サスペンスとミステリー
「レストランの時限爆弾」という例え話があるようです。
レストランで食事をしている男性二人がいて、そのテーブルの下には時限爆弾が仕掛けられている。
突然爆発したらミステリーとなる。
爆発する前に、爆弾の存在を読者が知るとサスペンスとなる。
映画や作品のジャンル分けの話です。
僕の解釈なので、具体的には諸説あるし色々考えられると思います。
「レストランで男性二人が食事している」シーンから始まり、片方の男性が床にフォークを落としてしまう。拾おうと身を屈めたら、テーブルの下の時限爆弾が目に入る。
「なぜこんなところに爆弾が?!」と、ミステリーが始まる。
もしくは、「レストランで男性二人が食事をしている」シーンから始まり、すると画面はテーブルの下へと動いていき、時限爆弾が映される。その瞬間からサスペンスが始まる。
大元の例えは、サスペンス映画の神様と呼ばれているアルフレッド・ヒッチコック監督が語ったエピソードによる物らしいです。何度か同じ話を、違う内容で聞いたことがあります。
「ミステリーとサスペンスの明確な違いを説明する例え」と言われているのですが、話す人によって、内容が違いすぎるので……、やはりミステリーとサスペンスの違いを簡単に説明することは、困難なのかもしれません。
サスペンス映画が好きです。
「映画で一番好きなジャンルは?」と聞かれたら、即答です。サスペンスと答えます。
『羊たちの沈黙』『セブン』『ファイト・クラブ』『アメリカン・ビューティー』など。メジャーな物ばかりですが、どれも好きな作品です。
小学生の頃に、TSUTAYAが旧作一本百円セールをやっていて、古い映画を観ることにハマっている時期がありました。
元々、映画はよく見させられていました。見ていた、というよりは、見させられていた。というのが正しいです。
一番古い(というよりも、鮮明な)映画に関する記憶は、雨が降る休みの日、毎度のように父が『エイリアン2』のビデオを借りてきて、一緒に、見させられていたことです。
父は『エイリアン2』が大好きらしく、恐らく父がまだ学生時代に公開された映画のようで、まだ当時は映画館が入れ替え制ではなく、通しで見れる(今も、目黒シネマやキネカ大森などと言ったミニシアターはそのようなシステムだと思います)ので、朝一にチケットを買って、夜まで三、四回連続で見ていたとか。
それも、何度も劇場に足を運んでいたとのことなので、すでに父は学生時代に『エイリアン2』を何十回も見ていたのでしょう。そして、大人になってからも、ビデオで何度も繰り返し見るくらいなので、相当好きなのだと思います。
僕も、人生で五十回は確実に見た映画があります。
『世界でいちばん不運で幸せな私』というフランス映画です。ジャンルはラブコメ。サスペンスではありません。
映画評論サイトや口コミサイトでは、酷評されまくっている映画です。何が好きかというと、「耽美な恋愛」がロマンチックなところです。「耽美な恋愛」といっても、性描写が濃いというわけでもなく、恋愛要素が強いわけでもないのです。なのに、コミカルな作風で愛を描いているのが、好きです。その愛は捻じ曲がっているのですが、捻じ曲がっているからこそ、逆に実直。という、裏腹なコンセプトです。
日本で言えば、アニメや青春物でよくあるセリフの、「あんたなんて大っ嫌い!」みたいな。それのフランス版(なのか、フランス文化をあまり知りませんが、多分フランス版)です。とにかくその実直すぎて捻じ曲がっているという心情描写の連続は、僕の正義感や、倫理観に相当な影響を与えたと思います。僕の愛情表現やロマンスを形作ったとも思います。おかげで恋愛面は相当痛手を負ってきました。
一時期は、毎日二回か三回は見ていました。大人になってからも何度も見ているので、やはり五十は優に超えています。僕の大好きな作品で、僕に一番影響を与えた作品です。
日本では、それが酷評されています。アンモラル的な展開ばかりで、それが受け入れられない、とのことです。僕は割と、人前でも、日常的にも「愛してる」と言うし、キスをしたり、歌ったり踊ったりするのが日常なのですが、そうでもない人が大半だったりするのだと思います。
父は『エイリアン2』に最も影響を受けたのかもしれません。僕は『世界でいちばん不運で幸せな私』に最も影響を受けて、この価値観や世界観になりました。父は、なにでどうなったのでしょうか。ただ肝心なことに、『エイリアン2』をあれほど何度も見せられた割に、内容を覚えてないのです。
