級建築士でしたので、登録も二級建築士事務所でした。この頃設計事務所を開業しましたというと、「へぇすごいね一級建築士なんて」とよく言われました。その度に「いいえ二級建築士です」って返すのが面倒で、あとからは「いいえいいえ、それほどでも」と返すようになっていました笑。

で屋号なんですが、FAD(エフエーディ)とは、フルイチアーキテクトデザイン(Furuichi Architect Design)の頭文字をとったものです。至ってシンプルなネーミングですが、アルファベット三文字にしたのは、ある思いがあったからです。

会社を辞めたのが28歳、まだまだ周りで独立ているものは少なかったです。設計事務所として正直やっていけるのかなんてのも、全くわかりませんでした。でも、変な自信というか余裕がこの頃の僕にはありました。

家内も、不安な中にもそんな感覚があったと、思い出話でよく言います。そんな余裕を生み出していたのが、この屋号だったのかもしれません。アルファベットの頭文字ですから、正確にはそれぞれの文字の間には「 .  」(ドット)が入ります。F.A.D.が正式な登録屋号です。

途中から面倒臭くなって、間のドットは書かなくなりましたが、銀行への口座登録にこのドットをつけていたので、なんだかややこしいことによくなりましたね。話がそれましたが、なぜアルファベット三文字にしたのか。

それは、設計事務所ではない仕事を、将来的にできるように。その時に使い回しのできるものにしようということで、アルファベット三文字にしたのでした。当時から、建築だけでなく、なんか他のこともやりたいなと思っていたんですね。今ここにきて、それが実現しようとしています。

そんな思いで考えたFADでしたが、あっけなくその思いは潰されます。県の担当部署へ登録申請書類を持って行った時のことです。「建築士事務所登録をしたいのですが」と、申請書を担当窓口へ提出。そして瞬殺でした。

「設計事務所とわかる屋号にしてください」

えぇーって感じです。設計事務所とわからないようにと、アルファベット三文字にしたのに、わかるようにって・・・。Aはアーキテクトで建築の意味なんですが・・・といっても、それは一般の方に一眼でわからないからダメです。

「じゃ、どんなものであればいいんですか?」と窓口で立ち話。そうですね、〇〇設計事務所とか、〇〇建築事務所とかじゃないですかとあまりにもベタな返事が返ってきました。

もう、どうにもならないようでしたし、早く登録したかったのでその数分間で出来上がった屋号が「FAD建築事務所」だったんです。建築事務所にしたのは、勤めていた設計事務所が、桜樹会古川建築事務所で馴染みがあったから。今では板についてるこの屋号ですが、なんともあっけないスタートだったんです。

2020年10月28日 ここまで
この屋号誕生の秘話、あまり喋ってませんでしたが、今思い出すとここも無謀だったなと、それでよくここまでやってこれたなと、自分の運の良さに驚きます。

2020年10月29日 ここから
長坂の家の仕上げ工事が終盤です。昨日は、造作家具とラワンベニア仕上げ部分の塗装作業をしてきました。少し筋肉痛・・・。

201029...引越しと新しい仕事

自宅から、パソコンやプリンター・事務机などの移動をすませ、業務再開です。仕事の内容は、この時期もマンション関係の仕事を、ゼネコンさんからご依頼いただいていました。さらに、この間借りさせてもらっている不動産屋さんの仕事も手伝っていました。

どんな仕事を手伝っていたか、それは今でいう現況調査・インスペクションを伴う査定みたいな内容でした。当時そんな資格持っていたわけではないのですが、不動産取引きの参考にしたいからと、素人よりも建築知っている僕の方がマシだろう、程度の調査でした。

それでも、その査定があるかないかで、不動産取引におけるインセンティブは随分変わったようです。「しんちゃん助かったよぉ」と言われること非常に多かったですから。

「しんちゃん」とは僕のことです。昔からシンイチロウって長いので、詰めてしんちゃんと呼ばれることが多かった。ここの社長にもそう呼ばれていました。

僕がやっていたこの査定業務、外注しようにも受けるところのあては、当時なかったと思います。さらに外注先があったとしても、査定のたびに業務料が発生しては利益に影響も出ていたはず。

当時の僕は何も考えず、「タダで間借りさせてくれてありがとうございます」でしたが、今思えば、ここにこの社長の強かな狙いがあったのかなと、最近は分かります。査定業務は結構な件数ありましたから、それをいちいち外注していたら大変だったはず。

でも、同じ会社のフロア内に僕がいて、かなり自由度の高い行動が取れる。家賃無料でも全く問題ない、家賃分で無限に仕事をやってくれる、むしろプラスになるくらいだったと思います。先にリスクをとって、益をだす発想がここにあったのです。

さらに、取り扱いの不動産取引にも同じ考え方がありました。一般的な不動産屋さんは、中古住宅の売買を依頼された場合、その販売作業(告知)と、取引の際の専門家として委託業務を発生させます。いわゆる仲介手数料にあたる部分です。これにはほぼリスクは存在しません。広告費を若干使いますが、ほんと取引の中においては微々たるものです。

しかし、この不動産会社では、なかなかのリスクを先行投資し、その代わり取引が成功すれば、しっかり利益が出せるようになっていました。この発想はRebornのビジネスモデルと非常によく似ています。驚きは、これを20年前に僕は身近で体験していたことでした。ちなみに、この不動産会社のビジネスモデルはこんな感じです。

・取り扱う中古住宅は、負債を抱えた一般個人のもの
・査定を実施して売買価格を検討する
・所有者の負債を一時立替える(ここリスク)
・専属専任媒介契約を締結する
・不動産の買い手を探す
・売買契約を締結させ、媒介手数料と立替え費を受け取る。

この流れで肝になるのは、負債を一時立替えること。ここを立替えることで、専属専任媒介契約を結ぶことができるようになります。この契約形態は不動産会社にとってすごいメリットが大きい方法です。

ちなみに、多くの不動産取引業務の契約形態は以下の二つで、不動産会社の努力が報われない可能性のあるものになります。どちらかというと売主し優位です。

・一般媒介契約

・専任媒介契約

この不動産会社が目をつけたのは、負債を持った個人の困りごと、「返済できなければ差し押さえされ、競売にかけられ安くしか取引できない」部分をその負債を一時立替えることで解決しています。

