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忘れじの波

 ごめんね、聖夜。
 せっかく見つけたのに、こんなことになっちゃって。
 でも、ぼくはあの時、走らなきゃと、それしか頭になかった。
 走ったらどうなるかって、そういうあとさき、考えられなかった。
 ぼくずっと、まるで刺繡を裏地からのぞいてるみたいだったの。
 ばらばらな色の何百何千という糸がこんがらがって、なにがなんだか、わからなかったの。
 ものごとのつながりも境目もあいまいになって、あわ雪のように、ぼくの中でとけてゆく。
 世界がちぎれて、そのかけらがひとつまたひとつ、ほたる火のように、ぼくの中で消えてゆく。
 しまいには、聖夜のことさえ見うしなって――
 でもいま、魂の自分にもどったら、はっきり見える。
 光をうけた刺繡の表地にひろがる、このうえなく美しいもようが。

 聖夜。
 初めて逢った時から、ぼくは聖夜の絵を描きたかったんだよ。
 夏の砂浜はまぶしかった。
 海が息をするように潮風がふき、波の音が静かに聞こえてた。
 そこへ突然――
 どさっ。
 聖夜は岩場から砂の上に飛びおりてきたね。
 そしてぼくの描きかけの絵をのぞきこんで「ふーん」と言った。
 絵に興味があるのかな――
 聖夜とぼくの目が合った。
 若いなあ。ぼくよりふたまわり下ってとこ? 絵を描かせてくれないかしら――
 きっかけをつかもうと、ぼくは勇気を出して話しかけた。
「なんの花かわかる?」
「朝顔?」
「これはね――」
 聖夜とぼくをむすびつけたのは昼顔の花。薄青いその花の絵も壁にはったね。ふたりで暮らしたあの部屋のソファーにすわり、聖夜はモデルになってくれたんだ。出逢った夏は夢のように過ぎ、うつろう季節がふたりのアーカイブにきざまれて、ふたたび訪れようとする夏のきざしのなかで――

「キーボー」
 聖夜がぼくに話しかける。
「こんどのお店、どこ?」
 聖夜は、しゃべったりギターをひいたりのふまじめモデル。
 クレパスを休めずに「錦糸町」とぼくは答えた。
「俺、行ったことないや」
「お給料出たら、モデルのお礼になんかプレゼントする」
「ほんと?」
「だから動かないで」
「俺、靴下ほしい。ボーダーのやつ」
「サイズいくつだっけ?」
「二十五。年齢としも来年、二十五らけ……ろ」
 聖夜は語尾をあやふやにして、大きなあくびをした。
「動いちゃダメ」
「まだかよー」
「まだまだ」
 そんなこんなで完成した絵を「見せてみ」と聖夜に言われると、ぼくはちょっと気はずかしくて、ためらった。
「どうせ仲間入りさせるくせに」
 聖夜が指さした壁の一面に、ぼくのスケッチブックでうまれたたくさんの絵が飾ってある。
「うん……じゃあ、はい」
 描いた絵を見せたら、聖夜は一瞬きょとんとして、
「なんじゃこりゃ。モワモワゆらゆら、形があるような、ないような。これ、俺がモデルになる必要あった?」
 と、絵を自分の顔とならべて見せた。
「だって、聖夜の絵だよ」
「これが俺?」
「心の目で見た本当の聖夜なの」
 聖夜は聖夜の絵をしげしげ見つめた。
「タイトル教えて」
「たいせつなひと」
 ぼくは答え、ピンで絵を壁の余白にとめたんだ。