とにかく苦痛な時間だったので、記憶から消されているのかもしれません。人間は短期的に過度なストレスが急激にかかると、記憶が飛ぶと言われています。僕は寝ていたわけでもないし、ちゃんと初めから最後まで何度も見ていたはずなのに、ほとんどのシーンを忘れています。
覚えているのは、テーブルに広げて置いた手の指のあいだを、フォークかナイフで刺しまくる(実際に見てもらった方がわかりやすいです)アンドロイドの描写。小さな子どもが隠れている描写(たしか)。アンドロイドが真っ二つにされて白い泡を吹く描写(これも、たしか)。リプリー(たしか主人公の名前)がロボットに乗ってマザー・エイリアンと戦う描写(たしか)。など。断片的に、衝撃的だったところだけ覚えています。
なので、『エイリアン2』が、父にどのような影響を与えて、父という人間性が形作られたのかはわかりません。ただ、真っ二つにされたことはないし、ロボットに乗ったりしているのを目撃したことはないので、内面的な変化が何かしらあって、いまの父なのだと思います。指のあいだをナイフで刺されるのは、小さい頃によくされていました。これが唯一の手掛かりです。
「サスペンス映画」と調べると、『エイリアン』が出てきます。多数あるサスペンス映画の一つとして、『エイリアン』も含まれるとのことです。
僕は小さい頃から不眠症で、大人になってから判明したことなのですが、思い返すと、寝付けずに布団の中で目を閉じてこらえていたことや、逆に疲れすぎて(そんな寝れない日々を送っていたからか)気絶するように寝てしまっては、二時や三時に目を覚まして、テレビを見ていたりして過ごしていました。
原因は、悪夢と恐怖です。あとは、無関心だと思います。
早期覚醒も精神的な理由による不眠症状のひとつらしく、また悪夢や不安や恐怖感も、同じく、らしいです。大人になってから、厳密には、実家を離れてから、自身が不眠症であることを知りました。それまでは、誰に相談したこともなかったし、そんなようなものなのだと思って暮らしてきたし、夜勤ばかりだったり、不規則な生活を送ってきたり……。
寝ないことが、なんとなく、正義だと思ってもいたのだと思います。寝ずに何かに取り組むことが、正義だと、なんとなく考えて、何日も寝ないことを日々の目標として実家ではずっと暮らしておりました。
それらが原因か、いまも睡眠サイクルは狂っていて、クタクタになるまで入眠するができず、睡眠薬なしでは、まともに寝ることができません。
そして悪夢や恐怖感の原因が、サスペンス映画なのだということを、最近になって知りました。
だから、もしかしたら、小さい頃から寝れなかったのは、『エイリアン2』が、原因なのかも、しれません。
ほかにも、どでかくて賢い鮫が暴れる映画だったり、ホラー映画だったり、そんな物ばかり見せられては、やはり毎日怯えて暮らしておりました。プールや海がとにかく怖かったのを覚えています。水の中から、鮫が……。と怯えながら、プールの授業は泳いでおりました。おかげで、水泳なんて習っていないのに、水泳大会の選抜に選ばれたことがあります。人間は瞬間的なストレスをあえて感じることで、超人的な能力を発揮することができるそうです。いわゆる、「火事場の馬鹿力」というものですね。僕は、水の中で、「火事場の馬鹿力」を発揮していたのかもしれません。
だから、サスペンス映画でも、見れるサスペンス映画はほとんどありません。上記に挙げた『羊たちの沈黙』や『セブン』でも、怖くなって悪夢を見るか、寝れなくなって、次の日は仕事を休む。そんなことを繰り返しております。
『羊たちの沈黙』も、人生で何十回も見ました。つまり、何十回も、ずる休みをした、という計算になります。
ほかに、見た中で印象的だったサスペンス映画は、『ユージュアル・サスペクツ』です。
これも、父のおすすめで、TSUTAYAの旧作百円セールの時に、見させられた作品です。
物語の構成や、ミスリードなどがとても秀逸な作品だと、大人になってから見て感じました。
小さな頃は、そんなことを考えないので、退屈な映画だなあ、としか感じなかったです。
父には、「この話のオチは絶対にわからない」と見る前に言われたのを覚えてます。僕は、それをうっかり見破ってしまったのです。もちろん父には、見終えた後に「わからなかった、驚いた」と答えました。
今思えば自分でも驚きですが、実は割と、ミステリー作品の犯人を当てるのが得意だったり、します。謎を追って新たな真実に迫っていくタイプのミステリーは、もちろんのようにわかりません。ただ、「この中に犯人がいる」系は、よく当てます。推理が得意なわけでもないし、何かの伏線に気付くわけでもないです。ただ、「いちばんあり得なさそうなこと」を何個か考えていると、それの一つ当たってる、という、ただの、臆病者の考え方です。