一方で、その立替え(大抵の場合数百万円)を実施することで、不動産取引における最上位の契約を得ることができる。さらに、最初に実施している査定により、売れ残らないような対策を施しているから、ほぼ確実に立替費の回収と、媒介手数料を得ることができるようになっていました。

20年前、僕はこの考え方に出会っていました。業務の流れとして、上記は理解していましたが、その真髄には全く気付いていませんでした。このMI社長、当時そんな話してくれていたような気もしますが、僕の頭の準備ができていなかったようです。

2020年10月29日 ここまで
Rebornの原型を20年前に体験していました。全く気付いていませんでしたが、Rebornを考えるにつれ、昔の記憶が蘇ってきました。情報はいっぱいあるけど、それを受信できるアンテナがないと勿体ないなというオチでした。

2020年10月30日 ここから
今朝は台所がなんか賑やかです。いつも僕が最初に起きて、この記事書きながら、ご飯だけ炊いているのですが、娘が彼氏のためにお弁当作るらしく、家内とともに急かせかしています。

201030...雇用にも補助金の活用

この不動産屋さんでは、補助金の利用についても学びました。事務所の一部を間借りさせていただき、その上定額の報酬まで貰っていました。この報酬の出所が補助金だったのです。この時代には、雇用に対する補助があり、一定の条件を満たせば国から補助が出ていました。

今でも、雇用に対する補助金はいくつか準備されています。僕の事務所でも、スタッフのキャリアアップに伴う補助金を使っていました。この雇用関係の補助金は意識して使うことで、会社運営またスタッフのキャリア形成に貢献してくれます。

201030...初受注の仕事

こんな感じで仕事をしていましたが、まだ独立した設計事務所らしい仕事はしていません。やっぱり住宅を設計したかったのですが、受注の方法が見つかっていませんでした。

そんな中、FAD建築事務所としてきちんと受注できる、最初の仕事がやってきます。友人がアパートの計画を紹介してくれたのです。アパートオーナーも同じ建築業界の方だったのですが、土地が余っているので、そこにアパートを建てたいとのことでした。そのアパートはこちら↓「KOMODO」アパート。今から18年前の計画です。

鉄骨造3階建てで、住戸が6戸の小規模なものです。とはいえ、2級建築士では扱えない案件だったので、1級建築士の先輩との共同になりました。余裕のある予算ではなかったものの、初めての設計案件でしたので気合入っていました。

アパートなので経済性も大事なのですが、空き室が出ないことの方が重要です。そこで、この地域でどんな部屋の需要があるか、どんな人をターゲットに想定すべきか、空き室率を下げるためにはどうしらいいか、調査と検討を繰り返しました。

この島崎2丁目付近は、市中心部より自転車で10分くらい、多くの住宅が建っている一方、病院や学校そして美術館などもある複合的な地域でした。単身者向けにするか、ファミリー向けにするか、まずはそこからオーナーと相談します。

2020年10月30日 ここまで
ちょっと途中ですが、本日は現場へ行くためここまでです。続きはまた次回。

2020年10月31日 ここから
今日で10月も最後になりました。今年一年はいつも以上に早かった。大きく僕の人生が動いた気がします。

201031...近隣リサーチと建物タイプ

どんな層に需要があるのか、近隣の賃貸状況をリサーチしてみました。まずは、住宅のタイプについてです。近所を見て回ると、単身者向けは少ないようです。街に近いし、飲食店もあり、大きな病院もあるので、そこに勤める独身者もいると思ったのですが意外に少ないようです。

その代わり、ファミリー向けのものが、かなり目につきます。また、分譲マンションも、周りにはいっぱい建っていました。近所の公園を見てみると、夕方とか休みの日には、家族の姿が多く見られます。

なるほど、ファミリー向けの方が良さそうです。念のため、不動産屋さんへも、この地域の傾向を聞いてみました。すると、「単身者向けも一定の需要はある。しかし、オーナーさんたちはあまり単身者向けを造りたがらない。」という回答。

事情を聞いてみると、街(繁華街)に近いところでの単身者世帯は、その周りが散らかったり、防犯性に不安が出たり、近隣住民とのトラブルになったりと、問題が起こりやすいとのことでした。借りる人の素養が低いようなんです。

はぁそうなんだと意外な事実を知り、今回はファミリー向けでいくことに決定。ボリュームとしても、あまり大きくはしたくないということで、3DKのこじんまりとしたものを計画することになりました。

また、空き室を減らすために、賃貸としての魅力を最大化し、近隣の同タイプ賃貸との差別化を図りました。近隣のアパートは鉄筋コンクリート造であれ、鉄骨造であれ、その全てが長屋形式で、隣りの住戸と壁を共有しています。木造のアパート(○東建託)が多いのも意外でした。

経済性から考えると、その方法が一般的です。しかし、そうなるとどうしても生活音の問題が出てきます。特にファミリー向けだと、子供たちのだす音がトラブルになったりと、音問題は解決すべき重要な要素です。

その問題を解決するために、長屋形式ではなく、連棟形式を選択しました。連棟形式とは分かりやすくいうとツインタワーです。二つの3階建ての建物を横に並べて、その間を階段とポーチで繋ぐようにしたのです。

丹下健三の東京都庁が、当時ツインタワーの代名詞になっていました。規模は違いますが、今回のアパートは間違いなくツインタワー型です。

そうすることで、隣の住宅と壁を共有することがなくなり、音問題は改善されました。また、階段室を広くとることで、各住宅がそれぞれに、玄関前を使えるようになりました。自転車などがアパート周辺にはみ出すのは、見た目綺麗でないし、自分たちの玄関周辺に置いてた方が、防犯の面からも安心できるはずです。

またこの形であれば、各住戸の独立性が生まれ、見た目にも余裕がある、美しい賃貸アパートになれます。デザイン面からも他者との差別化を図っていったのです。

2020年10月31日 ここまで
近隣のリサーチと、ファミリー向けタイプの問題点を解決しながら、このアパート計画は進んで行きました。次回は間取りについての工夫を書いていきます。

2020年11月1日 ここから
11月こんにちは、流石にこの時期の朝は寒さが増してきました。断熱措置のない築45年の貸家は、やはりこれからの季節が弱点になります。

