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流転

最近、会話について考えることがよくある。私は人との会話が死ぬほど苦手で、会話を始めることも続けることも苦手だ。職業柄、人と話さなければならない瞬間が多いけれど9割はうまくいかない。全く知らない人間を知る時の踏み込み方がまったく分からない。

私自身、知らない人間に踏み込まれるのが苦手なタイプだからかもしれない。美容院ではできるだけ放っておいてほしいし、バーでも放っておいてほしい。人に興味を持てない。「仕事は何をしているのか?」「今日は休みなのか?」「趣味は何か?」等、まったく知らない人間に聞いて良いのかどうかの空気感を読み取れない。普段は比較的空気を読む方だが、そのスタートがどうにも難しい。

そしてそのことが、人間として生きるうえでの大変な欠落に思えて泣きたくなる時がある。なぜ私はこんなことができないのだろう。なぜ私はこんな気持ちになるのだろう、と。どう努力をして良いのか分からず、そして努力も本当はしたくなく、それが更にまた私の思う自分自身の人間としての価値を暴落させる。なぜだろう。そんなことができなくても生きているだけで素晴らしいはずなのに。

しかしそれらの根本的な理由はわかっている。私の性格の悪さだ。自分でも理解している。それがよいことなんて今になってみれば一つもない。創作などに昇華できたらそれは価値があるだろうが、今の私はそのようなこともない。ただこうして、たまに文字を打つだけだ。なんの価値もなければなんの意味もない。ただのゴミのような感情だ。なんて情けない。どんな人間よりも価値がないのに、なんて。そんな風に思っては泣きたくなる。ならそこから脱却するべく努力をするべきなのに、今の私はそれすらできない。いや、していない。やはりゴミだ。

一体こんな私に何が許されるのだろう。そんな気分になってくる。ただ生きていくということすらままならない。人間として生まれてくるにはどう考えても早すぎた。今日までずっとそう思っている。前世で私はどんな徳を積んで人間になったのだろう。こんなことなら人間なんかじゃない方が良かったのではないか?と思わずにはいられない。

しかしもう30年も人間としてこの世を歩いてしまった。今回は大した徳も積めないまま、あっという間に30年だ。苦しい、とても苦しい。

こんな気持ちになるサイクル、きっともうすぐ馬鹿馬鹿しいと思える。それまで静かに、俯いて淡々とまた歩く。自分で自分を許さないまま、ずっと歩いていく。いつか私を大切にしてくれた人たちへ何かを返せるような人間になれるよう、なんとか歩いていく。死んだ方がマシかもしれないけれど、歩いていく。前世で徳を積んだ自分に謝りながら。来世のことを考えながら。

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