 猫が鳴いてる。
 声が夜の空気をただよい、聞こえてくる。
 錦糸町の路地で、かぼそい鳴き声をたよりに、ぼくは猫の姿をさがし求めた。
 立ちんぼの女が不審そうにぼくを見る。
「いてえだろ!」
 男の肩とぼくの肩がぶつかり、しかられた。
 チカッ。チカチカッ――
 切れかけた飲み屋の看板が点滅してる。
 猫がいたのは、そのあやうい光のもとに積まれたビールケースの上だった。
 光に浮かんでは消え、消えては浮かび、真っ白い子猫がすべてにおびえ、鳴いている。
「お前、どこからきたの?」
 近づくぼくを警戒し、猫はじりじりあとずさる。白いしっぽがぴんと立ち、逃げるかと思いきや、そのままかたまり、ぼくを見あげる。瞳は、吸いこまれそうな深い海の色だった。
 おなか、すいてるかな――
 ぼくは聖夜がむすんでくれた夜食のおむすびを半分に割り、ビールケースのはしに置いた。
「しゃけだよ」
 猫は豆つぶほどの鼻でその匂いをくんくんかいだ。
「じゃあね」
 新しい職場のナイトクラブ「モンモ」はまだ少しさきにある。初日から遅刻しちゃいけないから、ぼくは急いだ。猫がおむすびを食べたかどうか、それは知らない。帰りに見たら、猫の姿もおむすびも、もうなかった。 

「聞きほれてピンク・ジンぬるくなっちゃったよ」
 モンモで、ぼくはお客さんにほめられた。
 同僚の歌手からも、青年ピアニストからも、すんなり受け入れられた。
 支配人の桃子さんは怒るとおっかないけど、言うだけ言って気がすんだら、
「のどにいいわよ」
 と、キンカンの自家製ハチミツづけの瓶をさし出してくれるひとだった。    
 いちばんうれしかったのは、歌を自分で選ばせてもらえたことだ。
 ぼくはアヴェ・マリアを歌った。アメージング・グレイスを歌った。そして、しめくくりはいつも「忘れじの波」。 

 名前もいらない
 音符もいらない
 しあわせのはじめから
 流れていた
 波のメロディー…… 

 ぼくのいちばん好きな歌。
 そう、聖夜がつくってくれたあの曲だよ。
 歌い終えると、拍手をあびながら、ぼくは心のうちで祈りをささげた。
 神さま。めぐみ深いこの日々がどうかもっとつづきますように――
 けれど、神さまがぼくに望んだのは、まったく別のことだったんだ。波もいつまでもおだやかではいられない。波が岩にくだけるように、ぼくのくだける時はきた。 

 六月の雨の夜――
 ひとり歌手がお休みしたから、長めに歌ってくれと頼まれた。 
 ぼくは曲をえらび、ピアニストに楽譜を渡し、はりきってステージにあがった。
 われながらいい声が出る。アヴェ・マリアもアメージング・グレイスも、どの歌もうまくいった。
 やがて照明が青色に変わる。
 ピアノが静かな音をかなではじめる。
 ぼくは閉じた目をそっとあけ、いつものように歌いだす。 

 名前もいらない
 音符もいらない
 しあわせのはじめから
 流れていた
 波の―― 

 そこまでだった。
 ふっつりと、頭の中で光が消えた。

 波の……
 波の……
 おなじところをくりかえしても、つづきは出てこなかった。
 ピアノがやんで、光のない真っ暗な底から猫の声がわきあがる。小さなステージはいつしかビールケースに変わってる。ぼくは猫になって、にゃあと鳴いた。もっと大きく、にゃああと鳴いた。
 お店はしんと静まり、お客さんも青年ピアニストも動きをとめて、みんなの目がぼくを見ている。すぐに、いまここでこんなことをしちゃいけないと気がついた。でも、どうしたらいいのかわからなかった。桃子さんがぼくの腕を引っぱった。これがすべての始まりだった。 

 事務室のいすに桃子さんがすわり、ぼくはその前に立たされた。
「泣きたいのはこっちだよ!」
 どなられたとたん、たまってた涙がすっと流れた。
「歌詞が……歌詞が出てこなくて」
「あんたもプロのはしくれでしょ!」
 バン!
 桃子さんの手が机をたたいた。
「ど忘れしたならしたで、うまくとりつくろいなさいよ!」
 バンバン!
「頭の中ぜんぶ消えちゃって……」
「だからって猫のまねしてどうすんのよ」
「自分がなぜそこにいるのかも、わからなくなって……」
「とぼけたこと抜かしてんじゃないわよ。客に頭さげるの、こっちなんだからね!」
 ぼくは「ごめんなさい」と声にならない声でおわびを言うのが、せいいっぱいだった。 

