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ヒロイック・ファンタジー小説「兄と師」

第一幕 

 荷馬車に積まれた干草の中に若者が隠れている。
「お代は結構、好きなだけ持ってきな」
 御者台のほうから、男の声がした。
「いつもすまないね」
 若者が横たわる荷台のすぐそばで、女の声がした。
 干草がこすれる音がした。女が干草を抱えあげているのだろう。
「手伝おうか」
「そういうのを年寄りの冷や水って言うんだよ」
「ははっ、元気がいいね」
 干草を取り出す音がするたびに、若者の体にかかる重みが減っていく。
 若者は、息を殺して潜んでいる。
 意外とすぐに音が止む。
「ありがとよ」
「ああ、達者でな」
 女と御者が挨拶をかわすと、手綱の揺れるかすかな音がして、車が静かに動き始める。
 少し軽くなった干草の下で、若者は緊張を解いた。
 冷たい空気が忍びよってきて、くしゃみが出そうになる。
 とっさに、荷台の側壁へ鼻と口を押し付けて、なんとかやり過ごした。
 顔を押し付けたついでに、若者は板の継ぎ目から外の様子を伺った。

読者の皆様へ(あらすじを知ってから読みたい方は→こちら
 「兄(あるいは弟、兄弟)〜」でタイトルが始まる本シリーズは一話読み切り形式です。たしかに、本作と本シリーズ内の他作品は設定が共通です。しかし、他作品を購入されていなくても大丈夫。本作は独立した短編です。要するに、単行本にまとまる前のエルリックやディルヴィシュみたいなことが、やりたいんだなと思っていただければ幸いです。
 210313追記のお詫び:上記に事実誤認があり、お詫びいたします。エルリックもディルヴィシュも、作中の時系列と同じ順番で発表されていました。
 まず、単行本にまとまる前のエルリックは作中の時系列と同じ順番で雑誌に発表されていました(『この世の彼方の海』早川書房、2006の「解説」による)。また、ディルヴィシュについてもほぼ同様です。「《氷の塔》」(1981発表)のあとに「血の庭」(1979発表)がくる点をのぞけば、作中の時系列と同じ順番で発表されています(『地獄に堕ちた者ディルヴィシュ』東京創元社、1988の「解説」による)。
 以上のように「要するに(中略)幸いです。」の箇所は誤りでしたので、訂正いたします。事実確認を怠っており申し訳ありません。

 見えるのは、これまでと同じ、グフルガニア内海沿いの道のようだ。わずかに雪が残る岸辺に、草木と岩が散らばっている。水面はどこまでも広がり、対岸は見えない。大水蛇の姿が一瞬だけ見えた気がしたが、張り詰めた神経の見せる幻かもしれなかった。
 外を見つめたまま耳を澄ますが、大きな動物や山賊の気配はない。
 相変わらず、馬車は南へ向かっているようだ。
 御者台から声は聞こえてこない。荷台に忍び込む前に確かめたとおり、若者が潜む二頭立ての馬車には御者が一人乗り組むだけで、他に同乗者はいないようだ。
「おおい、クナーフの旦那」
「やあ、とっつぁん」
 人の声がして、馬車が止まった。
「寒いねえ、一杯やるかい?」
 車の外で、栓を抜く音がした。干草のにおいをくぐり抜けて、芳しい香りが鼻をくすぐりにやってくる。
「わしは遠慮しとくよ。まだまだ、馬を御していかなくちゃいけない」
「じゃあ俺は遠慮なく。まだまだ、羊を世話しなくちゃいけない」
 一杯引っ掛けたのだろう。とっつぁんと呼ばれた男は、満足そうな声を漏らしてから、再び話し出す。
「草、もらえるかい?」
「いいとも」
 御者の答えに続いて、ザッという鋭い音がした。干草を持ち上げるフォークに違いない。
 若者は身を固くした。
 ザッ、ザッ。
 体にかかる重みが減っていく。
 ザッ、ザッ。
 フォークの音も近づいてくる。若者は亀のように体を縮めている。
 干草を動かす音が止んだ。
「薪も、いいかな?」
 再びオイトグの声がした。
「いいとも」
 答える御者の声に、ためらいの色はない。
「なんなら、赤珠桃も持ってくかい?」
「遠慮しとくよ。そいつは旦那の稼ぎにしてくれ」
「そうかい。気が変わったらいつでも言ってくれ」
 とっつぁんと御者との会話には、親しげな雰囲気が感じられた。
「ありがとう。元気でな」
「そっちもな」
 再び馬車が動き出す。
 荷車の乗り心地は、不思議なくらいに心地よい。荷台に潜り込んだときには、拷問台に乗る覚悟だったが、実際には全く違った。
 何の変哲もない車なのに、どうしてこんなに快適なのかと、若者は眉根をよせた。
 問いに答えを出すよりも早く、車の小気味よい揺れが若者を夢へといざなった。

***

 目を覚ましたとき、隣にいるはずの母は居なかった。
 まだ幼い子どもたちが乳母の天幕を離れ、それぞれの産みの母親の天幕で過ごす、特別な夜の翌朝のことだった。
「母さん!」
 羽毛布団を撥ね退けると、下女が微笑みながら近づいてきた。手にしている螺鈿細工の盆に、山盛りの朝食を載せている。
「殿下、御母堂様でしたら、ダハラ川のほとりに」
 返事を聞くやいなや、王子は履物に足をつっこみ、寝間着のまま外へ飛び出した。 
 天は青々と四方を覆い、野は茫々と一面に広がっている。風が吹きわたると、草は頭を垂れた。
 毛氈の服に身を包んだ家畜番たちが、羊や牛、馬、ラクダの世話をしている。
 少し離れたところに、すらりとした栗毛の馬が繋がれていた。朝日が毛並みのいい体を輝かせている。馬銜と手綱は付いているが、鞍と鐙はない。
 王子は綱を解いて、馬にひらりとまたがった。
「さあ!『曙光』よ、走れ!」
 人と動物の隙間を駆け抜けて、川へと向かう。
 空気は冷たく、朝日は眩しい。
 北の彼方には、深緑の森が連なっている。
 はるか南には、雪化粧をした山脈が続いている。
 駆けてゆく幼子の前にも後ろにも、草原が広がっている。
 川にたどり着いた王子は、柳の傍らに舞う女を見つけた。真珠色の羽衣が輝いている。
 胡蝶のように舞い続ける姿を見ていると、母の正体は天女だとか月の女王だとかいう噂が、少年の脳裏をよぎった。
「母さん!」
 子どもは手を大きく振った。
 相手は舞を止めて、笑顔をみせた。
「今日は晴れだね」
 幼子が母親を見上げて言った。
「どうして、そう思うの?」
 母は少年の目の高さに腰を落として、ゆっくりと尋ねた。
「みんなそう言ってるよ」
「もし母さんが泣いたら?」
「雨が降るって」
「怒ったら?」
「わからない」
 少年は、母の怒った姿を見たことがない。名前すら知らない。母は母であった。
「もう少し踊ったら、いっしょに戻りましょう」
 幼子はうなずくと、川面と母とを交互に眺めた。
 水面には、母の舞姿が切れ切れになって映っている。
 柳の木から、川を少しだけ下ったところに魚籠がつけてあるのを、少年は見つけた。
 少年が川下へ走っていくと、遡上してきた魚が飛び跳ねて、籠のなかに落ちた。中を覗くと、いま飛び込んだ魚が、最初の一尾だった。続いてもう一尾、二尾、三尾。
 川上では母が舞踊を続けている。
 さらに四、五、六、七。次々と魚がやってくる。
 あっというまに指が足りなくなって、王子は目を丸くした。
「ねえ、母さん。歌で山狼を大人しくさせたって本当なの?」
 呼びかけた先に、母の姿は無かった。
「母さん!母さん!」
 ふと気がつくと、辺りは暗くなっている。四方に広がっていたはずの青空も草原もなくなっていた。
 左右にある湿った岩壁を、出どころの知れない橙色の弱々しい光が、幼子の目に映し出している。壁は数歩あるけば辿り着けそうなくらいに近い。
 壁を照らす明かりとは別に、足元におぼろげな燐光を放つものがある。キノコのようにも見えるが、見覚えのないものだ。
 前と後ろには霧とも煙ともつかないものが立ち込めている。
「母さん!」
 返事はない。声は洞穴に反響すること無く、吸い込まれるように消えた。
「母さん!」
 再び叫ぶと、前方から何かが聞こえた。
 暗がりの中を、王子は早足で進んでいく。
 いくら前に進んでも、何も見つからない。
「母さん!ねえ、母さん!」
 前ではなく後ろで、何者かが呼びかけに答えた気がした。
 少年は振り向いた。