201101...敷地と建物配置との関係

当時の図面があればいいのですが、探しても見つかりませんでした。紙媒体は時期が来たらなるべく処分するようにしています。

この頃のパソコンも残っているわけがなく、CADデータも残っていません。写真は?とも思ったのですが、これもない。やはり、PCに全てぶち込んでいたのでしょうけど、そのPCがないのでどうにもなりませんね。

それでも頭の中にはしっかりと間取りが残っています。Google マップで外観を見れば、さらにその精度は上がっていきます。

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Google マップのストリートビューの画像です。左右に同じ形の住戸が3層に積み重なっています。方角としてはこの道路側が西側で、右手が南になる配置です。残念ながら南北ともに隣地に面しているのでそちら側へ開くことはできません。

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こちらは同じ通りに面した木造アパート(ピンクの外観)と、鉄筋コンクリート(奥のベージュ系)のアパートです。方角は同じなのですが、道路側の窓が小さく、南側に大きな窓がありそうだなと想像がつきます。特に鉄筋コンクリートのアパートの方は北側が共用通路で、南側がベランダというセオリー通りになっているようですね。

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もう少し寄ってみました。やはり南側へバルコニー(リビングに面して)が設けられていますが、南側隣地には住宅が迫っています。これでは、3階と4階はいいとしても、1階と2階の部屋は南側の恩恵を期待できません。

常に、カーテンも閉めっぱなしになっているはずです。さらにいうなら、南側の2階建て住宅も、のちには中高層の建物に変わる可能性もあるのです。そうなれば3階と4階も同じ条件になるでしょう。

住宅設計では、このようなセオリーに縛られた残念なもの意外と多いです。個人所有の戸建て住宅だと、その辺りを気にする所有者が検討を促してくれますが、こと賃貸住宅の場合はそうならないことが多い。

オーナー側は戸数を少しでも多く取りたい、設計者側は変わったことして入居率が下がるのは怖い、というバイアスがかかり、どうしてもセオリー通りになりがちなんです。このアパートはその典型だと思います。

201101...敷地と方角と間取りの調整

敷地と建物の配置については上記の通りです。セオリーにあまりにも依存してしまうと、残念な結果になることがあるということです。そんなところを我々設計者は見抜き、所有者に対してアドバイスし、将来へ向けた想像を怠ってはいけないと思っています。

スクリーンショット 2020-11-01 6.20.20

そこで、僕が最初に手掛けたこのアパートの、敷地・方角・間取りの関係を解説してみます。まず、特徴的なのは、西側に大きな窓が並んでいること。前面が道路とはいえ、折角開いているのだからそちら側に窓を設けました。

ここで注意しなければいけないのが、道路からの目線とプライバシーの確保、それに西日対策です。このストリートビューの画像から、その対策を解説します。

この西面には、二つの部屋がありそうだな、ということは分かっていただけると思います。階段室のすぐ隣と、ベランダに面している部分です。まず階段室隣の部屋は、和室になっています。

ここは寝室とか、予備室として使うことを想定していました。窓は大きいのですが、プライバシー確保と人の気配を調整するために、窓の内側にはカーテンではなく障子を設けています。

障子はカーテンよりも、プライバシー確保の上では効果的です。それぞれにはメリットとデメリットがありますが、それらを特徴(個性)として使い分けることが大切だと思っています。

カーテンは、自由な柄や色が選べる、窓を開けっぱなしでも使える。開けたり閉めたりの細かな調整ができるなど、気分に応じてファジーな使い方ができます。

一方障子の方は、先に書いたカーテンのメリットが全て叶えられまえん。その代わり、ピシッと締めることができます。

今回の、西側道路に面した間取りでは、ファジーなカーテンの使い方はあまり想像できず、ピシッと締め切ることの方が多いはずです。さらに、この窓の上部にはステンレスの庇を設けています。

雨除けの意味もあるのですが、本当の目的は、日除けと目線のカットでした。そんな設計者の意図を、見事に実現してくれているのが、右下1階のお部屋の方。庇に設けたフックに気付いてくれたんでしょう、すだれを下げてくれています。これ嬉しいですね。

2階の部屋の方は、障子ではなくカーテンを使われています。好みもあることなんで良しとします。というか想定内です。ここを最初からカーテンにしていれば、入居者に障子の選択はなかったはずです。本体工事の中で障子にしていたからこそ、カーテンという選択も可能になったのです。←これもほんと狙い通り。

こんな感じで、西側の部屋を設計しています。そこで、もう一つの西側の部屋、ベランダがついているところです。鋭い方はお気づきだと思います。このベランダには、通常のベランダ的役目ではなく、別の役目を持たせています。

それもやはり、西日対策とプライバシーの確保です。この部屋は6畳の洋室になっていて、クローゼットもついています。寝室としての利用がメインの想定です。

外観的にも変化を持たせたかったので、少し凹ませた感じです。凹ませることで、寝室と道路(駐車場)との距離が保て、心理的にもプライバシーの安定に貢献しています。さらに、西日についても凹んでいる分、室内への影響を最小限にしているところです。

普段、何気なく通っている、道路に面するこういったアパートたち。ここに書いたような目線で見ていくと、なるほどぉとか、これはまずいだろというものが見えてくるはずです。そんな散歩も面白いのでおすすめです。

西側の部屋だけで随分書いてしまいました。あと、東側の部屋と水回りについて解説したいですが、僕には鮮明に見えている間取りも、この記事を読んで頂いてる方にはさっぱりわからないですよね。

2020年11月1日 ここまで
ということで、次回は、平面図を軽くスケッチして、その図面いて続きの解説をしていきますね。

2020年11月3日 ここから
このnote書き始めて今日で1ヶ月経ちました。高校卒業から今までの自分を振り返ってきているのですが、記憶が曖昧なところ、鮮明に覚えていること、いろいろあって面白いです。ひたすら更新の形で書いてきているけど、やっぱり複数のタイトルに分けた方がいいかなとも思っています。

201103...デザイナーズハウス

ということで、東側と水回りについての解説です。当時の図面を探したのですが、やっぱりありませんでした。覚えてるかなと、少々不安でしたが、間取りを書いてみることにしました。

覚えてなかったら、なんとなくショックだなと思いながら、恐る恐る書き始めると・・・、しっかり覚えていました。20年前の間取りをしっかり覚えています。逆に感動しました!