妻とはよく一緒に映画を見ます。特に妻はミステリー映画が好きです。そしてミステリー映画を見ながら、僕が予想したオチをいくつか話して、時に当たるのですが、外れた時には、「あなたの考えたトリックの方が面白い」と言われることもあれば、「あなたの考えるオチは救いようがなさすぎる」と言われることもあります。ちなみに妻は、ほとんど百発百中で犯人や真実を当てます。もちろんのように『ユージュアル・サスペクツ』のオチも当てたし、ミステリー映画に限らず、どんでん返し系の映画のオチも、しょっちゅう当てます。
当ててしまうからこそ、それを上回る展開の物を期待しているのかもしれません。でも、なかなかそのような作品には、巡り会えないようです。
最近、脚本術の本を読んでます。
ハリウッドで、映画の脚本を書いて評価されるには。どのような技術が必要か、どのような考え方が大切か、と言った本です。
僕は別に、脚本家になりたいわけではありません。むしろ、なりたくない仕事です。
脚本家の人を下に見ているわけでもないし、尊敬しております。もし僕がいつか何かしらのご縁とかで脚本を書かせていただけることができたのなら、喜んで書きたいとも思ってます。実は、書きたい脚本のアイデアも何個か蓄えていたりも、します。でも、個人的な感情で、進んで脚本家になろうとは、思わず、だから、お笑い芸人だったり、小説を書くというような、似ていて異なる道を志したりしているのかもしれません。
脚本術の本にも、アルフレッド・ヒッチコック監督の言葉や教えや技術や引用が多数取り上げられています。もちろん「レストランの時限爆弾」も、記載されてました。
アルフレッド・ヒッチコック監督の映画は『サイコ』だけしか見たことがないです。しかも、見たのは最近です。見ていて、結末はわかっていました。それも、臆病者の考え方が導き出した答えです。
でも、結末は予測できていても、怖いものは怖くて、見てからだいぶ経った今でも、『サイコ』のような恐怖が自分の身にも降り注ぐのではないかと、深夜に目を覚まします。
目を覚ますし、覚ましてから、トイレに行こうか、喉が渇いたからなにか飲み物でも口にしようか、迷うのですが、もしそこで恐怖と遭遇してしまったら、恐ろしいことになってしまったら、と考えたりして、ベッドからなかなか動けなかったりしています。
アルフレッド・ヒッチコック監督の映画は、だから今まで見なかったし、見たら案の定わかっていた結果になってしまったし、見たくても、今後は見れないかと思います。
「日本 おすすめ サスペンス映画」と調べると、松竹シネマのサイトにて、ミステリーとサスペンスの違いが説明されておりました。
日本では、その違いがあまり明確ではないのかもしれません。だからこそ、わざわざそのように説明してから、サスペンス映画を紹介する必要があるのかもしれません。
ついでに思ったことは、「日本でサスペンス映画」というと、「なにがあるかなあ」ということです。
サスペンス・ミステリーというジャンルは日本でよくありますが、『羊たちの沈黙』というような、サスペンス・スリラー(厳密には、ホラーのジャンルにも含まれるとのことですが)や、それこそ、『サイコ』というような、これぞサスペンス! という映画は、あんまりピンとくるものがない印象です。僕が邦画をあまり見ないからかもしれませんが、日本のサスペンスというと、イコール、ホラーになる印象があります。
ただ、『サイコ』も、ミステリー要素やホラー要素が強い映画だし、そんなことを言うなら、『羊たちの沈黙』も然り。あとは、ポン・ジュノ監督の映画は大好きですべて見たのですが、どれも、サスペンス映画というよりは、サスペンスでもあり、ミステリーでもあり、ホラーでもあり、コメディでもあり、というように、やはり、サスペンスというジャンル単体の映画は、世界的に見ても、ないのかもしれません。
そんなことを常々思っていたりするのですが、脚本術の本を読んでいて、その中に興味深くて、納得できる話が書かれておりました。
まず「どの映画も、ミステリーであること」。
そして、「どの物語にも、サスペンスは必要だということ」です。
「どの映画も、ミステリーであること」というのは、プロット(物語における、骨組みのようなもの)の構成からの話になってしまってややこしいのですが、簡単に言えば、どんな物語にも、コンセプトというものがあります。