***

「ウワアァァァッ!」
 干草を撒き散らしながら、荷台の若者は跳ね起きた。
 子供らしくはないが、未熟さを感じさせる顔つきだ。
「やあ、若いの。お袋さんには会えたかい?」
 飛び上がった途端に寒風が吹き付ける。若者はたまらずくしゃみをした。
 若者と御者台の老人が、向かい合う形になった。
 御者は面白がるような目で荷台を見下ろしている。老人の額に刻まれた皺は深く、髪とあごひげは長く伸びていて白い一方で、外套は濡羽色である。
 草まみれの若者は、荷車の縁を掴んで飛び降りようとしたが、動けなかった。
 いつのまにか、御者が若者の肩に片手を置いている。剣闘士の腕とは比べ物にならない細い腕だが、老人の手には万力のような力強さがあった。まるで、南海から来たと称する商人が語って聞かせてくれた、怪しい翁のようである。
「逃げることはないさ。実はね、ちょうど、あと一人くらい、手伝いが欲しいと思っていたんだ。わしもなかなか大変でね」
 若者は無言で、老人の顔と、肩に置かれた手とを交互に見つめている。
「ふむ『こいつは奴隷狩りをするのか?』とか『ジジイのくせに馬鹿力だ』と、でも思っているのかな」
 沈黙を保っている若者の視界の端、進行方向からみて左では、相変わらず内海の岸辺が流れている。灌木や岩、草むらが前から後ろへと流れていく。馬車が進む方角には、まだ雪を被っている山々がある。南のクスザーグ山脈だろう。
「君の視線を見れば、考えていることくらい分かる。ついでにいうと、わしは剣も弓も持っているが、君に使う気はない。安心しなさい」
 言葉通り、御者台には簡素な鞘に収まった長剣がある。加えて、矢筒とイチイの木弓もある。老人の腰帯には飾り気のない短剣も挿してある。どれも長く使ってきた道具のようだ。武器が何となく光っているようにも見えるのは、西日のせいだろうか。
 荷車を牽いている二頭の馬は、毛並みがよくて頑丈な体つきをしている。
 老人の手はいつの間にか引っ込められていた。荷台にいるダームダルクを見つめながら、手綱を片手でとって馬車を進めている。
「あなたは、何者ですか」
 若者は肩の力をゆるめて、相手に問いかけた。
「わしはクナーフと呼ばれている者だ、君は?」
「ダームダルクといいます」
「草原の出だね。オアシスの定住民ではない。言葉と、君の短剣の装飾、それと背負っている角弓で分かる」
 若者は相手の言葉に、小さくうなずくと、口をきつく引き結んだ。
「すまない。嫌な思いをさせたかな。遊牧だって立派な生き方だよ。わしなんか若い頃は内海の無頼者で…」
 クナーフの話を聞きながら、ダームダルクは首をめぐらして夕陽を反射する内海を見つめ、さらに来た道へと視線を動かした。
「海賊稼業で一財産こしらえたあとは、果樹園と牧草地のある小さな屋敷を買って、気楽な隠居暮らしと、いいたいところだが海賊の話をせがみに来る近所の悪ガキ共に勉強を教えたりでね、わしだってガキの頃はひどいもんだったが、あいつらときたら、本当に言うことを聞かなくて。とにもかくにも意外と忙しい身なんだよ」
 相手の長広舌を聞きながら、若者はしきりに後ろを振り返っている。
「君、追われているね」
 老人は若者のほうを見ると、全てを見通しているような声で言った。

「やあやあ、旦那さんがた!」
 突如として、大声がした。
 ダームダルクが前に向き直ると、荷物を背負った男が両手をばたばた振りながら、道を塞ぐように飛び出してきた。
「ちょっといいものがあるんですよ。見てってください」
 男はニコニコと笑いかけてくる。
「見ざるを得ないな。素通りしようにも、おぬしが道を塞いでいる」
 クナーフは不愉快な調子を隠そうともせずに言った。ダームダルクに話しかけたときとは大違いである。
 荷台から身を乗り出し、ダームダルクは現れた男を見やすい姿勢をとった。西日が眩しい。
「まあまあ、御大尽、見るだけでも結構ですから。あっしはタサ、しがない商売人です。見るだけならタダなんですから。ねえ?」
 タサという男は笑顔のまま、荷台のダームダルクに向けて、親しげに片手をあげた。続いて、背負った荷物を道の真ん中におろすと、中身をゴソゴソとあさりはじめ、鞘に収まった短剣を取り出した。
「さあ、よーく御覧ください」
 相手が手にしているのは白木の柄を持つ、ごくありふれた短剣のようだ。
「さあ!さあさあ!注目して!」
 真剣な顔になった男が、ゆっくり、ゆっくりと鞘から剣をひきぬくと、光を反射する刀身が少しずつ顕になっていく。
「どうです!橙色に輝くこの刃!並の鍛冶屋じゃこうはいきません。火山の麓で何百年ものあいだ一子相伝の技を守り…」
「西日と油」
 商売人の売り口上を、クナーフがぴしゃりと断ち切った。
「アハハハ。さすがは御大尽。いまのはちょっとしたお遊びですよ。本当の売り物はこれから」
 剣を荷物にしまった男がつぎに取り出したのは、陶器の小瓶と銅製の小像だった。像は鱗のない魚のような形で、ずいぶんと黒ずんでいる。
「さあ、この魚をですね…」
「銅を酢につけるとサビが落ちるな」
 またもやクナーフが男の話を打ち切った。
 苦笑いを浮かべながら、商売人が近づいてきた。
「ご老人、あなたの叡智には大変感服いたしました。要するにですね、酢というのは、つけただけでサビが落ちるという奇跡を起こす代物です。これすなわち聖水といってもいい、違いませんか?」
 タサは御者台に片足をかけながら、まくし立てた。
「そうかそうか、ありがたい話を聞かせてもらったお返しに、わしもひとつ奇跡をお見せしよう」
 クナーフは身を捻り、当惑顔になった男に両手で触れたかと思うと、素早く腕を動かした。ダームダルクの目には、どこをどうしたのか分からないくらいの早業である。
 老人が御者台に座り直したときには、商売人の体は道端の茂みへと投げ出されていた。
 路面に落ちて割れた壺から、ツンとくる酸っぱい臭いが風にのって流れてきた。
 投げ飛ばされた男の悪態も聞こえてきた。
「いつになってもああいう手合はいる。気をつけろよ。まあ、君はそれどころじゃなさそうだが」
 ダームダルクは、クナーフの忠告を上の空で聞いていた。若者の視線は来た道にそって続く轍の先に伸びている。