島崎のアパート

これが、今回のアパートの間取りです。左右に対象の住戸があり、上下方向にも対象な外郭線になっています。賃貸アパートには珍しい、バルコニーを二つ持っているのも分かると思います。

とにかく、空き室を出さないようにするために、暮らしやすさとカッコよさの両立を意識しました。当時、「デザイナーズ〇〇」というのが流行っていて、このアパートも「デザイナーズだね」って言われることがありました。

でもそれは僕にとて褒め言葉でもなんでもなく、なんか非常に気持ち悪い表現でした。当時のそのほとんどは、本当のデザイナーが関与していることはほとんどなく、見た目のお飾りを、ハリボテのように作ったものが多かった。

それと一緒にされるのが面白くなかったし、同じに見えるんだなって、自分の力量のなさに、悔しい思いをしたのが思い出されます。まぁ、一緒にされるだけで中身は違うので問題はなかったのですが。

201103...間取りの構成と考え方

話がそれましたがが、東側の部屋構成です。西側の外郭線を対象にした雁行型としています。雁行型の利点は、窓が多くとれ光や風の取り入れがし易いこと。間取りや外観についても変化が持てて、魅力的な建築が作りやすいことなどが挙げられます。

一方で、欠点はなんといてもコスト増になりやすいところ。真っ直ぐな四角形より、少しずらすことで、角の数が増えたり、施工の手間が増えたりと、いろいろあって賃貸アパートで採用されることは少ないです。

右側の棟の住戸にて解説すると、台所のある部屋がダイニングキッチンです。広さ的には6帖強を持っています。小さめの食卓テーブルと、小さめの食器棚が置ける広さです。まだ若いファミリー層を意識していたので、この程度で良いと判断しました。

流し台の前には窓があり、単調になりがちな料理の支度や片付けに、光と風を取り入れます。もちろん開けることもできますが、隣地に建つ家もあるので、ガラスはすりガラスにしています。

階段室側とバルコニー側にも開口部があります。階段側の窓は小さめですが、通風を意識した窓で、バルコニー側のドアは勝手口を想定しています。賃貸アパートでは、勝手口なんて基本的に準備されませんが、あえてそれを設けました。

一通りの家事をやっていた僕にとって、この勝手口の便利さは外せなかったので、絶対取り入れたい機能でした。ゴミ出しまでの一時保管、風の呼び込み、洗濯物の出し入れなど、動線的にも繋がります。

このDKに雁行して繋がるのが、洋室①です。基本的にはリビングとして使われるかなと考えています。ここも通常であれば、LDK(リビングダイニングキッチン)とワンルームにすることが多いと思いますが、あえてずらしています。

外観の形に変化をという狙いもありましたが、ずらすことで室内空間に変化が生まれ、影になる部分が作れるのです。そうすることで、実数よりも空間を広く感じることができる。壁面もずれているので、置き家具が起きやすくもなります。視覚的効果も狙った結果です。

洋室①の工夫は他にもあります。それが、南側(右側の棟の場合)の壁です。なんの変哲もない壁ですが、この壁がこの住戸の使い方を良い意味で先導しています。

この壁の東側半分の中央部に、テレビのアンテナ端子などを配置しています。アンテナ端子がここにあるので、この南側壁を背にテレビを置くことになります。するとどうですか、DKから一直線でテレビが見れる位置にきます。

さらに、DKからの流れの空間から少し外れる形で、クローゼット前に溜まりができます。そこにはソファーを置くことができます。その正面には窓がくる形です。限られた空間で、いくつかの目線を持つことができ、先程の実数以上の広がりをここでも演出しています。

このDKと洋室①との繋ぎ方は、このアパートの大きな特徴でした。内装こそ安い床材に安いクロス、安い内装ドアを使っていますが、そもそもの間取りの力でその辺りをカバーしてみました。

水回りにも特徴があります。脱衣室が普通の半分しかありません。洗面の機能だけを残して、洗濯機置き場は別の場所にしました。慌てて図面書いたので書き損ねていますが、洋室①のクローゼット廊下側を凹ませ、そこに洗濯機を納めています。

廊下に面していますが、扉を設け普段は見えないようになっています。洗面脱衣室って意外と散らかりがち、その原因は洗濯機の存在が大きいと普段から思っていたので、思い切って出してみました。

洗面室は、お客様が入ることも多いところにも関わらず、プライベートな洗濯機が鎮座しているのもバランスが悪かった。そしてトイレとの連携もそんな感覚で繋げてみました。

賃貸アパートではトイレ用の手洗いは、トイレのタンクについているもので兼ねることが多いです。用を足して、手を伸ばして手を洗う、あの手洗い機にもすごく違和感ありました。

手洗いの周りには、どうしても水滴が散らばります。しかもあの体制で、タオルまでの道のりは長い。そこで、手洗いがトイレの外の近い場所でできるようにと考えたのが、このレイアウトです。

これだと、来客にスマートに手洗いにも、トイレにも案内できます。普段の家族の使い方としても、洗面の収納をきちんと設けていれば、洗面台周りに散乱しがちな歯ブラシなどの小物もしっかり隠せます。ちなみに、この手洗い洗面コーナは既製品ではなく、オリジナルのものをセットしました。

そして唯一普通なのが浴室です。ここだけは、特別にすることなく、掃除がし易いとか、水漏れを起こさないようにとか、至って普通のことを普通にやっています。

いかがだったでしょう、こんな形のアパートを最初の仕事にできました。賃貸アパートでしたが、住宅に変わりはありません。そこに暮らす家族を想像しながらの設計は本当に楽しかった。

ここから僕の住宅設計は始まったのです。

2020年11月3日 ここまで
今日はこれからゴルフ行ってきます。30年ぶりのコースへ行ってきます。30年前は考えられなかったYouTubeの存在は、僕のゴルフを頭でっかちにしてくれたよな気がします笑。とはいえ今日は全身で楽しんできます。

2020年11月4日 ここから
やっぱり身体ガチガチです。昨夜お風呂入って、結構ストレッチなどやっていたのですが、30年ぶりのコース周りの影響は大きいです笑。

201104...激安設料

最初の受注案件である、賃貸アパートの設計でしたが、最初であるがゆえにその報酬額の設定に困りました。正式なご依頼をいただき、いざ設計契約をとなった段階で、その報酬額をどうしたらいいか、自分の設計にどれくらいの対価を付ければいいのか、さっぱり分かりませんでした。