 追い出されるようにモンモを出たら、外はまだ雨だった。
 かさをロッカーに忘れたけれど、とりにもどる元気はなかった。
 錦糸町の駅が見えてくるころには、全身ずぶぬれになっていた。
 一分でも早く帰って、聖夜に「ただいま」を言いたい――
 ただその気持だけになって、電車に乗ったよ。
 でも、ぼくを待ってたのは迷路だったの。
 いつもの駅に着いて、出口から五メートル歩いたところで、ぼくは立ちつくした。
 どっちの道を選べばいいのか、思い出せなかったから。
 病院の二階のまるい窓。鳥がいっぱいとまる大きな木。すぐ変わっちゃうせっかちな信号。あれもこれも、おぼえてる。どう見ても知ってるんだ。なにもかも、よく知ってる町なんだ。それなのに、ぼくは自分が今どこを歩いてるのか、わからなかった。
 知ってるものの意味がわからない――
 それはかつてない不安だった。得体の知れないおそろしさだった。真夜中の町のあらゆるものが雨にぬれた姿で笑いながらぼくに迫ってくるんだ。ぼくは逃げた。逃げながらさまよった。 

 見なれたマンションにたどりついたあの時ほど、ほっとしたことはない。  
 でも同時に、苦しい気持にとらわれた。
 一連のできごとを聖夜に知られたくない――
 ぼくは玄関の鍵をそっとあけ、ぬれた靴下をぬぎ、忍び足で部屋に入った。
「おかえり」
 暗闇で聖夜の声がした。あかりがついた。びっくりしたぼくのさまは、きっと見つかった泥棒みたいだったろう。
「びしょぬれじゃん」
 聖夜はぼくを見るなり、タオルをとってきた。「ほい」と投げて渡される。立ったまま髪をふくぼくとソファーにすわる聖夜。壁の時計はもう二時をまわってる。聖夜がうつむき、ぽつりと言ったことば――
「どうしたの」
「え?」とぼくは聞こえないふりをしてしまった。
「連絡よこさないで遅くなるの、めずらしいね」
「ごめん」
「シフト、早番だったよね?」
「早番」
「だれかといっしょだった?」
「ひとり」
「ふーん。キーボー、案外もてるからなあ」
「そんなんじゃないよ。そんなこと、するわけない」
「じゃ、なに?」
「つまり、その、あれよ。遠まわりして、川ぞい散歩しながら帰ってきたの」
 ぼくは聖夜に初めてうそをついた。
「川ぞい、あじさいが色づいて、きれいだったろ?」
「そうなの! あじさいって、ほんとに青い妖精ね。それが雨にうるんでるでしょ? つい見とれちゃって遅く――」
「うそだ」
 うそなんか、つくものじゃないね。聖夜にはかなわない。
「俺、夕方、川ぞい歩いたんだ。あじさいの写真、キーボーに送ってあげたくて。だけど、まだ色づいてなかった」
 気まずい沈黙の数秒間で、ぼくは腹をくくった。
「ごめんなさい。ぼく、ほんとは――」
「ほんとは?」
「道にまよったの」
「錦糸町で?」
「この近所。駅からうちまで」
「あきれた」
「そうでしょ? 住んで一年近くなるのに、どうしてなんだろうって自分でも――」
「もういいよ、うその上塗りは」
「うそじゃない」
「遅くなってもかまわない。でも、心配になるじゃん」
「お願い、話をきいて」
「こっそり帰ってきて、正直な理由言えなくて、言いわけしたかと思えば、駅からうちまで道にまよったって……そんな話、だれが信じる?」
 聖夜の声は怒ってなかった。むしろ静かに悲しんでた。聖夜が寝室に去って、ぼくはひとりぽっちになった。足の甲に、ぽたり、ぽたり、と水が落ちた。雨のしずくなのか、涙のしずくなのか、わからなかった。 