 黄昏が近づいてきたころ、内海沿いに南へ伸びる道の先に森が見えてきた。道は木々を迂回するように曲がっている。あたりには冷たく湿った空気が広がっていて、先程まで吹いていた寒い風は、凪ぎつつあった。
 御者は黙って馬車を進めている。
 荷台にいる若者は、ずっと後ろを気にしている。
 濃紺色の夜が、はるか北の地平線に忍び寄りつつあった。
「あっ!」
 ダームダルクが声を上げた。鷹のように鋭い彼の目は、北から近づいてくる影を捕らえていた。
「来たか」
 クナーフもまた、軽く後ろを振り返ると、馬車に制動をかけた。
「止まらないで!急いでください!」
 荷車の上で、ダームダルクが抗議の声を張り上げる。さっきまでは点だった影が、少しずつ大きくなっていく。
「おいおい、猟犬にでも追われてるような言い草じゃないか」
 御者は微笑みながら答えた。
「そうですよ。追われてるんです。猟犬なんです。犬だ!あれは犬なんだ!」
「違う」
 クナーフが否定すると、応えるかのように奇妙な響きが聞こえてきた。
 何かが近づいてくる北の方角から、硬い物同士をすり合わせているような、耳障りな音がする。下手な擦弦楽器の演奏に、拷問吏の愉悦を加えたかのような、おぞましい音色だ。
「犬は、体に甲羅をもっているかい?」
 ダームダルクは答えない。ただただ、震えながら影を見つめている。
 点は、いまでは二本の耳を持ち、おそらくは四本の脚で歩く姿をとっている。
「あの影は、白い息を吐いたかい?」
 近づいてくる存在は、犬というよりは狼といっていい体躯である。走ってくるのに息を乱す様子はない。呼吸すらしていないようだ。
 ダームダルクが御者の方に一瞬だけ振り返ると、馬が白い鼻息を吐くのが見えた。
「まあ、わしは狼と犬は近しい存在であるというメアオロシアスの説を支持するが、あれが犬だという君の考えには賛同できないね。それとも君はトレオーン派か?いや、ハル=ハラートかな?」
 近づきつつあった狼のようなものは、矢は届くが致命傷にはなりえない距離で止まった。沈みゆく夕陽が、体表をくまなく覆う甲羅と二つの瞳を、血の色に染め上げた。
「狼は、甲羅なんて持ってませんよ。おとぎ話の山狼だって」
 荷車の若者は震える声で言った。
「いつ狼だと言った?とりあえずは『獣』とでも呼べばいいさ」
 軽い調子で述べた御者は、長柄の鞭を取り上げて、御者台から素早く飛び降りた。
 力強い足取りで荷車の後ろに回ったところで、クナーフは仁王立ちになって獣を睨みつける。羽織っている濡羽色の外套が、夕日を浴びて凄みのある色合いを見せた。
 ダームダルクには、獣がこころなしか怯えたように見えた。若者の顔にわずかながら期待の色が浮かび上がり、両手が弓と矢に伸びた。
「駄目だ。遠い。弾かれる」
 老人は背中を向けたまま、ダームダルクを厳かな声で制した。
 つづいて、片手に持った乗馬鞭の柄で地面をひっかいて、なにか短い単語あるいは印らしいものをつけた。子どもが棒きれで落書きをしているようだが、御者の背中は全く冗談らしく見えない。
「君、君だよ」
 老人が低い声で早口に言った。
「あっ、はい」
 クナーフの仕草に見とれていたダームダルクは、慌てて返事をした。
「矢を一つ取ってくれ、君のでいい」
「わかりました」
 急いで矢筒をさぐると、若者は老人の肩越しに矢を差し出した。
 クナーフは、獣と視線を合わせたまま、逆手で矢を受け取ると、ゆっくりとしゃがみはじめた。
 視線は、依然として獣へ向けている。
 老人の動きはしごくゆっくりとしたものだ。
 太陽が少しずつ西の山々に沈んでいき、宵の明星が刻一刻と明るさを増していく。
 十分に腰を下ろしたところで、老人は地面に書きつけた印の上に矢を置いた。鏃は獣に向けている。
 ダームダルクの目には、矢から稲妻のような光が飛び出して獣へと向かったようにも見えたが、景色はすぐ元の夕闇にもどった。獣は弾かれたようにして、北の地平線へと駆けていった。
 若者は、まばたきを繰り返すばかりである。
 薪を置いたクナーフは、黙って御者台に戻った。
 ダームダルクは、不安げな眼差しで老人を見つめている。
「大丈夫だ」
 わずかにかすれた声で述べたあと、御者は言葉を足す。
「しばらくは、な」

主要登場人物
ダームダルク・・遊牧民の王子
クナーフ・・・・老魔法使い。
タサ・・・・・・胡乱な商人
「獣」・・・・・影のようにつきまとうもの

第二幕

 荷車は再び南へと走り始めた。
「まだかな」
 クナーフが角灯に火をいれながら言った。
「えっ?」
 なんとはなく北の空を眺めていたダームダルクが振り向いた。 
「乗車賃だよ」
 御者の顔は、荷台からはよく見えない。
「えーと」
「払えないなら、君があの『獣』に出会った顛末を聞かせてくれ。わしは、それに値するだけの骨折りをしたつもりなんだが、違うかな?」
 荷台に向けられた老人の顔には、笑みと同時に有無を言わせぬ迫力があった。

***

 母が失踪して以来、幼いダームダルク王子は出会う人全てに母の行方を尋ねてまわった。
 多くの者が同じ答えをよこした。
 お前の母親は、王が捕らえた天女であり、羽衣を取り戻して天に帰ったのだと、いうものだ。
 母の失踪を知らない者はいなかったが、何処へ行ったか知る者には出会えなかった。
 なぜ、母は唯一人の息子を置いていったのか。本当に天女だったのか。
 誰の話を聞いても、ダームダルクの顔に、納得の表情が現れることはなかった。

 母が消え去ってから十数年後、ダームダルク王子は成人の儀を終えるとすぐ、子供のころからの付き合いである「曙光」に乗って、母を求めて北の大草原をさすらいはじめた。実のところ、川べりで母が消えたという記憶すら、夢か現実か定かではなく、手がかりの得られないまま月日が過ぎた。
 腹違いの兄弟たちは皆、いつか父の宮帳を自分のものにすることを目論んでいるに違いなかった。ダームダルクも含めて、誰一人として父王の所在を知らなかったが、王位を諦めるものは誰も居なかった。
 ダームダルクとて同じ野心を持っている。
 とはいうものの、王位ではなく母を求めて、取り憑かれたかのように彷徨い続ける若者に、同盟の誘いや殺害の脅しがもたらされることはなかった。
 なぜ母を求めるのか。逃げたかったのかもしれない。兄弟たちが王位を巡って繰り広げている、鋼鉄と呪術と不信とに満ちた争いから。想像をたくましくすれば、母は一人息子を助けたくて、行方をくらませたのかもしれなかった。

