くちびるがしょっぱい④ アレテー

美しくありたいです。
正直、まだ自分のジェンダーがはっきりしておりません。女性が好きです。でも、男性も憧れるし、惹かれます。
いま少しゆっくりした時間を過ごせているので、いずれ自身のジェンダーをちゃんとした機関で調べてみようかと思っております。
おそらくではありますが、少し複雑な何かがあることはわかっております。
親にも友人にも、話したことはありません。妻は知っております。そして数多くの人の中から、僕は妻という女性を選びました。理由はたくさんだし、しっかりとした一つの理由もあります。
何より、この人と家族を築きあげたかったから。だから、結婚しました。

「ふむふむ」してる人は、美しくない人が多いです。
「ふむふむ」してるなあ。
「ふむふむ」してそうだなあ。
「ふむふむ」を意識して日々を送ってみると、「あ、この人、ふむ率が高い」というのをすぐに見分けられるようになってきます。
妻と外出しているとき、よくやるゲームです。
「ふむ当てクイズ」。おすすめです。

人生で、惹かれた男性もいて、でもわりかし女性に惹かれた割合が多いです。それは、おそらく、その「ふむふむ」が、関わっているのだと思います。
少し偏見に近いです。でも、「孕ませたい願望」が強い人ほど、やっぱり、美しくありません。女性でも、「孕ませたい願望」に類するような、強い欲求がある人は、美しく感じません。それは見た目ではなく、やはり、「ふむ感」です。

直接的な表現にはなってしまうのですが、「子宮」が誰しも備わっているのなら、そこに押し込んでくる、流し込んでくる、交わろうとしてくる。
思想やら、欲求やら、甘えやら。
「乳首」は誰しもありますが、それに吸い付いてくる。
「いつまでママのおっぱい吸ってやがるんだ?」なんて、アメリカのドラマでよく出てくるセリフですが、まさに、その通りで、人に甘えてくる人が、極度に苦手です。

それは、「孕ませたい」願望の強い人。
暗い人。
「ふむふむ」してる人。
総じて、当てはまるのかな、とか。

『徳』はギリシア語で、アテレーと言うらしいです。
哲学用語で、「卓越性」「超越性」を指すのだと言います。
つまり、人徳とは、人として卓越しているか、超越しているか。
美徳なら、美しくあるか、美しくなっているか。
肝心なのは、時の流れは常にあること。人は老いて、廃れていくこと。
つまり常に、美は、時とともに卓越して、超越する。だから人も、時とともに卓越して、超越し続ける必要があるのだと思います。

最近、見た映画は、そもそもが作品としての出来が酷かったです。「作品」にも「徳」という価値基準があるのだとしたら、その作品に徳はありません。
「こんなんでいいっしょ」
「これでも売れるっしょ」
「矛盾しててもウケればいい」
「不出来でもみんな見るから」
もしかしたら、矛盾点も、出来の悪さすらも、考えていないのかもしれません。
売れればいい。ただそれだけの観点で作っているのかも、しれません。だから商業的な物に、作品性を求めるのは少し筋違いではありますが、でも、作品である以上は、やはり作品性という徳が問われてしまうものだと、思います。

僕はそんな、徳のない作品を、「純文学系作品」と捉えてます。
「純文学」と「エンタメ文学」の違いは、簡単に言うのは畏れ多いです。
ただ強いて言えば、ジェットコースターに乗るか、乗っている人を側から見るか。そんな違いなのかなと思ってます。

「純文学」はこの日本ではとても高尚な物で、いいや、日本に限らず、世界でも、文学性とはとても、高尚な物とされてます。
しかし、「純文学」に似た、「純文学」ではない作品が、偶然、様々な行き違いやら、奇跡やら、そして一部のずる賢さだけが取り柄の人たちの戦略により、爆発的にヒットしてしまう。
日本国内に留まらず、世界中で評価されてしまう。
「文学性」とは、曖昧だから。
曖昧だからこそ、その曖昧さを利用して、「矛盾していて」「不出来な」作品を世に出すことで、「わからない」ことを売りに、物を売る。
「わからない」ことが、まるで高尚なことのように。「わからない」が、すごい。と言わんばかりに。「文学性」という「美しさ」と同様、「面白さ」も、曖昧なもの。だからこそ、「面白い」かどうかなんて、「わからない」くらいがいい。「わからない」方が、「わからない」から、みんな「面白い」んだと思う。「わからない」ものこそ、「面白い」んだ。
そんな作品が大ヒットする。
そんなことが、毎年のように起きているのではないかなとも、思います。

それは何故か?
たぶんやっぱり、「孕ませたい」文化なのではないかと思います。
日本人は、「孕ませたい」という願望に、慣れきってしまっている(日本に限らずですが)。そしてその「孕ませたい」が、美化すらされて、世界で日本独自の「孕ませたい」は美しい。
「ハラマセタイ」文化とすら、なっているのではないか、なんてことも思ったりしてます。
たとえ駄作でも、むしろ、ダメな作品の方が、「矛盾していて」「不出来な」「わからない」わかるわけがない。(そもそも不完全だから)理解できるわけがない作品を、日本人は目の前にすると、「ああ受け入れてあげなければ」「これを認めてあげなければ」。
「だって評価されてるらしいし」「美しい、面白い、はずだ」「わたしもわかってあげなきゃ!」。そう考えてしまうのかと、思います。
一部の、暗くて、気持ち悪い、美しくも面白くもない人間の描いた「ハラマセタイ」を、日本人は、ご立派にも認めて、助けて、崇めすらする。それが日本の「美徳」にすらなってしまっている。
それは一種の文化となって、だから、「素晴らしい物」に、なってしまっている。

人前に出るべきではないような人や、暗い人、美しくない人。そんな人たちを、「受け入れてあげる」。そんな風潮が、気持ち悪いです。
でも、「不出来」な物を見ると、「不出来」な自分を、「「不出来」なままでもいいんだ」と思えるのかも、しれません。
「矛盾していて」も、「「矛盾していて」いいんだ」。そう思わせてくれる。

もちろん、どんな作品も、完璧はありません。人間も、完全なんて、あり得ないです。
でも、時の流れというものは、確実にあって、そして、作品と人間というものも、連立して、連鎖している。だから、双方には、必ずや「徳」が存在している。
「徳」がまた、「徳」を作る。
もはや、日本の「ハラマセタイ」は、「徳」を作らない『徳』として、『徳』を作り続けている。「わからない」ものは、むしろ分かりやすいくらい「わからない」ことで、「わからなくていい」。このままずっと自分は「矛盾していて」いい。し続けてていい。「不出来」なままでいい。いいやもっと、「矛盾していて」「不出来」な人間になろう。そんな『徳』を生み出し続けているのかもしれません。


頑張らなくていい。これ以上、努力しなくていい。わかるものだけわかればいい。わからないものはわからないまま、人の言う通りにしておけばいい。なんとなく、崇めておけばいい。

「不出来」な作品。頑張らないと若者。
日本人として、人としての、美徳、とは。

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