見出し画像

大きな目標を設定するということ

中高少し特殊な環境にいた私は、教師の方々や学校にしばしば話しに来る方々から、大きな目標を設定することの重要性を説かれたことがある。無論当時は、その重要性がありありとしたかたちで私に感じられたわけではない。それどころか思春期の懐疑主義=懐疑趣味にとって、それは疑いの格好の対象だった。しかし最近、一つの望んでいた目標を達成して、私はそれの真意をつかみかけているような気がする。

というのも、私が最近達成した目標は、そこそこ私にとって大きな目標であったと同時に、いざそれを達成してみると、それを追い求めていたときの高揚感や緊張感はおろか、達成の喜びすらあまり感じられないのだ。達成したことを明言するのは控えるが、それは受験合格後の燃え尽き症候群とは少し事情が違うのである。なぜなら、受験合格後にはそこを卒業するという一種の残尿的目標が地続きに与えられているのに対して、私の場合にはその残尿的目標がまるでないのだ。ただ残尿の気味悪さがない分、そこには虚しさがある。

かくして今の私は、虚しさのみに入り浸るほかない。そこで思い出されるのは、これまで聞いてきた大きな目標を設定することの重要性である。やはりこれは一定の真理を持つのだろうと、今になって思う。いったん達成した目標がそう長く喜びをもたらさず、倦みとともに虚しさをもたらすものであるなら、そしてその虚しさに耐えがたくまた生き続けたいのなら、やはり新しい目標を設定してしまうほかないのだ。その意味で、大きな目標を設定することは、最終的にという相のもとで、ことさら重要に思われる。もちろん、まだ20そこらの私には、この重要性は多分に予見的に感じられている。

以上の事情から、以下を結語にしたいと思う。私には少なくとも以下の二つが大切に思われる。まず、この大きな目標を設定することの重要性は、個人にとって段階的に開示されるため、したがって、その重要性を説く際にも、段階があるということが伝えられて初めて納得されると同時に、やはり自分の身をもってその軌跡をたどってもらうほかないのだ。つまり、たとえ最終的な相において大きな目標を設定することが重要であっても、それは比較的小さな諸目標が達成されたときに感じられる倦みと虚しさが個人において経験されることが必要であり、その重要性を支える。説かれる側にとって、彼らに相当の経験がない限り、最後の結論だけでは大して内容を持たないのだ。このことはなおざりにされがちであると思う。もちろん大きな目標を設定することの重要性を説かれた際その過程を考えるべきと言われたこともある気はするが、おそらくそれは少なくとも大きな目標を設定することの重要性を説くうえではあまり有用ではなく、重要性をありありとしたかたちで開示するのはいくつかの目標を達成した後の倦みと虚しさの経験だと思う。それが欠如している以上、やはりその重要性はどうしても伝えがたいものであるし、伝えられることの最大は、この重要性は段階を追って開示されてくるということだと思う。一方、これはさして重要ではないが、目標を設定すると言っても、やはりそれは完全に能動的になしえないであろうということ。誤解を恐れずに言えば、やはり目標は開示されてくる側面があると思う。それは決して能動的な所産ではなく、かといって完全に受動的ではないのだ。気づいたときにはそこに向かっているという事実のみが、最も確かにあるように感じられる。つまり、設定するとも設定されるとも言い切れず、ただ目標とそれに向かう自分があるということが重要であると思われる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?