 ある日、王子は身分を隠して、とある宿の一階に泊まっていた。草原を遥か西へ行ったところにあるオアシスの街だ。ここにも母の手がかりはなかった。
「やあやあ、旦那」
 大きな声とともに、ダームダルクの目の前に男が座った。同じくらいの年頃で、親切そうな笑顔を浮かべている。
「人を探してるんだって?」
 返事をせずに粥をすすっていると、相手は一巻の巻物を取り出した。
「さあさあ、よく見てくれ、っといけねえ。名乗り忘れてた。おれはパーサってもんだ。ここいらではちっとは顔の知られた男、千里眼のパーサってのはおれのことよ」
 千里眼と、いう言葉を聞くと、ダームダルクは椀から顔を上げた。
「なんですか、それ?」
 ダームダルクは手真似で、相手の品物を示した。
「おう、この名簿はなあ…」
 ゴトリ。
 パーサの答えを遮るかのように、ジョッキが重い音を立てて机に置かれた。
 あらわれたのは、ぼろぼろの長衣をまとった男であった。穴だらけの頭巾の下に皺だらけの顔が隠れている。片方の手には身の丈に似合わない大ジョッキを、もう片方の手には杖を握りしめている。
「引っ込め」
 老人が震える手で杖を振ると、パーサは笑みを引っ込めて、そそくさと立ち去った。
 代わって老人が、ダームダルクの目の前に座る。頭巾の下からしかめっ面がのぞく。
「あの、あなたは?」
「私か?私が…、いちいち名乗りを挙げるような…、小物に見えるか?…見えるのか?」
 ジョッキを傾けつつ、老人は反問した。
「すみません」
「お前の人探しを手伝ってやる、手伝ってやる、それで十分だろうが」
 老人はダームダルクを睨みつけた。
「あ、はい」
「じゃあ、もう一杯、大ジョッキだぞ」
 老人が店主にむけて大声を出す。
「お前が出せ」
「え?」
「金だよ、金。タダで手伝うと思ったか」
「いえ、すみません」
 言われるがままに、ダームダルクは硬貨を机上に出した。
 給仕をしている子どもは、音もなく近づいてくると、顔が隠れるほど大きいジョッキをおいて、小銭をさらいとった。
 ダームダルクは一瞬、給仕の顔に憐れむような表情を見た気がした。
「いいか、小僧、よく聞け。あの自称千里眼が売りつけようとしていたのは、ただの名前だ。事情通の連中の名前をお前に売りつけて、小銭をせびろうとしていたんだ」
 まるで、息を継ぐように老人はジョッキを傾けて、話を続ける。
「だが、私がお前に授けてやるのは、名前の持ち主を呼び出す手段だ。正真正銘の呪文だ。分かるか?この違いが」
 老人はダームダルクの顔に指を突きつけた。
「あ、はい」
 間の抜けた表情で、ダームダルクはうなずいた。
「よし、じゃあ、見ておけ」
 そういうと老人は、口に指を突っ込んで唾液まみれにして、机の上に文字を書き始めた。指が乾くたびに唾で濡らして、ジョッキをあおり、文字を書いた。
 短くはないが、覚えようと思えば覚えられる長さである。文字を書き連ねた老人は、最後に長い線を一本引いた。
「いいか、この呪文を唱えたら、最後に、呼びたい奴の名前を呼べ。いいな、わかったか」
「ええと…」
 ダームダルクが、机に書かれた呪文を唱えようとすると、老人が手で遮った。
「やめろ。他の連中に、ただで呪文を教えてやる気か?」
「すみません」
「わかれば結構」
 そういうや否や、老人はジョッキと杖を持って部屋の方へ、千鳥足で引き上げていった。
 呆けたような表情でダームダルクが老人を見送っていると、後ろから声をかけてくる者がいた。
「やっぱこう、魔法使いってやつは迫力が違うね」
 振り返ると、立ち去ったはずのパーサがいた。
「本当ですか?」
「噂だけどな。俺は信じてる。あんたも信じてるだろう?」
「ええ、まあ」
「とにかく、だ。呪文じゃなくて、情報が欲しけりゃ俺に聞きな。どっちにするかは、あんた次第さ」
 パーサは、ニヤッと笑って手をふり、去っていった。
 ダームダルクが再び机に視線を戻すと、はやくも呪文は乾いて消えつつあった。
 若者は、母の名を知らない。

 翌朝、ダームダルクは日の出よりも早く街を出た。しばらくのあいだ馬を歩かせて、街の明かりが見えなくなった辺りで鞍から降りる。
 若者は、立ち聞きされるのを恐れているような素振りで、周囲を見回している。
 やがて、ひとり頷くと天を仰ぎ見て、大声で呪文を唱えはじめた。昨晩、名前も知らない老人から教わったものである。
 ダームダルクはつかえることなく朗唱を終えたが、教わった呪文に比べて、ただ一つ異なる点があった。最後に名前を呼ぶと、いう手順を省略したことだ。
 若者は両手を固く握りしめ、濃紺色の天蓋をじっと見つめている。
 東の空から、だんだんと朝焼けが迫ってくるが、四方に人影らしいものは見当たらない。隊商ですらまだ出発していないようだ。
 ため息をついて肩を落とした時、ダームダルクは背後に視線を感じた。
 子犬のような影が見えた。地平線近くに。
 謎の影はすぐに身を翻すと、草の波の下へ消えた。

 それからというもの、ダームダルクがどこへ旅しようと、影はついてきた。はじめは何も見なかったかのように旅を続けていたが、やがて影を無視することはできなくなった。
 気まぐれに餌をやった子犬に懐かれるのとはわけが違う。遠くにいてなお子犬の大きさに見えるのだから。
 亀でもないのに甲羅を持つ四本脚の生き物など、ダームダルクは聞いたこともなかった。耳こそ狼のものとほとんど同じだが、相手は狼よりも狡猾で執念深かった。
 狼らしい影は、矢で確実に殺せる距離には、決して近づいてこなかった。こちらから間合いを詰めようにも、馬が嫌がって動こうとしない。弓矢では殺せそうにない。
 逆に、こちらが遠くへ逃げようとすれば、向こうは一定の距離をおいてずっと後をつけてくる。ダームダルクは何度も「曙光」を急かし、普段は決して使わない鞭まで入れたが、影を振り切ることは出来なかった。
 日が暮れるまで疾駆させられた馬は、白い息を盛大に吐き出して抗議の意を乗り手に伝えたが、狼らしい影は白い吐息を見せることが無かった。
 ダームダルクの背筋を寒くさせるものは、目に見える振る舞いばかりではなかった。影が甲羅をこすり合わせているのだろう、酷く耳障りな音が若者の耳を苛んだ。昼夜を問わず放たれる音の波が、ダームダルクと乗馬を押しつぶそうとしていた。
 草原の民が育てた馬にも恐ろしいものがあり、振り切れないものがあると、いうことをダームダルクは初めて知った。
 若者は日に日に憔悴していき、目にはくまがうかび、頬もこけていった。

 どうにかして逃げ込んだ別のオアシスの街の宿で、ダームダルクは小銭を切り崩しながら日々を過ごしていた。犬か狼か分からない謎の追手も、街なかには入り込まないらしく、音も聞こえてこなかった。
 今日で手持ちが尽きるという日に、ダームダルクが広い隊商宿の薄暗い一角で薄い粥をすすっていると、隊商の一団が入ってきた。屈強な護衛たちがついているのを見ると、ダームダルクはすがるような目をして商人達へと近づいていった。
「護衛として雇ってくれませんか。馬にも乗れるし、弓も使えます」
 なんとはなく全体によびかけると、一人の男が座ったまま、探るような視線をダームダルクによこした。相手は銀色に輝く金札鎧に身を包み、象牙細工の鞘に収めた剣を佩いて、背中には遊牧民が使う角弓のなかでも、大振りなものを背負っている。袖には護衛隊長の地位を示すのだろう腕章がある。
 じっと見つめられて、ダームダルクは思わず冷や汗をかいた。
「駄目だ。お前の入る余地はない」
 男は冷淡な口調で述べた。
「本当ですって、弓なら誰にも負けませ…」
 たじろぎながら若者は反論したが、相手が言葉をかぶせてきた。
「お前が俺と同じ草原の出なのは分かる。だが、兵士なみの健康体には見えない。遊牧民の通訳も間に合っている。それに、お前が盗賊の内通者ではないと、証明するものはあるか?ないだろう」
 同族のよしみといった雰囲気は欠片もない。
「一緒についていかせてくれるだけでもいいんです。お願いします」
 相手を見上げてダームダルクは頼み込んだ。
「そういうことなら…」
 護衛の男はその場を離れると、絹地の服を着た年配の男を連れて戻ってきた。
「ガニルク護衛隊長、彼が?」
 年配の男はダームダルクに軽く頷いた。
「はい。隊商長殿」
 隊商長とガニルクは、二人揃ってダームダルクを見つめると、数歩下がったところへいってひそひそと相談をはじめた。隊商長が自分をまんべんなく見ているのに対して、護衛隊長の視線は自分の顔や武器のほうにばかり向いている。
 まもなく、隊商長だけが戻ってきた。
「荷物運びとしてなら雇おう。水と食事、君が連れている馬の秣つき。ただし、武器はこちらの護衛隊で預からせてもらう。これでどうかな」
「はい。ありがとうございます」
「よし、契約成立だ」
 隊商長は、ごく自然な微笑みを浮かべると手を差し出した。
「私の名前はクラース。君の名は?」