「忘れじの波」を思い出せなかったこと――
 そろしい迷路をさまよったこと――
 あれもこれも聖夜に話せないまま、一日一日が過ぎていった。
 ぼくは自分の殻をとざし、だんだん口をきかなくなった。
 それにつれ、聖夜が遠ざかる。そこにいるのに遠ざかる。
 いや、あともどりできない道を遠ざかってるのは、ぼくのほうなんだ。
 聖夜は以前と変わらない。でもぼくには本当の聖夜がもう見えない。
「どこにいるの……」
 ぼくは壁の「たいせつなひと」を指でなぞった。もくもくと雲のような、きらきらと光のような、たいせつなひとを、ぼくは見うしなったんだ。ぼくはさがした。ひきだしをあけてかきまわした。かばんの中身をぶちまけた。
「何さがしてる?」
 聖夜の心配そうな声を何べん背中で聞いただろう。携帯やペットボトルや文庫本や、よくわからない紙きれがいっぱい、ぼくのまわりに散らばってる。
「なんでもないの」
 こわれてゆく自分がおそろしくなるのは、こういう時だった。
 ほどなくモンモを解雇された。
 またひとつ、聖夜に話せないことが増えちゃったんだ。
「いってきます」とうちを出て、ぼくがどこへ行ったと思う?
 遠くまで電車に乗って引きかえしたり、深夜の公園で時間をつぶしたり。「これ食べてがんばれ」
 おむすびをベンチでかむと、思い出すのは聖夜の声。
「俺、これしかつくってあげられないから」
 そう言って笑う聖夜の顔――
 雲のような光のような存在の聖夜が、いま、ここにいる。
 「起きなさい!」
 はげしく肩をゆすられた。目をあけると警官がぼくを見おろしてる。ぼくは夢を見てたんだ。また、知らない道をふらふらと歩きだす。いっそ、ずっと夢を見ていたかった。

 ピンポーン――
 皮をむく途中のじゃがいもが手からころげ落ちた。
「キーボー!」
 桃子さんの声はインターホンより大きかった。
「キーボーいる?」
 怒った時の呼びかただ。もうポテトサラダどころじゃない。頭の中がうずまいて、あ、あ、とうわずった声が出る。
 ピンポーン――
 ぼくは耳に手を押しあて、あ、あ、となおも声をもらしながら、おどろいてる聖夜にぶつかりそうになって、寝室へかけこんだ。
 玄関で応対する聖夜が「いや、ちょっと待って」とあわててる。桃子さんはいつもの迫力で部屋にあがってきちゃったらしい。
「キーボーは?」
 ドア一枚むこうで桃子さんの声がする。
「留守……です」
 ぼくはドアに耳をくっつけ、どうしようもないくらい心臓をドキドキさせ、聖夜と桃子さんのやりとりを聞いた。
「これ」
 という桃子さんの声とバサッという音がした。
「あのひとの衣裳やなんか、いっさいがっさい、その袋につめてきた」
「衣裳って……」
「着払で送りつけてやろうかと思ったんだけどさ! 近くまできたから!」
「あ、そっか。錦糸町のお店のかた? わざわざどうも。いつもキーボーがお世話になりまして」
「もう世話なんかしちゃいないわよ」
「は?」
「あんた、きいてないの?」
「いえ……」
「とっくにクビ!」
 ぼくは床にへたりこんでしまった。こんなふうに聖夜に知られてしまうなんて……。
「クビって、キーボー、なにかやらかしたんですか?」
「やらかしたなんて、なまやさしいもんじゃないわよ。波の……波の……ポカーン、でしょ? それも二度や三度じゃないんだから。なにがいちばん好きな歌よ。突然頭ん中まっしろけ。ステージでわけわかんなくなっちゃってさ」
 それを聞いて、聖夜はだまっていたね。
「雑用なら役に立つかと思って、電気のタマ買いに行かせたら、一時間も待たせたあげく、なに買ってきたと思う? 靴下よ、靴下。男ものの! それもいっしょに突っこんどいたわ」
 なにも言わず聖夜がだまってるから、桃子さんもだまってしまい、外の小鳥のさえずりがよく聞こえるほど静かになった。桃子さんが、怒ったあとでキンカンを出す時の声になって言った。
「同棲してるの?」
「はい」
 なぜだろう。ぼくの目に涙がこみあげた。
「坊や、わるいことは言わない。別れちゃいなさい」
 ぼくは顔をベッドにうずめ、うっ、うっとこみあげてくる泣き声を押しつぶした。
「あのひと、もうダメよ」
 決定的なことばを残し、桃子さんはいなくなった。
 ドアのむこうからは、かさりとも音がしない。
 聖夜――
 ドアをあけると、聖夜は床にすわってた。ぼくが電球と間違えて買ったボーダーの靴下をにぎりしめ、じっと見つめてる。やがてぼくのほうを向き、やさしく言った。
「あした、病院いこう」
 聖夜の涙をぼくは初めて見た。 