コンセプトは、テーマやアイデアとは異なる要素です。似ているけれど、ここを誤解した作品は、大体アイデアだけで薄っぺらいか、テーマが主張されすぎていて、説教臭かったり、登場人物の台詞が説明口調になってしまったりする。など。原理を説明しないと、全然わけのわからない理屈になるのですが、意外と『作品作り』は、薬品と薬品を混ぜ合わせていったり、部品で組み立てる機械のような側面が強いのだなと思います。
ちなみに、「主人公が運よく助かる」「敵を偶然のように倒す」「奇跡的に事件が解決する」と言った物語を「デウス・エクス・マキナ」と呼ぶらしいです。ハリウッド用語だったと思います(たしか)。
ラテン語で、「機械の神」という意味です。
「あからさまに神が仕組んだように、物語は解決されること」を表現した言葉とのことで、日本のミステリー作品にはこれが多いなという印象です。何かというと、犯人が「憶測の」推理で、そこそこに犯人を追い詰めたら、犯人が「まだ逃げれる」のに、「望んだ通り」自白する。という演出です。日本に限らず、不出来なミステリー作品は大体この演出だと思います。理由は、やはり、「作るのが簡単だから」だと思います。
脚本術の本には、「語るな、見せろ」とも書いております。登場人物が「語ってしまう」と、とてもチープになってしまうらしいです。語らずに、見せる。よくできた作品は、真実が語られないのに、なんでか、脳裏に焼き付くような演出をされています。もしかしたら、『エイリアン2』も、そうなのかもしれません。もう二度と見ることはないので(怖いから)、知ることはできませんが、名作と言われる所以はそこにあるのかもしれません。
もちろん、要所要所では、登場人物や主人公が、ヒントであったり、答えであったりを口にするのですが、陳腐なミステリーのように、ペラペラとまとめて語られるようなことはなく、それこそ、主人公が、謎の真実に迫っていくのを、実体験しているように、見せられます。
『羊たちの沈黙』でも、主人公のクラリスが、捜査の助っ人であるレクター博士とのやりとりや、犯人の視点に立った捜査から、真実に迫っていく演出は、ほとんど「語られる」ことはありません。でも、クラリスが気付いたときに、見る側も、自然と気付く。という作りになっているのです。
それが、ミステリーとサスペンスの原理だと、脚本術の本には書かれてました。
つまり、答えには必ず、問いがある。その問いとは、コンセプトを指します。
コンセプトとは、英語で「what if?」。日本語で、「もし〜なら?」と訳されます。
「もし、人は目で何かを追っているのなら?」→「視線の先に、望むものがある」。
物語とは、このような、問いかけと、答えの羅列で構成されている、とのことです。
そして、大きなメインコンセプトがあり、それが、最後の結末(物語の答え)に繋がる。そのあいだに、シーンごとのサブコンセプトがたくさんあっては、シーンの終わりに必ず答えが提示され、次のコンセプトに繋がっていく。面白い物語とは、そのように作られている。
だから、ミステリーに限らず、物語とは、必ず「コンセプトと答え」が用意された「ミステリー作品」としての要素を兼ね備えている(むしろ、ミステリーの要素がない物語は、見る人を惹きつけないから魅力的ではない)とのことです。
しかし、ミステリーだけでは、見るものは退屈してしまうのです。
「視聴者の集中力は、大体一時間が限界だ」これも、アルフレッド・ヒッチコック監督の言葉とのことです。
たしかに、メインのコンセプトが提示されてから、二時間ものあいだ(長ければ三時間)答えをお預けにされるわけなので、いくら面白くて興味深いミステリーであっても、見る者は「早く答えを教えてくれ!」となってしまう。
それを、待たせるのが、サスペンスだと、アルフレッド・ヒッチコック監督は語っています。
「クイズ・ミリオネア」という番組が昔ありました。みのもんたさんが司会で、一般人からタレントさんまで色んな人が出てきて、十問のクイズに正解したら大金を貰えるという夢のような番組です。
特に、一般の人が出てくると、必ずと言っていいほど、「夢」が語られます。「もし、大金を手にしたら、こうしたい」と。
そしてクイズに挑戦するのです。そして、金額が上がっていくごとに、もちろんのように問題は難しくなり、そして緊張感は増していきます。
そしてその緊張感、緊迫感の山場は「ファイナルアンサー?」という問いかけにより、最高潮に達するのです。