友人からの紹介で繋がった今回の計画、「お友達価格を考えるべきだろう」と一番に考えていました。さらに、なるべく予算は下げたいという、今思えば誰でも考える挨拶みたいなオーナーの言葉を間に受け、安くしなければ感が僕の中にいっぱい広がっていました。

建設費は確か4500万円。昨日まで書いてきたアパートの規模(鉄骨造・3階建・430m2)からいくと、この4500万円という僕の記憶はおかしいですね。ちょっとあり得ない笑、いくらだったんだろう、でも少なかったのは確かです。

総額は定かではありませんが、この時の設計料は150万円で決めました。独立前の会社員時代、手取りで15万円〜18万円(これも少ないですね)くらいでしたので、その10倍(10カ月)程度という感覚です。ちょっと安いよね、程度で考えていたのですが、今思えば考えられないくらいの激安で、この仕事を受注していました。

それでも楽しく最初の仕事ができたし、建物の方も無事に完成でき、入居開始からずっと空きも出ていないそうです。何より、たまに前を通ると、20年前の自分の仕事が残っているって本当に嬉しいです。

201104...事務所の移転

FAD建築事務所は現在の住所(菊池市泗水町南田島1049−2)に落ち着くまでに、事務所を4回引越ししています。

一番最初の事務所は自宅、熊本市営託麻団地の一室(5帖程度)でした。次の事務所が不動産屋さんの事務所の一部で、占有していたのは机が1.2m×0.7mに、本棚と事務椅子が動き回る程度の広さ、あとの空間は共有していたので、結構広かったです。

間借りしていたのは、このビルの2階部分でした。自宅からも遠くなく、環境としては最高でした。ただ、この頃になると、自身のお客様との打ち合わせのために、うち専用の事務所が必要になってきていました。

予定はしていましたが、ちょっと早めにこの間借り事務所から、出ることにしました。この神水という地域は好きで、不動産屋さんの仕事も続けていたので、近くで貸し事務所を探すことにしました。

広さは自宅だったり、間借りで済ませられる程度なので、狭くて全然かまいませんでした。もちろん、その情報の検索は、お世話になっているMI社長の不動産屋さんです。

賃貸担当の方に検索していただき、すぐ近くにバッチリな物件を見つけていただきました。それがこちら↓

現在はとある住宅会社のビルになっていますが、このビルの2階部分、なんと広さ3坪(たたみ6枚分)の事務所があったのです。ひとりだけの設計事務所であれば、パソコンが置けて、打ち合わせテーブルが一つあれば十分。しかも、不動産屋さんとは東バイパス(国道57号線)を挟んで目と鼻の先、歩いていける距離でした。

ここが、家賃6万円。当時、この界隈の家賃相場が、坪あたり1万円だったのに対し、ここは坪あたり2万円の計算になります。倍の設定ですが、総額6万円(駐車場付き)なら全然僕の条件に合っていました。

そして、この事務所へ引っ越ししてすぐに、個人住宅のご依頼を受けることになります。住宅を設計したいと願っていて、最初の依頼です。賃貸住宅は経験しましたが、そこに暮らす人からの依頼のものとは全く違う感覚がありました。

2020年11月4日 ここまで
事務所の引っ越しをしながら、自らの設計事務所も成長してくような、そんな感じで仕事していました。だがしかし、ここから独立事務所の、本当の厳しさや、苦労を味わい始めます。もちろん楽しいこともありましたが、振り返ると凄かったなと、今更ゾクっとします。

2020年11月5日 ここから
事務所の引越しが済んで、いよいよ本格的な独立開業です。

201105...オープンシステムとの出会い

最初の個人住宅の仕事が決まりました。引越しが終わって間も無くのタイミングです。このお客様との出会いは、とある組織のOMIAIという制度に参加してからでした。

このとある組織とは、オープンネット(現在:イエヒト)という、家づくりに対する思いを共有した、全国の設計事務所が集まった組織です。

この組織は、アメリカで生まれたCM(コンストラクションマネジメント)

方式(国交省もガイドラインを出しています)を活用し、設計事務所の建築士が、お客様の家づくりのパートナーとなり、設計監理から建設に関わるマネジメントまでを行うものです。

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イメージはこんな感じ、通常は左側の流れで家が作られます。ここにある工務店には、ハウスメーカーや建設会社なども含みほぼ同じ流れです。お客様と設計工事請負契約を結び、その工事自体は下請けと呼ばれる専門業者へ発注しています。

それに対し右側のオープンシステムでは、お客様が直接専門業者へ工事を発注しています。想像できる通り、中間経費が節約できて、建設費を有効に使えるというメリットを持っています。

ただ工務店の存在がないため、工事を発注したり、設計したり、現場をまとめることがお客様にはできません。その部分を、設計事務所が、設計監理とともにサポートしていくという流れです。

偶然ですが、この事務所引越しの直後に、この方法と僕は出会います。事務所開きで営業に来てくれた、○田市兵衛商店のY Mさんが教えてくれたのです。

「個人住宅を設計していきたいけど、どうやって受注すればいいのか、個人のお客様とどんな風に出会えばいいのか、イメージが全くできないんです。だからと言って、ハウスメーカーなどの下請け設計事務所にはなりたくない。」

そんなことを話していたら、このYMさんがオープンシステムってのがあるよと教えてくれたのでした。早速問い合わせしてみると、偶然にも、組織ができて初めての全国大会が、福岡で開催されるとのこと。

数日後に迫っていたので、すぐに申し込みをして、オープンシステムとはどんなものなのかを体感しに行きました。会場はシーホーク、一泊して報告会や勉強会が開かれました。そして夜は懇親会。そこで全国の設計事務所と繋がるのでした。

2020年11月5日 ここまで
オープンシステムとの出会いが、僕の設計事務所運営に大きな好機を与えてくれました。紹介してくれたYMさん、当時50歳代だったと思うので、今は80歳近いのかも。もう一度お会いできるなら、しっかりと感謝を伝えたいです。

2020年12月30日 ここから
一月以上間が空いてしましました。Reborn&長坂の家リノベが11月23日に完了していますが、それに向けた追い込みと、販売後の雑多な作業でnoteお休みしてました。また少しずつ続きを書いていきます。

