小説の乗車券(2) アニー・エルノー『シンプルな情熱』に乗る
「文学における旅・移動」のテーマで作品紹介をするシリーズ【小説の乗車券】…第2弾となる今回は、2022年ノーベル文学賞を受賞して、話題を呼んだフランス人作家アニー・エルノーの代表作『シンプルな情熱(原題:Passion Simple)』(1991)を取り上げます!
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1. 『シンプルな情熱』における、車のモチーフ?
アニー・エルノーは、現代フランス文学を代表するオート・フィクション作家として評価されてきました。「オート・フィクション」とは、作者の自伝的作品でありながら、同時にフィクション的・創作的な要素がある作品のこと。もはや現代フランス文学の王道になっているジャンルです。『シンプルな情熱』も、アニー・エルノーと思われる「私」の不倫が主題となっていますが、わざと時系列を曖昧にしており、想像の部分を大いに含んだオート・フィクション作品です。
パリの教師である「私」は、官僚職である東欧出身の既婚男性Aと不倫関係になります。彼からの電話をずっと待ち、化粧や身だしなみを整え、たった数時間だけ一緒に過ごす…この逢瀬を重ねるなかで、Aのことが頭から離れなくなっている「私」の内心をかき乱している情熱(パッション)は、一体どのようなものなのか。『シンプルな情熱』は、この情熱を徹底的に分析しようとする作品です。アニー・エルノーがノーベル文学賞を受賞した理由は「個人的な記憶の根源と疎外、および集団的抑圧を暴いた勇気と分析的鋭敏さに対して」と発表されています。この「分析的鋭敏さ」が、アニー・エルノーの特徴だといえます。
すると、本シリーズ「小説の乗車券」のテーマとは離れているようにも聞こえます。ですが、上で確認したように『シンプルな情熱』は単なる不倫のスキャンダル作品ではなく、「この情熱とは何か」を分析しようと試みる作品、それをいかに表現するかという書き方(エクリチュール)の作品だといえます。アニー・エルノーは色んな視点から、自身の情熱を分析しているのです。そのなかに「車」というモチーフが含まれているのではないか、というのが本記事のテーマになります!
2. 彼は、ルノー25に乗って来る
まず初めに、『シンプルな情熱』の冒頭で登場する車のモチーフを2つ引用してみます。これらはどちらも、不倫相手の男性Aが「私」の家に車でやってくる場面です。この時「私」は、車の音に注目しています。
彼の来訪をつげるブレーキ音、彼が去っていくことを表す発進音。「あの瞬間」と言われるように、車の音が、なにか凝縮した時間を象徴するかのような書き方をしています。「彼との情熱の時間」を表すのが「車の音」だ、ということもできるでしょう。つまり、彼と車が、「私」の内心で結びついているです。
他にも、彼と車が、「私」の内心で結びついている箇所を見てみましょう。
3. 自動車を運転する彼、ってどんな人?