 まるい窓は待合室の窓だった。
 病院の内側からながめる駅前は、どこか何かが違ってる。
 見たことのある町なのに見たことのない町にぼくはいて――
 よみがえる迷路の記憶を、イヤイヤをしてふりはらった。
 そこへ聖夜がきて、
「紹介状もらったよ」
 もっと大きい病院に行かなきゃ、と言う。
「ひとりで?」
「俺も休み取る」
 大学病院へ行った日は明るく晴れたね。
 ぼくは聖夜のシャツをつまんで、きょろきょろしながらついていった。
 病院の入口でぼくは立ちどまった。足もとに小さな光がきらめいたんだ。ぼくは光の正体を見て、さわりたくて、しゃがんでゆっくり手をさしだした。
「ほら、入るよ」
 聖夜に引っぱられなかったら、ふっと消えてしまうまで、その光と遊んでたかもしれない。
 検査のあいだも、ぼくの頭はさっきの光のことでいっぱいで、みごとにうわの空だった。先生が三つ単語をあげますから暗唱してくださいと言って、「リンゴ、ネズミ、ラッパ」とか「スイカ、シマウマ、オルガン」とか大きな声を出すけど、なぜそんなことをぼくに頼むのか、先生の気持がわからなかった。

 うちへ帰る川ぞいの道は、あじさいで青く色どられてた。
 けれど、どんなに美しい場所にいても、不安は突然おそってくる。
「あ」
 ぼくは足をとめた。前を歩いてた聖夜が気づき、もどってきた。
「どうした?」
 ぼくはかばんをかきまわし、ポケットを上から下まで全部さぐった。
「携帯……」
「ないの?」
「ない」
「きっと病院だよ。あとで問合せとく。あした取りに行こう」
「うん」と答えたぼくに光がとどいた。病院の入口で見た光とおなじだった。ぼくは両手をのばし、光のほうに近づいた。
「こんどはどうした?」
 聖夜には見えないんだ。
「あじさいが……」
「きれいに色づいたね」
「ひかってるの。光になってぼくを呼んでるの」
「まぼろしだよ。認知症になるとそういう症状も出るって、お医者さん言ったよね?」
「これが……まぼろし?」
 それはまぼろしなんかじゃなかった。聖夜はぼくが疲れたと思ったんだろう、「少し休もうか」と、そばのベンチに腰をおろした。ぼくはとなりにすわり、聞きたかったことを聞いてみた。
「聖夜はショックだった?」
「キーボーの病気? まあね……でも、急激に悪化することはないというし」
「大丈夫かなあ」
「キーボーは自分でショックだった?」
「お花のこと考えてた」
「あじさい?」
「どぶの中の小さなお花。病院の入口に咲いてるの。金網の下でお日さまの光をあびようと、いっしょうけんめい咲いてるの。そんな自分の運命をうらまず、光になって、ひとすじの思いを輝かせてるの」
「キーボーは花ならまだつぼみだよ。これから大きくひらくんだ」
「でも、花びらが散るみたいに、なにもかも忘れちゃう」
「大丈夫だよ。おぼえてることのほうがずっとずっと多いだろ?」
「自信ない」
「俺の好きな色は、なあんだ?」
「銀色! だから、ぼくの誕生日に買ってくれたクレパスも銀色なの!」
「じゃあ、俺の好きなごはんは?」
「グリーンピースたっぷりの豆ごはん! おかずは、しょうが焼き。帰ったらつくってあげる!」
「うわ、たのしみ!」
「自信でてきた」
「それじゃ、あと一問」
 急に聖夜の口調が変わった。病院の先生に似てるな、とぼくは思った。聖夜はぼくの両肩に手をそえ、まともに目を見て、確かめるように質問した。「おぼえてるよね? あの海のこと」
「海? あの海……」
「潮風は? 砂浜は? 昼顔の花は?」
 ああ、やっぱりまだ検査がつづいてるんだ。
「潮風……砂浜……それから花……」
 ぼくはいっしょうけんめい暗唱した。
「波の音は? キーボー、波の……」
 ぼくの奥のほうで、うすい氷が割れるような、ぴいんという感覚が走った。
「波の……波の……」
 猫が鳴く。青年ピアニストがぼくを見る。お客さんの目。みんなの目。雨の町でキンカンの瓶をひろった。ぬれながらビールケースの上でおむすびを食べた。真夜中の公園が突然まぶしい。砂浜だ。しょっぱい潮風がふいて――
「キーボー」
 聖夜がぼくの肩をやさしくたたいた。もう病院の先生には似てなかった。 