201230...オープンシステム全国大会

当時の会員数は100社を少し切るくらい、福岡に集まったのは確か80社くらいだったと思います。会場となったのはシーホーク(現在のヒルトン福岡シーホーク)、リゾートホテルとして開業後4年目くらいの時期だったので、初めての全国大会の会場としてインパクトあるところでした。

初日は、オープンシステムについての勉強会や、全国の事例発表などがあり、夜は懇親会。懇親会会場は一次会こそシーホークでやりましたが、二次会以降は事前にセットしていたお店へ散って行きます。

カラオケコースとかお話しコース、ノンアルコースなど各々が行きたいところへいくシステムになっていました。九州の会員がそれぞれのコースをアテンドして、他から集まった会員をもてなしました。

この懇親会で、いろんな設計士と出会い、すごく大きな刺激を受け、同じ志を持った仲間がいることの素晴らしさを実感しました。そんな会員とは、今でも付き合いが続いていて、現在の僕の大切な財産になっています。

こんなオープンシステムを知るきっかけをくれたのは、熊本のYMさんでしたが、入会の決意を後押しし、そして入会後に支えてくれたのは、福岡の星野さんでした。

この星野さん、オープンネット九州の幹事でオープンシステムへの参加も全国で2番目(1番目は提唱者の山中さん)という偉大な方。オープンシステムの実績も多く、僕の質問にも丁寧に答えてくれました。

入会に迷いながら、というより不安だらけだった当時の僕に魔法の言葉をくれたのもこの方。見た目紳士で、喋り方はゆっくりで落ち着いている、周りのみんなからの信頼もあつい。ただ、ホンダ(F1とか本田宗一郎のあれね)の話になると熱気を帯びて止まらなくなる。そんな星野さんが僕にくれた言葉は「古市さんなら大丈夫」。

どこにそんな根拠があるのか分かりませんでしたが、「星野さんがいうんだったら大丈夫なのか」と僕の心は一気に高揚し、それまでの不安は吹っ飛びました。

20年12月30日 ここまで
オープンシステムへの入会を果たし、全国大会で多くの仲間と知り合えました。僕の設計事務所人生のスタートはこんな全国大会でした。

2020年12月31日 ここから
オープンシステムネットワーク(現在(株)イエヒト)に正式入会し、住宅設計の仕事に明るい未来が見えてきました。

201231...住宅設計の最初の仕事

前々回の話に戻ります。僕の最初の住宅設計の仕事は、オープンシステムを使ったものになりました。この分離発注方式の家づくりに出会わなければ、まだ住宅設計の受注はできていなかったかもしれません。

この時のお客さまとの出会いのきっかけはOMIAIです。オープンシステムネットワーク(以降OSN)の中にあったサービスの一つで、お客さまがONSに登録すると、その設計を受注したいと考えるOSNの会員が手をあげます。

複数の会員が当然手をあげるので、その中からお客さまにどの事務所と組むかを選んでもらいます。その選ぶ手段として、お見合い方式をとっていました。お客さまが各会員事務所を訪れ、家づくりに対する要望や家族構成などを伝え、会員事務所はそれにどう答えられるかなどを説明します。

お客さまが事務所周りをすることを考えれば、これまでのそれと変わらないような感じですが、OSを使うこと、自社以外にも競争相手がいること、その競争相手はOSの仲間であること、これらが事前にわかっているので、お客さまも我々会員事務所も、純粋に家づくりのことだけを考えることができました。変な気を回さなくてよかった。

そして、僕にとって最初のOMIAIの日をむかえます。手をあげている会員は僕を含め4社、みんな僕より一回り以上キャリアのある事務所ばかりです。さっきまで「よしっ!」と思っていた心が一気に暗くなります。実績もない僕に勝ち目はあるのか・・・。

お客さまとの面談が始まりました。お客さまは僕よりも二つ年上の方で、お子さんが二人いらっしゃる4人家族。ちょうどその頃、僕にも二人の子供がいて、子供たちの歳の差が一つずつ違うという関係。世代的に同じというシチュエーションでした。

少し話の内容も明るくなっていくものの、それだけでは仕事を受注することは難しいだろうなと、やはり周りの先輩事務所の背中が見え隠れします。実績もあって、年齢も一回りくらい上の建築士の方が安心感あるじゃないですか。

ところが、そんな僕の不安をよそに、そのお客さまが選んでくれたのが僕だったのです。理由をあとでお聞きすると「若い方の方が自分たちの意見と合いそう」「実績ある方々の方が安心だったけど古市さんにかけてみました」とのこと。ありがたく、身の引き締まる答えをいただき、住宅設計を初受注することができたのでした。

正式に契約を交わし、いよいよ設計のスタートです。まずは、お客さまへのヒアリングから。普段の暮らしの様子や、家族の趣味や、仕事のことなど多岐にわたって会話を深めていきます。

土地の方は事前に所有されていましたが、住宅用地としては解決すべきことがいくつかあったので、それらを整理して役所との打ち合わせも進めていきます。

繰り返したヒアリングをもとに、プランをいくつか考えてみます。家族4人が楽しく暮らしていける家、小さな子供たちの成長を見守る家などなど、キーワードを拾い出しながら、「繋がりの家」というコンセプトが生まれました。この「繋がり」というワードは、20年たった今でもずっと使っている大切な言葉になっています。

いくつかのプランの中から選び残っていったのは、中2階を持ち、その下にはインナーガレージがある2階建て、横にも縦にも繋がりを持たせた、広がりのあるプランでした。

木をふんだんに使いたいという希望から、梁や柱が見える真壁の造りにし、壁や天井・床についても限りなく天然素材を使うという計画になっています。当時から家は小さい方がいいと思っていたので、なるべくコンパクトに纏めていったつもりでしたが、40坪をちょっと超えるものになりました。

とはいえ、内容は濃く、ただ広いだけでない、コンセプト通りの繋がりのある家の設計が出来上がりました。ここまではうまくいってたのですが、苦労するのはここからでした。そう、予算オーバーという試練が襲いかかってきたのです。

2020年12月31日 ここまで
今年も今日で終わりです。明日からは2021年という、なんか不思議な日です。

2021年1月2日 ここから
まだ、2021年と書くことにまだ慣れないお正月。世界中が大混乱を起こした昨年でしたが、そこに見え隠れするチャンスを掴むべく、今年はより一層チャレンジブルな一年にしようと思います。