今度は『シンプルな情熱』の中盤に登場する箇所です。これらはすべて、彼が車を運転している場面です。それを助手席で見ている「私」。想像している「私」。ここでは、彼と車が、「私」の内心でいかに結びついているのでしょうか。
ひとつ目の引用では、東欧出身の彼がフランスの高速道路を突っ走る様子を「私」が助手席でながめている場面です。そのなかで、彼の「外国人性」を特筆しています。教師である「私」は、官僚職である彼との間に社会格差があるため、ある種のコンプレクスを催すかもしれないが、「外国人」であることで和らげられているということです。つまり、彼と「私」の社会的・文化的差異という文脈を、「車・運転」を通して読み取ることができるのです。
ふたつ目、みっつ目の引用も、同じ文脈で解釈することが可能でしょう。どちらも、車を運転する彼の「社会的ステータス」が言及され、それに不釣り合いな「私」の内心が語られています。それはときに、彼に魅力を感じなくさせたり、「私」自身の魅力を感じなくさせたりします。
本記事の冒頭で紹介したように、アニー・エルノーの書き方(エクリチュール)の特徴は「分析的鋭敏さ」です。「車を運転する彼」というイメージを読者に与え、それが「私」の内心でどのような意味になっているかを分析的に書いているのです。前章で指摘したように、「車の音」がすなわち情熱の時間を象徴していたこと、しかし「車を運転する彼」は社会的地位が高くて私と不釣り合いであること、このような錯綜した内心を「車」を通して表現しているといえます。
4. 事故のエクリチュール
これまでは「車を運転する彼」というイメージがどのようなものかを考察してきました。しかし一方で、もうひとつ別の「車」にまつわるイメージを見つけることができます。それが「交通事故」、もしくは広く「事故」です。
『シンプルな情熱』のなかで、しばしば交通事故のイメージが登場しています。たとえば、みっつ前の引用には「私は、帰路の高速道路で起こるかもしれない事故を思って怖かったけれど、彼がお酒をたくさん飲むこと自体に嫌悪感を催さなかった。」(p40)と書かれています。また次のような文章もあります。
ここでは、彼のためなら交通事故を起こしても(多少は)構わない、というような「私」の態度を窺うことができます。交通事故というのもまた、「私」の内心を分析するためのモチーフなのでしょう。エルノーは注釈のなかで「私はよく、ひとつの願望と、自分が引き起こすか犠牲になるかする事故、病気など、多少とも痛ましい何かとを天秤にかけてみる」という言葉で、交通事故のイメージが引き起こす心境を分析しています。
しかし、交通事故をイメージするということは「私」にとって、その内心を反映させているだけではありません。まさに「書くこと(エクリチュール)」にも影響しているのです。そのことを最後に分析しましょう。
「私」が不倫の話について恥ずかしさを感じずに書けるのは、それが出版されて読者に読まれる時間にたいして心的距離(猶予)があるからだという文章です。「書くこと・書く心境」について告白しているこの引用のなかで、「事故に遇うかも、戦争や革命が起こるかも」とイメージするとは、どういうことなのでしょうか?
『シンプルな情熱』の冒頭には「モノを書く行為は、不安と驚愕という、道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態へとむかうべきなのだろう」(p7)と書かれています。上に紹介したように、「私」は交通事故・病気の犠牲と自分の願望とのどちらを優先するか妄想する、と告白しています。この妄想こそ「道徳的判断が一時的に宙吊りになっている状態」だと言えるでしょう。
つまり、事故・戦争をイメージすること、死んでしまうかもしれないと妄想することは「道徳的判断が一時的に宙吊りになっている状態」へ向かおうとする「エクリチュール」なのです。その妄想状態こそ、エルノーの「エクリチュール」であり、「オート・フィクション」たる所以なのです。
そして文字通り、本文の終盤に戦争が勃発してしまうのです。
今まで「事故」のイメージを絡めつつ、彼との情熱(パッション)を妄想してきたにも拘らず、現実世界で戦争が起こってしまった、もう妄想状態は許されなくなった……そのとき、エルノーの「エクリチュール」は破綻してしまい、この作品も幕を閉じることになるのでした。
5. まとめ 〜エルノーの緻密な視点のひとつにすぎない〜
『シンプルな情熱』における「車」、いかがでしたでしょう?
今回の記事は、すこし無理筋に思えるかもしれません(笑)
「車」というモチーフを通した内心の分析、また「事故」というモチーフを通した「エクリチュール」の実践。そういう読み方もアリなんじゃないかと思って、今回「小説の乗車券」シリーズで扱ってみました。
アニー・エルノーは「車」に限らず、たとえば、百貨店・地下鉄・ファッションといった日常的なモチーフをさまざまに駆使して、「私」とはどのようなものかを実践してきた作家です。ほんの100ページ足らずの作品でも、網の目のように緻密で豊富な観点があります。彼女が、現代フランス文学を代表する作家であるのは、このような理由もあると思います!
この記事が、いつか誰かの役にたちますように。
F R O G S
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