 隊商に混じっての生活も、長くは続けられそうになかった。
 草原や砂漠のどこへいこうとも、あの生き物がついてきたからだ。犬でも狼でもない謎の影が、護衛隊や商人、ダームダルクと同じ立場の人足たちの間に、不安をかきたてるのはあっという間だった。
 やがて、姿だけでなく、例の耳障りな音もやってきた。音が聞こえてくるたびに、馬やラクダたちはおびえて隊列を乱し、日程に遅れが生じるようになった。
「あいつが来てからおかしくなった」
 いつしか、馬車の反対側や、宿屋の薄い壁の向こうから、護衛や人足の陰口が漏れ聞こえてくるようになった。
 商人たちもまた、籠に詰まった果物を見つめ、皮の張り具合を確かめながら、進行の遅れを取りざたするようになった。
 周りの者が自分を見つめる目は、日増しに冷たくなっていった。ダームダルクは抗弁せず、ただ無表情に仕事を続けていた。
 街を出て以来、クラースはダームダルクから距離を置いている。
 一度だけ、隊商長は「誰が君の悪口を言い始めたのか知っているか」と、尋ねてきたが、ダームダルクは答えなかった。
 次の街まで、西へあと二日といったところで、隊商は野営をすることになった。予定ではもう街に入っているはずだった。
 日没が迫るなかで、人足たちが慌ただしく支度をする。
 十七頭の馬と五頭のラクダを要する隊商の宿営は、いくつもの天幕と篝火を擁する広大なものだ。
 馬の数が半端なのは、道中で逃げ出したからである。謎の影が立てる音が原因だ。
 野営においてダームダルクは、全ての役畜を杭に繋ぐ仕事を任された。幼い頃からの経験もあり、簡単な仕事であった。動物の性質を読み取って、仲の悪いもの同士を互いが見えない位置につなだり、暴れがちなものについては深めに杭を打ち込んだりと、いった定住民には難しい仕事を、涼しい顔でやってのけた。
 おかげで、馬もラクダも、喧嘩せずにおとなしくしている。
 食事の天幕へ向かおうとすると、ダームダルクを呼び止める声がした。
「何か異常は?」
 護衛隊長だ。不満を隠そうともしない口調である。
「はい、どの馬も…」
 ダームダルクの返事を遮るように、風上から例の音が流れてきた。一頭の馬が慄いたように嘶きをあげると、つられて他の馬も声を上げ、地面を踏み鳴らし始める。
「怯えているな。繋いであるから、逃げることもできない。可哀想に」
 そう言い捨てると、男は食事のある場所へと去っていった。
 ダームダルクは歯を食いしばり、挑むように片手を振り上げようとして、力なく半ばで下ろした。影のいる方向から目をそらし、食事の天幕へと向き直った。
 途端に、草の擦れる音がして、ひときわ大きく耳障りな響きが始まった。
 ダームダルクが振り返ると、例の狼らしい影が踊り狂うかのように飛び跳ねていた。矢で殺せるかどうかといった距離をたもっていて、不用意に近づいてはこない。
 真っ赤な夕焼けを背景に影が飛び跳ね、不気味な音の矢を次々と放つ。
 天幕から人々が出てきて騒ぎはじめた。音にたまりかねた様子だ。
 狼、野良犬、悪魔、悪霊、疫病神。
 来るな、あっちへ行け、やれるものならやってみろ。
 ダームダルクには、どれが自分に向けられたもので、どれが影にむけられたものか、分からなかった。若者は不安げな表情を浮かべて、荷車の陰へと逃げ込んだ。
 魔除けのつもりか、やみくもに太鼓を打ち鳴らす音が始まった。馬やラクダのけたたましい鳴き声や、蹄を踏み鳴らす音も聞こえる。綱を引きちぎらんばかりに暴れているようだ。
 音が音を呼ぶようにして、場の緊張が高まっていく。
「馬が逃げたぞ!」
 誰かが叫ぶ声がした。ダームダルクの耳には護衛隊長の声らしく聞こえたが、辺りが騒々しくて確証はもてなかった。
 馬たちが杭を引き抜き、逃げ出していた。恐慌ゆえに馬たちは群れを作り、野営地を走り回っている。
 誰かの悲鳴が聞こえた。馬が何かしたのかもしれない。
 馬の引きずる杭が灯りを引き倒し、不注意な場所にある房飾りつきの天幕に燃え移った。
 動物は火を恐れるが、馬たちは謎の影が放つ音をより一層恐れていた。先頭の馬が矢倉に組んである大きな篝火へ飛び込んでいく。他の馬もあとに続く。
 馬たちは嘶きとともに、火のついた薪を四方八方に蹴散らした。
 野営地は地獄と化した。
 商人たちは品物を守ろうと、貴重な水をふりかけていたが、火勢は収まらない。護衛の兵士のなかには、逆上したように雄叫びを上げて、暴れ馬を槍で突き刺すものもいた。
 あちらこちらで、理由の分からぬ悲鳴があがり、大きな物音がした。甲羅をこする音はもう止んでいたが、混乱は続いている。
 人足たちを含め事態の収集に当たろうとするものもいたが、あてもなく逃げ出すものもいて、ダームダルクのように何も出来ないでいるものもいた。
「お前のせいだ!」
 頭に一撃を受けてダームダルクは倒れ伏した。

 目が覚めると、青空と隊商長クラースの顔が見えた。絹地の服は焦げて穴があいており、皺も増えているような気がした。
「立てるかい?」
 クラースは感情を殺した顔で、ダームダルクを助け起こした。
 敷布と毛布それぞれ一枚だけで、屋外に寝かされていたらしい。あちこちが冷えてこわばっている。
 起き上がって辺りを見回したダームダルクは、略奪にあったような野営の跡を目にした。昨日と同じ場所に繋がれたまま、馬とラクダが合わせて十頭ほど残っているが、全体としては人も物も数が減っている。愛馬の姿もない。
「あの、狼みたいなやつは?」
「知るものか!」
 ダームダルクが問いを発すると、脇から罵声が飛んできた。兵士らしい服を着ているが、短剣すら帯びていない。腕は吊られていて、手首から先は赤くなった包帯で固められている。兵士はもう片方の手を使って、慣れない様子で杖をついていた。
 怪我をした相手の将来を察したように、ダームダルクは顔を伏せた。
「ああ、大変申し訳無い。私がちゃんと話してきかせるから、申し訳ない」
 クラースが怪我人に頭をさげた。
 相手がその場を十分に離れてから、隊商長は頭を上げた。
 個人としては自分を恨んではいないが、隊商を預かる身として取るべき態度があるということを、ダームダルクは理解している。
「預かっていた武器を返すよ」
 隊商長はダームダルクの顔を見つめ、小さく頷いてから話を続ける。
「手切れ金も出す。すまないが、もう君を置いてはおけない」
「わかりました」
「少ないが、我慢してくれ」
 ダームダルクは巾着袋を受け取ると、すぐ懐に隠した。
「あの…、『曙光』は?ぼくの馬です」
 もう一度、辺りを見渡したが、愛馬の姿は見当たらない。
「君は正しいやり方で動物たちをつないでいた。被害がこれだけで済んだのも、きっと君のおかげだろう」
「あの…」
「ついてきなさい」
 クラースは先頭に立って、やや早足で歩きはじめた。
 周りでは、怪我人のうめき声があがり、まだ煙がくすぶっている。
 誰も二人に声を掛けなかった。
「申し訳ない」
 愛馬もまた杭を引き抜いて逃げ出したのだろう。野営地の外縁で「曙光」は血を流して倒れていた。蹄の跡と、倒れている向きからして、野営地から荒野へ飛び出そうとしたときに死んだようだ。
 なぜ謝るのかと、ダームダルクが問う必要は無かった。獣の爪牙ではなく人の武器によって、殺されていたからだ。
 愛馬の傍らに、男が一人倒れている。護衛隊長のガニルクだ。馬蹄にかけられた跡があり、手には血のついた槍を握りしめている。
「悪いのは、あの狼みたいな奴だということは分かっている。でも、そう思えなかった者もいるんだ。とくに、昨晩みたいな時にはね。申し訳ない」
 ダームダルクは、膝を付きそうになるのをこらえ、ただ涙が流れるに任せた。
「君は南の内海に出てみたらどうかな、あいつが泳げるのか知らないが…」
 若者の頬を伝う雫を、朝の日差しが輝かせている。
「それじゃあ、私はこれで」
 隊商長は、手を差し出すことなく去って行った。