210102...予算調整は磨きの作業

いいプランが纏まり、お客さまの了解も得れたので、見積もりを取り始めます。オープンシステムでは、全てのことをお客様にも見えるようにしていますので、見積もりの依頼先もどこに何を依頼したか分かるようになっています。

例えば、電気工事をA社・B社・C社と3社に依頼する場合、それぞれの会社がどんな会社で、それぞれがいくらで見積してくれたかなど、お客さまが見て判断できるようになっています。オープンという名前にはそんな意味が含まれているのです。

見積もり比較表

塗装工事の見積もり比較表です。同じ塗装工事ですが、少しずつ見積額が違います。ここでは数万円の違いですが、数十万円違うこともあります。数十万円違えば、全体予算にかなり影響を与えることになりますので、なぜそんなに違うのかを調査し、再見積もりいただくこともありました。

こういった作業を繰り返し、全体工事費を算出していきます。そして、最終的に合計金額が出るのですが、こちらのお宅では予算を500万円ほどオーバー。500万円とはなかなかの金額です。正直ビビりました、どうしたらいいのかと。

私が、オープンシステムはもとより、住宅設計が初めてのことであることを承知してくれていたお客さまでしたから、この結果にも理解いただき本当に有り難かった。オープンの先輩方にアドバイス頂けたのも助かりました。

取り掛かった減額作業ですが、200万円くらいは比較的簡単にちょっとした変更で調整できました。残り300万円は仕様を変えるくらいでは追いつきません。残る方法としては、全項目を見直し、思い切った計画変更が必要になります。

当然それをお客様と共に考えていくのですが、ここまで膨らんできたプランを見直していくのは、非常に心苦しく、お客さまの夢を削ぎ落としているようで辛かったです。自分の力不足を痛感する経験でした。

それでも、あと100万円くらいまでと来たときに、「ここまで絞ってきたことで自分の家の内容がよくわかりました。」「他は実現させたい内容なので100万円はなんとかします。」とお客さま。

まさにオープンであったがため、「自分自身でその判断を下すことができた」とのちにお聞きしました。ということで、発注額が決定できたので、いよいよ工事発注に向けた準備に移っていきます。

この初めての案件で、予算調整(減額作業)の辛さを味わったわけですが、このあとに続く、ほかの住宅計画においても予算オーバーはほぼ毎回でした。理由は簡単で、お客さまと一緒に楽しく計画を進める中で、お客さまも夢いっぱい、僕も楽しいしより良いものをという欲があります。

それら二つが合わされば、結果的に予算をオーバーすることはほぼ必須です。それが分かってからは、最初にお客さまへそのことをお伝えし、ある程度計画の段階でセーブしていくこと、それと「仮に予算をオーバーしたとしても焦らないことが大事」ということを伝えるようにしています。

僕は何度もその経験をし、その問題を解決してきていること。その段階を踏むことでより一層いい家になること、だから慌てず一緒に考えましょうと。これはのちの設計契約時に必ず話す「減額作業は磨きの作業です」というセリフに繋がってきました。

とはいうものの、やっぱり最初から予算ぴったりの方がいいのは間違いありませんけど笑。

2021年1月2日 ここまで
試練を繰り返すことで作業は慣れ楽になる、ただこの慣れには危険があることを忘れてはいけない。慣れるのは精神的ストレスに対してだけで、行動自体は進化していかなくてはいけないようです。この減額作業は、建築人として進化するための1000本ノックだったように思います。

2021年1月7日ここから
緊急事態宣言は発出されそうなコロナ禍の朝、比較的暖かなな朝を迎えています。

210107...合同工事請負契約会の開催

発注金額が決まったので、その内容に合わせた工事請負契約会を関係者みんな集まって合同で開催します。その数15社、仮設工事に始まり衛生器具の納材まで、分離で発注する業者さんに集まっていただきました。

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そこで、お客さまと業者さん達との顔合わせ。一社一社と契約内容を確認しながら、契約書へのサインと押印を進めていきます。この契約会に至る前の見積もり期間を振り返ると、少しほっとするのは毎回のことです。

写真はうちの事務所で開催した時の様子、場合によっては地域の公民館を借りたりしながら、みんなが集まりやすい環境を準備していきます。

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契約会の後でこんな風に宴会を催すこともありました。お客さまと、一緒に家づくりしていく業者さん達と楽しい夜を過ごします。

いよいよ現場では工事着工になります。まずは、基礎工事ということで、現場で建物の配置を確認するための地縄張り(ジナワハリ)を実施。

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工事中から水道を使うことになるので、事前に仮設水道を引き込んでおきます。このあたりの手配は給排水設備の業者さんがやってくれます。

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そして、地縄張り。設計に基づいて現地に建物の配置を再現し、近隣との関係性をお客さまにも確認してもらいます。法的にも隣地との間隔は大事になてくるので、しっかり確認しておくべきところです。

市街地での計画では、ここを間違ってしまうと屋根が隣の敷地へ飛び出してるなんてこともおこっちゃいます。よく起こりがちなのが、斜線制限と呼ばれる基準線を建物が超えてしまうケースです。

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よく目にすることあると思います、マンションなどで建物が斜めに削られたようなもの。あれが斜線制限をクリアするために計画された建物なのです。この制限をギリギリ狙っていくと、たまにこのラインを超えてしまうということが起こってしまいます。それを未然に防ぐために、地縄張りで設計通りか、設計と現地とで食い違いながいかなどを見ていくのです。

2021年1月7日ここまで
工事が始まりました。ここから数ヶ月間の工事を経て建物の完成を迎えます。すべては書ききれませんが、その流れが分かるように紹介していきます。

2021年2月2日ここから
あっという間に1月が過ぎてしまいました。昨日2月1日は起業してから21年目の日でした。facebookが教えてくれなければ気付かないくらいの日常、20周年の去年は、コロナ禍でスッポリ抜けたような感覚もあります。でも、Rebornをスタートさせ多くの繋がりができた年。2021年はもっともっと飛躍の年にしていこうと思います。

210202...基礎工事の前に地盤改良

地縄張りで建物配置を確認し、いよいよ本格的な工事に入っていきます。まずは、基礎工事なのですが、地盤の地耐力が低い場合は、ここで地盤改良工事をやります。

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地盤調査はこんな機械を使って測定調査します。スウェーデン式サウンディング試験と呼ばれる調査方法です。

