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初見殺しの街 〜ニューヨーク回想記②〜

ニューヨークは初見殺しの街だ。

初めての人には絶対に予測できんようなことが頻繁に起こり、慣れるまではかなりストレスが溜まるだろう。

その最たるものが地下鉄で、なんかニューヨークといえば地下鉄が名物であり市民に愛されてるとか誇りであるとかのイメージがあるかもしれないが、住んでいる人に聞くと「ファック」とのことだった。

話に聞いただけで真偽は確かめてないけど1930年代のシステムを未だに使っているらしく、線路の合流地点の切り替えや連絡などは機械化されていないのだそう。

そのせいか、各停のはずが5駅以上も止まらずに走り続けて見知らぬ駅まで運ばれたり、知らぬ間に路線が変わって違う方向に進み出したり、酷いときはいきなり逆走して戻るとか、なんかもう冗談のような動き方をすることがある。

もちろん異変が起こるときは車内放送でアナウンスされるが、絶望的に音質が悪く早口なので英語素人にはまず聞き取れない。周りの人に直接聞くか、その余裕がなければ周囲の反応を観察して乗客の半数ぐらいが不満そうな感じで降りて行ったりなどしたら「あっ何か起きたな」と推測して一緒に降りるとか、そういう切ない苦労をしなくてはならない。

車両によっては電光掲示板に次の駅名が表示されないことも普通にある。そのくせ「この電車はA線です」とかのどうでもいい表示は飄々と流れ続けていて、その気の利かなさには圧倒されるばかりだ。

しかし仮に駅名が表示されていたとしても、不思議なことに間違えまくってしまう。

駅の名前は、通りや交差点、あるいは目立つ建物などの名前から付けられていることが多い。例えばブルックリンには「Atlantic Ave. Barclays Center」という駅がある。これすなわち「アトランティック大通り・バークレーセンター」ということだ。

名前が長いので駅の柱とかには駅名の一部だけが表示されたり、略称で表示されたりする。

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手前の柱では「Barlays Center」が省略されている。けどそれはいい。

恐ろしいのが奥の柱にある「Pacific Street」である。

誤表示かと思いきや、そうではない。Barclays Centerは、Atlantic AvenueとPacific Streetの交差点に位置している。

従って、本来の駅名には無いにも関わらず、こうして堂々とPacific Streetが表示されているわけだ。

しかし初見の人間が車内の窓から「Pacific Street」と書かれているのを見たならば、「あら? 次かな」などと思い違いをして乗り過ごすに違いない。事実、私は何度かそれをやってしまった。

なんといえばいいのか、この街の人々はどうも駅名を固有名として覚えているわけではなく、「その交差点にある駅」として認識しているようなのだ。例えるなら新宿駅を「甲州街道と明治通りの交差点らへんにある駅」と捉えているような。

同じことはバスにも言える。

バスも電車と同様、次のバス停が表示されない車両が多い。そのときは皆さん、外の風景を見ながら適当に「この辺やな」という感じで下車ボタンを押しているように見える。

私は当然のごとく、バスでも乗り過ごしをかましてしまった。

そんなこんなだったので、約束の時間があるときは常に2時間前には着くように行動していた(それでも遅れたことがある)。

今回は交通に限って話をしたが、ほかにも例えば「店で値札がついてない」とか「カード社会と聞いていたのに現金がないと困る」とか、初見殺しの罠は枚挙に暇がない。

世界最先端の都市というのは一面に過ぎず、恐ろしく雑なNYしぐさや、21世紀とは思えない旧時代的なエッセンスがあらゆるところに溢れ返っている。

ちぐはぐな街、ニューヨーク。

そんな街の姿に、私は激しく失望する毎日だった……なんてことは全くなかった。

むしろ、これまでの自分こそ変なものに取り憑かれていたんじゃないかという妙な清々しさすらある。

だってこんだけ不便でも、究極的にはほとんど困らない。

そして人々もこの不便さの上で行動しているせいか、寛容で親切だ。

(もちろんお年寄りや体の不自由な人には大変そうだと思わされる面は多く、決して優しい街ではない。そのぶん困っている人にはすぐに声をかけたり手を貸したりして、インフラの弱さを助け合いで補っている印象がある。話は逸れるけど「欧米のほうが困っている人に親切」みたいな言説の理由の一つには、こうした不便さもあるかもしれない)

便利になればなるほど、他人に触れる機会は減る。

そして便利に慣れれば慣れるほど、思い通りにならなかったり手間がかかったりすることに不寛容になっていく。

それっていいことなのか、どうなのか。

ニューヨークに住んでみて思ったのは、便利に慣れるのと同様に、不便さにも慣れるということ。

そして不便さは心にゆとりを生む。だって自分じゃどうしようもないことで左右されちゃうんだもの。

時間に遅れたって、ちょっとトラブルが起きたって、「しょうがないね」みたいな適当な言い方で許し合えるほうが私には好みだ。「なぜ遅れたのか? 振替輸送を使えば間に合ったはず。そもそも遅延証明書も無いのに信用できるか!」なんて、社会の雰囲気としてタイトすぎやしませんか。

さんざん初見殺しの憂き目に遭ってしまったものの、今はむしろその憎たらしさが恋しい。

愛すべき、気の利かない街よ。その不便さに翻弄される日々がいつかまた訪れることを、私は心待ちにしている。

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