***

「それで、内海への道中で、あなたの果樹園を見つけました。荷車に忍び込んだのは、港街まで、果物を売りに行くと、いや、一人旅が怖かったんです」
「要するに、おぬしは人探しの呪文を、勝手に端折ったしっぺ返しを食らったわけだ」
 もう二人は港街ダンガルシュトに入っていた。日が暮れてしばらく経つというのに、往来にはまだ活気がある。通りは二頭立ての馬車が余裕を持ってすれ違えるほど広く、軒先には松明が掲げられていて、人々は忙しそうにしている。
 ダームダルクは、辺りをきょろきょろと見回しているが、顔に浮かぶのは必ずしも好奇心だけではなかった。
「これを提げてろ」
 クナーフが後ろ手に、首にかける護符らしいものを突きつけてきた。
 黒檀の彫刻を磨き上げて、真珠を埋め込んだものだ。類まれな職人仕事の賜物であると素人目にも分かる。月明かりが護符に注いでいるが、ダームダルクの目には護符そのものが、発光しているように見えた。
「あの獣に、殺されずに済む程度の力はある」
「要りません」
 ダームダルクが拒絶すると、御者は車を路肩に寄せて止め、荷台へ振り向いた。
「なぜだ?」
「あなたは今『殺されずに済む』と、いいました。でも、ぼくは、追われずに済む生き方がしたいんです」
「ほう」
 御者は白い眉を軽く釣り上げてみせた。
「だから、ぼくを弟子にしてください。あなたのような魔法使いになれば、獣を殺すことだって出来るはずです。違いますか?」
「なぜ、わしが魔法使いだと思った?」
「光っているからです。獣を追い払った時もそうですし、この護符もです」
 迷うこと無く言い切った若者を見て、老人は満足そうな笑みを浮かべた。
「よし。弟子にしてやろう」
「ありがとうございます!」
 ダームダルクもまた笑顔になった。
「だが、その護符は持っておけ」
「なぜです?」
 若者は途端に不満そうな顔になって、聞き返す。
「わしの手間を考えろ。夜の荒野で、おぬしが一人で小便にいくとき、付き添ってやる手間をな」
 顔を紅潮させた若者の反論を封じるかのように、クナーフは続ける。
「さあ、第一の修行だ。荷物運びをしろ」
 老人は四軒先にある雑貨店を指差した。荷台には果物を収めた木箱や薪の束、干草の山がある。

 翌朝、ダームダルクとクナーフは宿の食堂で簡素な食事をとっていた。
 昨晩にあれこれと働かされた若者と、宿の主人は不満げな顔だったが、老人は構うこと無く、安い食事を口に運んでいる。
「こういう食事をしていれば、魔法が使えるようになるんですか?」
「昨日の護符を出してみろ」
 当惑顔をしながら、ダームダルクが、首にかけた護符を服の下から取り出して、じっと見つめた。
「どうだ?」
「…光っています」
「よく見ろ。太陽の光を浴びているだけじゃないか?」
「そうじゃないと思います」
「ふむ。歳を取るとなにかと眩しくなるんだが…」
「本当ですって」
 若者は口をとがらせていった。本当に、護符そのものが光を放っているのだ。
「じゃあ、これはどうだ」
 不意打ちのように、老人の人差し指がダームダルクの眉間に突きつけられた。突きつけられた指は、普通なら若くても細かく震えるはずのところが、彫像のように不動である。
 ダームダルクの顔に、驚愕の表情が浮かんだ。
「指が、光ってる」
 ダームダルクは、何度もまばたきを繰り返している。
 クナーフが手を下げると、指先の輝きも消えた。
「安心しろ。おぬしの目には魔法が光として見えている、ただそれだけ、それだけのことだ」
 何の驚きもこめずに、老人が言った。
「ぼくの目には?じゃあ、師匠にはどう見えるんですか?」
「そんなことを聞いてどうする」
 問い返された若者は、意外そうな顔をして黙った。
「わしの目にはああ見える、こう見えると言ったところで、おぬしに、真偽を確かめる手段はあるか?想像を働かせるしかあるまい」
「えーと、たとえば他人の視界を盗み取るような呪文を使うとか…」
「なにか良からぬことでも考えているのか?」
 老人は若者に鋭い視線を送った。
「え、いや、その…」
 ダームダルクは、一瞬戸惑ったような表情をして、顔を赤らめた。
「他人の心に踏み込む術は、おぬしにはまだ早い。『その程度のこと』しか思いつかない、ひよっこにはな」
「でも、とにかくぼくは魔法使いなんですよね」
 若者は早口になって言った。
「安心するのはまだ早い」
 再び老人が指を突きつけてきた。英雄の彫像のように、不動の構えである。
 またしても、ダームダルクには反応する余裕がなかった。
「どうだ、光っているか?」
「…いいえ」
 腑に落ちないような表情で、若者は答えた。まばたきをしてみるが、やはり指はただの指だ。
「見えないときもあるようだな。素質はあるが、修行が足りない」
 ダームダルクは口をつぐんでいる。魔法を込めていない指だから、光が見えなかったのではないかという疑いを、表には出すまいとしているかのようだ。
「東側の鎧戸を見ろ。よく見ろよ」
 窓の鎧戸はもう開け放たれており、冷気とともに朝日が差し込んでいた。
 眩しさに目を細めつつ、ダームダルクは窓を見つめた。鎧戸を形作っている木枠も羽目板も、古ぼけて角が磨り減っている。ワニスもとうに剥げ落ちている。自分の年齢と同じかそれ以上の歳月を経てきたかのようだ。
 じっと見つめてみるが、何の変哲もない鎧戸だ。木枠も羽目板も、丈夫に作ってはいるが、発光していない。首をかしげてもう一度見つめるが、ただの木だ。右の目をつぶって見つめても同じで、逆もまた然りだ。
「光っていません」
 視線を窓に向けたまま見た通りを口にしたが、答えは返ってこない。何を間違えたのかと視線を戻すと、さり気なく老人が顔を近づけてきて、そっと囁く。
「本当か?」

「…本当です」
 不安げな声でダームダルクは答えた。
「すみません、修行が足りないんでしょうか」
 若者の顔には、もはや喜びも疑いも浮かんでいない。ただ不安だけがあった。
「そのとおり。あれは普通の木だ」
 老人は笑顔だ。