 豆ごはんをむらす甘い匂いのなかで、ぼくはしょうがをすりおろす。
 聖夜は「ちょっくらワインを」買いに出た。
 レタスもちぎったし、あとはつけこんだ肉を焼くだけだ。
 フライパンをガスの火にかけ、肉をならべ、ぼくはふいに用を思い出した。でも寝室まできたら、なぜそこにきたのかわからなかった。
 ベッドの上によみかけの本がふせてある。
 ぱらぱらめくると、「光」という字が目にとまった。何万回も見た文字なのに、どことなくいつもと違う、ふしぎな字にばけて踊ってる。「暗光」「光芒」「光がこぼれ」……どれもそう。ぼくはふしぎさがしに夢中になった。
 何分そうやってたんだろう。
 ガチャンと台所で音がした。
 ドアをあけると、リビング全体にうす煙がこもり、煙を透かして聖夜が見える。
「おかえり……」
「おかえり、じゃないだろ!」
 聖夜が水道をひねったら、流しにほうりこまれたフライパンがジューッと音をたて、白い湯気がもうもうとあがった。
 窓をあけながら、聖夜はちょっと強い調子でぼくをなじった。
「どうすんの! 火事になったら」
 ぼくはうつむき、聖夜もだまって、水の音だけになった。
 ぼくはフライパンを洗った。しょうが焼きはまっ黒な炭になっていた。
 聖夜は寝室に入ったきり、出てこない。
 黒いこげつきが落ちてゆくのとうらはらに、ぼくの心は黒く染まった。
 洗い終ってソファーにすわると、正面の壁に、たいせつなひとの絵がはってある。
 逢いたい――
 ぼくは壁から、たいせつなひとの絵をそっとはずした。 