クイズは四択です。そして挑戦者が、難問の答えを四つの中から決めると、みのもんたさんは「ファイナルアンサー?」と問いかけます。最後の質問です。もうそれに、答えてしまうと(答えを決めてしまうと)後戻りできません。でも、迷った挙句、額や顎に汗を垂らしながら、挑戦者は、「はい、ファイナルアンサーです」と答えるのです。
すると、デレデン、デレデレデレデレデレと、音楽が流れます(たしか、もしかしたら、流れなかったかもしれません)。そして、みのもんたさんの顔と、挑戦者の顔が、段々とアップしていき、そこで、大体CM。
CM終わりに、また、「ファイナルアンサー?」「はい」デレデン、デレデレデレデレデレ、と音楽が流れ(たしか)、最大限に引っ張った結果、「答え」がわかる。
「答え」とは、クイズの答えでもあるし、その挑戦者がどうなったか(正解か不正解か、夢が叶ったか、叶わなかったか)の答えもわかる。
視聴者も、挑戦者とまったく同じ気持ちになって、「答え」を待ち、そして「答え」を知るのです。もちろん、クイズの答えを知っている人は、その緊張感は薄れているかもしれませんし、その挑戦者に共感していなければ(番組を楽しんでいなければ)、どうでもいい答えだったりするかもしれません。
でも、視聴者は、なんだかんだ言いながら、「さっさと出してほしい「答え」」を、待ち侘びてしまうのです。
『むらさき色のスカートの女』という小説が大好きです。大好きといっても何度か読んだだけですが。今村夏子さんが書かれている小説です。そもそもあまり小説は読まないのですが(小説家を目指しているのに)、今村夏子さんが小説家の中では特に好きで、そしてその中でも、『むらさき色のスカートの女』がいちばんお気に入りです。
ざっとまとめたら、それほどの内容でもなく、TikTokでも、「何も起きないのに面白い」と話題にもなったとのことです。
僕の感想ではありますが、「何も起きない」わけではありません。むしろ、登場人物の心の中では、さまざまなことが起きまくります。でも、日常はまるで、何も起きていないように描かれています。
そして、その日常の、心境が、まるっきり、謎ばかりなのです。
海外では、「この作品が、ミステリー小説として紹介された」と文庫本の解説には記載されています。「なにがミステリーなのか」については、解釈次第で、その解釈を読んだりすると、腑に落ちたり、落ちなかったり、そもそも解釈するということ自体も、なんだか腑に落ちないです。
でも、なによりのこの作品をミステリーたらしめているのは、その作品性にあるのだと思います。
人間は、常々、疑問を持ち、そして何か問いかけを感じ、答えを求める。つまり、ミステリーの最中に生きているのです。
そして、自覚なく、緊張や緊迫のアンバランスで、アンビバレンスなサスペンスの中にも生きています。
謎がない人間なんていないからこそ、常に謎に囲まれて生きているのです。僕にとっては、父すらも、謎であるし、おそらく小さい頃から不眠症だった僕のことを、父はまるっきり理解できていないとも思います。そもそも僕の不眠症を知らないとも、思います。
そして、そんな不眠症を抱えながら二十何年間なんだかんだ生きてきてしまっていて、わかっていても、怖いものを見てしまって、怖いものが好きなのに、怖いものを見れない。そして夜は怖くなる。そんなサスペンスの中に、人間は生きているのでしょう。
『むらさきのスカートの女』は、なぜか、「どうなるの?」という気持ちで毎回ページを進めてしまいます。妻は読んでから「なんてことない話だった」と、一言。でも、なんだかんだで、一時間足らずで読んでいました。僕も元々読書が著しく下手で苦手なのですが、この本は二時間足らずでさっと読めてしまいます。
文体や作風に、それが表れている、というとまた、面白くない解釈が始まってしまいます。
だから、そのサスペンスは、サスペンスとして、そのままで、味わうのが、いちばん面白いのかもしれません。
実は今日もあまり、寝れなくて、そして色々なことが手につかないです。手につかず、こんな雑多なことを雑多なまま、書き残しています。
寝れなかった理由は、わかりません。ただ、何度も目を覚ました時の、恐怖は覚えています。そしてこんなに何事も手につかなければ、どうなってしまうのか、それは、謎であるし、わかっている「答え」でもあるし、目の前にはあって、いいや、目の前にある「答え」だけでないものが、刻一刻とその時を待ち望む、時限爆弾が、そこにはあるのかもしれません。
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