 それからというもの、老人の地所である果樹園と、港街を往復する日々のなかで、ダームダルクを厳しい修業の日々を過ごした。
 教えはどれも単純なものだったが、実践するのは難しいものであった。
 老人は、話したり書いたりするとき、一言一句を疎かにするな、心を込めろと教えた。呪文に限った話ではない。果樹園を訪れる「悪ガキ」に混ざって、ダームダルクが詩歌や散文の読み書きを習うときも、老人は同じことを言った。
 読み書きも、一つの言葉に限らなかった。古今東西あらゆる言語を学べといい、老人は知っている全ての言語を生徒たちに教え込もうとした。
 ダームダルクを含む生徒たちが、神々や悪霊たちをからかう罰当たりな冗談を言って騒げば、老人は生徒全員を等しく叱りつけた。軽はずみなことを口にするなと、いうのである。
 魔法らしい魔法について老人がダームダルクに教えることといえば、獣を追い払う時に使った短い呪文の書き取りだけだった。街道に出るたび、二人は地面に呪文をかきつけた。老人いわく、心を込めて書けば文字が光を放ち、悪しき者を退ける力になるとのことだったが、ダームダルクの書いた呪文は、いつになっても光らなかった。
 老人の教育方針は文武両道であった。
 体力をつけろといって、港街との往復では若者を荷車に乗せずに歩かせた。人の少ない荒野に出ると、例の獣の姿が見えたり、音が聞こえてくることもあったが、クナーフを警戒しているかのような素振りで、前ほどに距離を詰めてはこなかった。
 道中で聞こえてくるのは、ほとんどが鳥の声と、草木が風になびく音だ。ほかには荷車の車輪が低く静かに転がる音だけである。
 一度、ダームダルクはクナーフに、なぜこれほどまでに車が静かなのか、魔法なのかと尋ねた事がある。「よく見ろ」と、いうのが答えだったが、見つめたところで荷車は光らない。普通の品物なのか、修行が足りないから魔法の光を見いだせないのか、真相を知るためには修行を続けるほかなかった。
 街中でも老人の指導は続いた。宿では一番安い部屋を取り、飛んでいる蝿を指で摘んでみせろと命じてきた。小さな窓から差し込むか細い光だけをたよりに、飛び回る標的を捉えるのは、並大抵のことではなかった。
 野営のときは、放り投げた硬貨を弓矢で射る練習をした。当たるまで食事はお預けだった。たとえ当てたところで、食べられるのは滋味はあるが質素な代物で、若者の胃袋は満足しなかった。
 過酷な修行に不満顔のダームダルクが、クナーフに手本を見せてくれと頼むと、老人はダームダルクに硬貨を力の限り高く投げ上げさせた。すぐさま老人は、草原の民が使う硬い角弓を軽々と引き、一瞬で狙いを定め、放物線の頂点で小さい硬貨の中心を貫いてみせた。
 一連の流れを、ダームダルクはただ呆然と見つめていた。同族を除けば自分よりも角弓を上手に使うものがいることを、今日にいたるまで若者は想像したことがなかった。
 とにもかくにも、ありとあらゆる点において老人は若者の鼻っ柱をへし折ってみせた。ダームダルクの持つものでクナーフに勝る点は、大食らいであることと、耳目の鋭さだけであった。後者について誇るほど若者はあくどくはなく、前者については老人の皮肉を聞かされるだけであった。
 修業の日々が続くうちに、次第に暖かくなってきた。
 昼間の時間は日に日に伸びてきたが、ダームダルクの力は伸び悩んでいた。

 日がだいぶ西に傾いてきたころ、港町ダンガルシュトにある、クナーフの得意先の軒先で、ダームダルクはぼんやりと佇んでいた。
「よお、兄ちゃん。ご主人なら、しばらくは奥で商談だぜ。暇なら、なんか買ってくれよ」
 リンゴを磨いていた店の小僧が、期待を込めた表情で話しかけてきた。
「ご主人?ぼくは下人じゃない」
「じゃあ何?」
「弟子だ」
「え、あのお爺さんの弟子?じゃあ魔法使い?」
「だから、弟子なんだって」
 苛立ちの混ざる声でダームダルクが応えると、小僧は憐れむような表情で見上げてきた。
「ああ、弟子ね。そうなんだ」
 相手はまだ声の高い子供だと言うのに、昔を振り返るような目をすると、ダームダルクにニヤニヤ笑いを向けてきた。
「そういう君だって…」
 言い返そうとしたところに、別の声が割り込んできた。
「やあやあ、旦那!」
 やってきたのは、大きな荷物を背負った商人風の男だ。ダームダルクは、相手の男に見覚えがあった。前に街道で短剣と酢を売ろうとした、タサという男だ。
 商人は、辺りを探るように見回したのち、背嚢を地面におろして中を探りはじめた。
「いやいや、この広い世界、広い街の中でまたお会いできたのも何かのご縁。旦那も、そこの小僧さんも、面白いものがあります。ぜひぜひ、御覧ください」
 小僧はリンゴを磨く仕事に戻り、タサには関心がないようだ。
 タサが取り出したのは、一組のカードだった。鹿や大皿、大樹、霊廟といった図柄の描かれたもので、ダームダルクにも見覚えがあるものだ。
「さあさあ、こちらにございますのは占い札。ですが、ただの占い札ではございません。魔法の札です」
 男は喋りながら札を切っている。
 ダームダルクの目には、札はただの札にしか見えず、光ってなどいなかったが、自分の知覚に自信は持てなかった。
「どのようにしてこの魔法の品が作られたのか、その秘密をお教えしてはこちらも商売上がったりです。職人が精魂込めて絵を描いた結果、霊気が札に宿ったとでも言っておきましょう」
 長広舌を終えると、タサは一枚の札を、店先の台に置いてみせた。
 図柄は鹿だ。
「さあ、御覧ください」
 タサは残りの札を荷物にしまうと、空になった自分の両手を、ダームダルクに見せつけた。
「なにはともあれ、これは魔法の札です。証拠をいまからお見せしましょう」
 タサはゆっくりと息を吐きだして、芝居がかった仕草で両手を鹿の札に載せた。
 ダームダルクの視線は相手の手元に釘付けになっている。
 魔法の光が見えないと、いうことも、ダームダルクの興奮を冷ます理由にはならなかった。
「さあ、ご覧あれ!」
 商売人が素早く手をどけると、台の上にあるのは大樹の札であった。
「ほら、旦那。触ってご覧なさい」
 差し出された札を受け取り、ダームダルクは指で擦ってみたが、紛れもなく一枚の札だった。二枚重なっているわけではない。裏面には幾何学模様があるだけだ。鹿の絵はどこにも見当たらなかった。
「と、いうわけで、この図柄の変わる占い札が、魔法の品物であることはご納得いただけたかと思います。さあ、今ならたったの銀貨…」
 ダームダルクが財布の中を覗き込み、タサが大げさな身振りで値段をつけようとしたその時、店の奥から唸るような声が聞こえてきた。
「インチキにまみれた虫けらめ。わしの弟子に、いらぬちょっかいを出すな」
 クナーフは恐ろしい形相で軒先にきて、両手で素早くタサに触れたかと思うと、一回転させて往来に放り出した。一瞬の出来事であった。
「このジジイ!人の商売の邪魔しやがって」
 タサは罰当たりな罵りの言葉を吐くと、商売道具をまとめて逃げ出した。
「まったく、こんなんじゃお袋さんを見つける前に、悪党にたかられて野垂れ死にだよ」
 老人は、ダームダルクの顔を見て、ため息をついた。
「ギャハハハハハハ!あんな手品に騙されてやんの!」
「コラッ!お客さまを指差すな!」
 店の奥からは、小僧の爆笑と、店主の叱責が聞こえてきた。
 ダームダルクは、がっくりとうなだれて、足元に落ちる自分の影を見つめている。
「さあ、修行の続きだ。ほら、どうした、急げ」
 ダームダルクは動こうとしない。
「もういいです」
「何?」
「もう、いいんです!」
 顔をうつむけたまま、ダームダルクは逃げ出した。