この調査を経て、地盤が建物に対して抵抗できる力を測定し、建物の力(重さですね)に耐えることができるかを測定していきます。これは、設計の段階での調査なので、その結果をもとに地盤改良(補強)が必要かどうかを判断して、必要な場合は基礎工事の前に実施します。

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↑が地盤改良したところ。こちらは柱状改良という方法で、地中に穴(柱状)を掘ってその中にセメントミルク(セメントの配合されたもの|固まります)を注入して、硬い地盤に建物の重さを直接伝える方法です。他にもいろいろ種類あるのですが、その地盤条件にあった工法を選択していきます。

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こちらは番外編、文化財の試掘調査です。各自治体には、この辺りの地域には文化財となるようなものが、埋まっているかもという地域が指定してあります。その地域内で工事する場合は、穴を掘る(基礎工事や地盤改良工事)の前に、試掘調査が行われます。自治体の文化財課の方が現地に来て、実際に穴を掘り、文化財の存在を確認されていきます。

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このご婦人方は、この試掘調査に一緒に来られる文化財ハンター。見た目は普通のおばちゃんたちなのですが、知識は半端ないです。「あぁ、大体明治期から江戸末期の茶碗のかけらだね」とか言いながら、いろんなものを掘り出していかれました。

2021年2月2日ここまで
地盤改良工事、文化財の試掘調査、基礎工事の前にもこんなことをやてますよという内容でした。次回は本格的な基礎工事へ移っていきます。

2022月2月14日ここから
気付けば一年以上ほったらかしでした。前回からの続き再開しますので、またお付き合いお願いいたします。

220214|基礎工事が始まりました

大きな石が出現

誰も知らなかった大きな石が出土。基礎を作るのに邪魔なので撤去してもらっています。クレーンで吊るもワイヤーが滑って大変でした。

桧の木の根っこ

植栽については、基本的に既存のものを残し、建て替えた後にも眺めて楽しめるように配置したのですが、どうしても建物に当たってしまうものは撤去してもらいました。根っこまで撤去していただく「抜根(ばっこん)」というものです。すごく根が張っていて、こちらも大変な作業。工務店さん雨の中ほんとお疲れ様でした。

縄張り
寸法確認

縄張りで建物位置を確認します。隣地からの建物の離れが、設計通りかどうかの確認です。この敷地は広いのであまり心配ないのですが、狭小地での計画の場合、ここを間違うと最悪できた建物を壊さなくちゃいけなくなります。

防湿シートと均しコンクリート

基礎形状に合わせて、土を掘る(根切り)の後、砕石を敷き込みしっかり転圧を加え、写真にある防湿シートを敷き込んで、均しコンクリートを打設します。大体、この段階で綺麗なところは、それ以降も綺麗なでいきますね。

墨出し

均しコンクリートの上に、黒い線がありますが、これがいわゆる「すみ」と呼ばれる基準線になります。写真左側が構造体の中心線(通り芯)で、右側が基礎の外側の線です。金具は型枠を固定するためのものです。

鉄筋のセット

先のスミを基準に、鉄筋が配置されています。ここら徐々に基礎らしくなっていきますよ。

配管もセット

この配筋の段階で、上下水道の配管や、電気設備の配管も挿入されていきます。

配筋検査

鉄筋が組み上がると、配筋検査を実施して、設計通りにできているかを確認していきます。

D13の刻印

確認する場所はいっぱいあるのですが、一つづつ見ていきながら、間違いなどあればその都度指摘していき、改善していただきます。まぁ、ほとんどないのですが。

型枠が外れました

基礎工事の完了です。型枠が外れて、綺麗に内部も掃除されています。

出来型検査
点検口への断熱蓋

基礎が出来上がると、この段階でも検査します。ここで間違いがあれば、一旦コンクリートを壊して作り替えになっちゃうので、大変ですよね。そうならないために、現場では管理者が日々設計通りかの品質管理をし、監理者はそれが設計通りかの検査を実施する。同じ「かんり」ですが、やる内容には違いがあるのです。

2020年2月14日ここまで
ということで、基礎工事まで終わりました。次回以降はいよいよ木工事から一気に仕上げ・完成まで行こうと思います。



以降はまだ書き書きかけ。Rebornにたどり着くのは随分先かも・・・

Reborn(まだ名前とかは考えていない)を考え始めたのは、今から10年くらい前だろうか。住宅専門の設計事務所として独立し、依頼者たちの暮らしを想像しながら「こんな暮らし方、楽しいのではないでしょうか」と提案し続けていた時だった。多くの住宅を手掛ける設計事務所がそうであるように、創る建物には相当な思い入れを持って取り組んでいた。

未編集記事...通勤や車での移動中に見かける解体の現場

車の運転をしながら走っていると、住宅が壊されている現場をよく見かける。築年数でいえば40年〜50年とかのものが多いようだ。そんな住宅が簡単に壊されている姿を目の当たりにするとなんだか悲しくなる。簡単にというのは、解体に至るまでの経緯も含め、重機で一気にグシャっとやられていると、建物が悲鳴を上げているように感じるのだ。

未編集記事...解体される家ってどんな家?

築50年といえば、ボクと同じ年で1970年生まれ、高度成長真っ只中に作られたもの。各家庭にカラーテレビが普及していき、日本中に”マイホーム”が広がっていった時代である。住宅金融公庫(現:住宅金融支援機構)が誕生して20年、いわゆる庶民が住宅ローンを組んで家を建てるのが普通になった時代である。公団住宅の○LDKという間取りの指数が広がり、4LDK(4つの個室とリビング・ダイニング・キッチン)というのが戸建て住宅の主流になっていた。家族4人で、主寝室が1つ、子供部屋が2つ、そして接客用の和室とか応接間の構成になっている。広さは30坪前後だろうか。

未編集記事...親が建てて子供が壊す

シチュエーションはこんな感じだと思う。親が80歳くらい(当時30歳で家を建てる)で子供が50歳、すでに実家を出てよそに自宅を建て所有し家族4人で暮らしている。この場合、実家へ戻ることがないため、築50年の実家は処分されることになる。相続ということもあり、土地とセットで売るしかない。立地がよければ駐車場として活用するパターンもあるかもしれない。何れにしても、親が家を建ててそれを子供が壊すことになる。


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