 海の水は少し冷たい。
 おかげで人もまばらな砂浜だった。
 ぼくは波うちぎわにひざをかかえてすわってる。
 風は時おりふいては、砂の上のたいせつなひとの絵を少し動かす。ぼくはそのたび、指で押さえて話しかけた。
「どこにいるの?」
 足あとのはじまりが見えないくらい、たいせつなひとをぼくはさがした。でも見つからなかったんだ。
 絵はなんにも答えてくれない。
 そのかわりに、かもめが鳴いた。空の高みから降りてきて、ぼくをかすめた。ぼくは立って、ふたたび空をのぼってゆくかもめに手をふった。くるぶしがいきなり水につかったのはその時だ。
 いけない、と思うまもなく、たいせつなひとを波がさらった。
 浅瀬に浮かぶ絵を救おうと、重い水を蹴りあげ蹴りあげ、あとほんのちょっとで手がとどくというところで、大波がきた。
 波の力に押し倒され、ぼくは海の中でしょっぱい水を飲んだ。
 水から顔を出したとき、たいせつなひとの絵はもうなかった。
 あったのは、波が崩れたあとの白い泡だ。
 それから、どこをどう歩いたのかわからない。
 疲れてしゃがんだのは、昼顔の花がむれ咲くあたりで――
 どさっ。
 聞きおぼえのある音がした。
「やっぱりここだったね」
 ふりむくと、岩場から着地した聖夜がそこにいた。
「聖夜、どうしてこの海にいるの?」
「わからない?」
「わからない」
「俺、たいせつなひとをさがしにきた」
「聖夜も?」
「どうしても逢いたくて」
「ぼくも、見つけて逢いたいひとがいるの」
「見つけられそう?」
「ダメ。さっき遠くへいっちゃったの」
「いっしょにさがそう」
「どうやって? だって海に沈んじゃった」
「大丈夫」
 聖夜はショルダーバッグを肩からおろした。取り出したのは、ぼくのスケッチブックとクレパスだった。「はい」とぼくの手に持たせ、聖夜は言った。
「俺を描いて」
「聖夜を?」
「心の目で見た俺を描くんだ」
 聖夜は昼顔のそばに腰をおろした。ぼくは聖夜の絵を描いた。
 色をいくつも重ねるうち、長いあいだ閉じていたぼくの心の目が、少しづつひらいてくる。すっかりひらいたとき、そこにいるのは、雲のような光のような、あのなつかしい聖夜だった。できあがった絵は、あふれる涙のレンズをとおし、きらきらとにじんで見えた。
「聖夜……」
「どうした?」
 聖夜がぼくのかたわらにきた。
「たいせつなひと、見つかったよ」
 ほら、とぼくは絵を見せた。
「これはだれ?」
「聖夜」
 聖夜がうなづく。聖夜の指さきがたいせつなひとの絵にふれたら、ぼくの涙が砂に落ち、沁みていった。
「ぼく、本当の聖夜にまた逢えた」
 聖夜はぼくの背中に手をまわし、
「おかえり、俺のたいせつなひと」
 と言ってさすってくれた。
 海は夕やけ色に染まりかけてた。
 立ちあがると、美しいおどろきが待っていた。
「見て!」
 ぼくは砂浜を遠くまで指さした。
「足あとが光になってる!」
 光が――確かにぼくには見える。けれど「これもまぼろしかな……」とつぶやいた。
「まぼろしなもんか」
 聖夜も砂の足あとを見つめてる。
「まぼろしじゃないの?」
「むこうからここまで、光がつづいてる」
 ふたりでおなじ光を見てるなら、そんなうれしいことはなかった。
「もっと、足あと、つけたい」
「ならんで歩こう。ふたりで新しい足あと輝かせよう」
「でも、せっかくつけても波に消えちゃう。なにもかも消えてしまうの」「消えたっていいんだ」
「消えたら悲しい」
「悲しくない」
「なぜ?」
「足あとは消えても、光は残るから」
「光は残る――」
「心にともって、いつまでも。そうだろ?」
「うん」
「帰ろう」
「おなかすいた」
「おむすびつくった」
「豆ごはん?」
「それはおぼえてるの?」
 聖夜がおかしそうに笑うから、ぼくもつられて、いっしょに笑った。 

 砂浜からアスファルトの道路にあがるころには、薄闇が世界に落ちかぶさってた。
 海ぞいの道をわたる風が心地よくて、明るむ月を見ながら、ふたりで歩いた。
 たのしいひとときを終らせたのは、背後のクラクションの音だった。
 棒立ちになるぼくらの横を自動車が走り去り、車道のまんなかに子猫がいた。
 真っ白いはずのからだを赤い血でよごし、うしろ足をひきずりながら、いっしょうけんめい逃げようとして――
 別の車が走ってくる。
 猫とぼくの目が合った。
 あの猫とおなじ目をしてた。
 ぼくはとっさにかけ寄った。猫をつかみ、むこうの歩道に投げてやった。車のライトがぼくを照らす。まぶしかった。猫の声。聖夜のさけび。急ブレーキの音。それは一瞬のできごとだった。 

 聖夜の腕に抱かれ、ぼくは魂の自分にもどった。
 いま、ぼくには見える。
 刺繡の表地は、たいせつなひとを求めて歩いたぼくの足あと――
 光になって、聖夜の心のうちに、どこまでもつづいてる。

 名前もいらない
 音符もいらない
 しあわせのはじめから
 流れていた
 波のメロディー
 いつ どこで
 どんなふうに聞いたのか 
 いまは忘れてしまっても
 波が心に打ち寄せると
 海がどれほど輝いていたか
 ぼくの瞳が思い出す
 その時がどれほどしあわせだったか
 ぼくの胸が思い出す
 かたわらでいっしょに聞いたあなたを
 どれほど愛していたか
 ぼくの魂が思い出す
 忘れじの波
 忘れじのあなた 

 ぼくは思い出した歌を口ずさみながら、聖夜の光のなかを歩いていった。                                          

                               (終)

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