 日の暮れた頃、臭い魚油のランプを使う安酒場の一階で、ダームダルクはジョッキを睨みつけていた。
「兄ちゃん、ウチの酒に文句でもあんのか?」
 店主を無視して、若者はしかめっ面を続けている。顔を向けすらしない。周りの客に注意を向けることもなく、立て付けの悪い二階の扉から漏れてくる嬌声を、気にする様子もない。
 ダームダルクは片方の手にジョッキを、もう片方の手にはクナーフから渡された護符をいじりながら、ただ黙って座っている。
 もはや店主は何も言わず、仕事に戻った。
「おやおや、旦那じゃないですか」
 またしても声を掛けてくるものがいた。やってきた男は当然のように相席をして、話し続ける。
「あっしですよ、あの爺さんに二度も投げ飛ばされたタサですよ。もうお忘れですか」
「何の用ですか?」
 ダームダルクは、顔を上げずに返事をした。
「まあまあ、あなたのお力になれると思って来たんですよ」
 話しながら、タサは荷物をごそごそとあさっている。
「来たって、後をつけて来たんですか?」
 若者が思わず顔をあげると、相手は人の良さそうな微笑みを浮かべていた。
「つけただなんて、人聞きが悪い。旦那のように若い人がね、あんな爺さんにこき使われてるのを見てられなくてね、そしたら『タサよ、あのお方を放っておいちゃいかん』と、ご先祖様の声が聞こえてきたような気がしたんですよ。ねえ、旦那」
 目当ての品物が見つかったらしく、タサは飾り気のない小さな木箱を差し出してきて、蓋を開けた。中に入っているのは、紙で包んだ小さな立方体だ。
「なんですか?これは」
「角砂糖です」
「角砂糖?」
「でもね、そんじょそこらの砂糖とは違います。高地にこもる修行僧たちが育てた甜菜をもとに作って、満月の明かりで三度も祝福された、特別な砂糖です。相手が鬼だろうと悪霊だろうと、投げつければあっというまに退散させられます」
 ダームダルクは、四角い包みにじっと目を凝らした。
「もしかして、あの爺さんに義理立てしてるんですか?およしなさい。あのジジイは、こき使える若いのが欲しいだけですよ。これまでにもね、何人もあなたみたいな若いのを弟子に取ったけど、みーんな出ていったのを、あっしは知ってるんです。なぜだと思います?」
「なぜ?」
 ダームダルクは相手の顔をみて聞き返した。
「小物だからですよ。あの爺さんがね。おおかた、厳しい修行をしないと駄目だとかなんだとか吹き込まれたんでしょう。でもね、違うんです。本当の魔法使い、本当の魔法の品物っていうのは、そういうものじゃないんです」
 ダームダルクは、再び包みを見つめた。
「魔法にしては、光ってないようですが…」
 訝しげな声をうけて、タサは溜息をついた。
「光ってない?ああ、優れた魔法の品物は、その輝きを内側に隠しておくのです。外に輝きが漏れるということは魔法が漏れている証拠です、特上の葡萄酒でも、ヒビの入った壺に収めていては仕方がない、それと同じです。あの爺さん、こんな初歩的な事も教えてくれなかったんですか。ひどいですねえ」
 タサは気の毒そうな表情で、ダームダルクを見つめてきた。
「旦那、ここは一つどうです?何かお困りなんでしょう?そうじゃなくっちゃ、わざわざあんな爺さんにくっついてるはずがない。でしょう?」
「わかりました。いくらですか?」
「銀貨で八十。特別に、どこの銀貨でも結構です。でも、値切りはいけません。旦那の力になりたいのは山々ですが、こちらも商売ですから」
 値段を聞いてダームダルクは、がっくりと肩を落とした。
「それじゃあ、とても。もっと安いのはありませんか?」
「安いものじゃ駄目です。高いものこそ良いものです」
「たしかに、良いものは高いですね」
 ダームダルクは大きく頷いた。
「でも、今はお金がなくて」
「別に御銭じゃなくても良いんですよ。たとえば…」
 そう言って、タサはダームダルクがいじっている護符を示した。黒檀と真珠を組み合わせた上等な細工のものだ。
「えっ…」
 おもわずダームダルクは護符を握りしめた。
「旦那、どうされます?」
 タサは机の上に小箱を置くと、ダームダルクに微笑みかけた。
 若者の視線は、小箱の中にある四角い包みと、手の中にある黒と白の護符を行き来している。
 やがて、視線は一箇所に落ち着いて、若者が口を開く。
「わかりました」
 ダームダルクは護符を差し出した。
「そうこなくっちゃ」
 小箱を受け取るとすぐに、若者は酒場から飛び出し、街の外へ走っていった。

第三幕

 半月が夜の草原を仄明るく、あるいは仄暗く照らし出している。
 はじめのうちこそ、若者は轍のある道を通っていたが、隊商の荷車の音が前から近づいてくると、道をそれて荒野へと踏み出していった。
 歩き続けるうちに、街道からの音は、かすかなものになってきた。入れ替わるようにして聞こえてきたのが、硬い物同士をすり合わせる音だ。処刑人が斧を研ぐ音とも違う、より怖気が走る音だ。
 ダームダルクが北の地平線に目を凝らすと、犬のような、狼のような、大きな獣の影が見えた。ぞっとする音を立てながら、こちらへと近づいてくる。
 若者は汗の滲んだ手で小箱の蓋を開けて、紙で包まれた立方体を取り出した。中身を崩さないように慎重な手つきで紙を剥がすと、現れたのは話に聞いた通りの角砂糖であった。茶色みを帯びた立方体である。
 結晶の一粒一粒が月明かりを反射してこそいるが、ダームダルクの目にはただの角砂糖に見えた。自ら光ってはいない。
 真贋について迷う暇はなかった。
 獣は着々と間合いを詰めてきた。甲羅に覆われた姿が、はっきりと見て取れる。
 敵はとっくに矢頃に入っているが、若者は弓矢には手を伸ばさず、包み紙の上の砂糖をじっと見つめている。
 獣は、こちらを恐れる様子もなく近づいてくる。心臓が縮こまるような音を放ってくる。月明かりが、相手の口から垂れる涎と、真っ赤な舌を顕にした。
 若者は深く息を吸って手汗を拭うと、そっと角砂糖をつまみ上げた。
 獣が駆け足になったその時、ダームダルクは手にした立方体を投げつけた。
 コツンと、軽い音がして角砂糖は相手の額の上で砕けた。同時に、獣の脚もとまる。
 若者の顔に期待の表情が浮かぶ。
 相手はまるで犬のように身震いして砂糖粒を払いのけると、周囲に落ちた粒をペロペロとなめとっている。
 ダームダルクがあっけにとられた様子でいると、獣は若者に視線を合わせて、大きくゆっくり、舌なめずりをした。あたかも、上等な食前酒を振る舞われたことに、礼を言っているような素振りだ。
 己の愚かさを悟った若者は、腰の短剣に手を伸ばしたが、獣が跳躍するほうが早かった。
 若者が思わず目をつぶったその時、猛烈な風が吹きつけて、若者を突き転がした。
 一瞬で風は止む。
 うめき声を上げながら若者が起き上がり、目を開いてあたりの様子を探ると、目の前でクナーフが膝をついていた。長剣を杖代わりにしている。濡羽色の外套は引き裂かれている。
 老人の肩越し、投槍が届くくらいの頃合いに、獣が見えた。立ってはいるが、近づいてはこない。
「師匠!?」
 老人を助け起こそうとすると、手がべったりと濡れた。クナーフの体からは脈打つように赤黒い液体が流れ出ている。
 返り血ではないことは、半月の明かりでも分かった。
「この…、バカ弟子が…、よく見ろ、よく見ろ…よ」
 そう言い残して、クナーフは倒れた。墓標であるかのように、月光の色に輝く剣が地面に突き刺さっている。老人の手は剣から離れて、指先は獣へと向けられている。
 ダームダルクの目には、老人の指先に一瞬だけ光が灯ったような気がしたが、蝋燭の炎がゆらめくようにして、まもなく消えた。
 身を守るものを求めて、地面に突き刺された剣を引き抜くと、ダームダルクの脳裏に「よく見ろ」と、いう最後の教えが響いた。
 若者は獣の姿に、じっと目を凝らした。
 禍々しいな音を立てながら、相手が近づいてくる。
 相手は、左の前脚を引きずっている。関節が上手く動かないようだ。どうやら老人は、甲羅の継ぎ目に刃を差し込んだらしい。切っ先についている、この世の生き物のものとは思えない色の血が、ダームダルクの推測を裏付けているようだった。
 獣は、甲羅に縁取られた瞳をダームダルクに向けると、低い唸り声を上げて、口を開いた。血に濡れた牙と舌が見えた。
「わかりました」
 若者は頷くと、手についているクナーフの血で、刀身に魔除けの呪文を書き付けはじめた。なにかを考えたり、思ったりしなくとも、自然と手が動いた。血はまだ暖かかった。
 書きつけた文字は、自ら光を放っている。
 あとは、相手をじっと見据えて待つだけだ。
 草が風になびく音と、獣が甲羅をこすり合わせる耳障りな音だけが、荒野に響き渡る。
 十分な間合いに達したとみたのだろう、獣は双眸に異様な光をたたえて若者に飛びかかった。
 相手の動きに応えるかのように、ダームダルクも地面を蹴ると、長剣を獣の口へと突きこんだ。
 二つの影が一つになり、再び二つに別れた。
 動くのは、折れた剣を提げる人の影だけだった。
 流星が一つ、現れて消えた。

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