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《意識》という「戦略」

もし、動物が生存するために、何らかの「戦略」を有しているのだとすれば、われわれ人類の「戦略」は、《意識》なのかも知れない。それは、認識を超えた、動物の複雑な機構…

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反動の力学的機序

実は、常識の作用が推移してゆく順序と異なり、何もできないと思うことは、容易く、何かができると思うのは、耐え難い。ゆえに、反動的な反応は、誰にでも起こりうるといえ…

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結合について

言葉が開示する様々な矛盾には、ある論理性が含まれている。それは、何人にも、従属を強いる規則性の相と、重層的に多様な意味を形成している相とに、大まかには、分類でき…

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8年前

瞼を閉じれば、風を感じ、木々の枝のざわめきに気づくと、そこに目を凝らしている。ただ、それだけのことで、ここに居るのだと思える。

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8年前

我々の感覚の総体は、電気信号のミクロコスモスである。そう考えるとすれば、「印象」が、ある種の「回路」を形成しているというのは、容易に思いつくことだろう。そして、それが、無限個あり、編集され、「制度」が構築されているのだと、大まかには、考えられても良いはずである。

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《三幅対》

「経験」によって辿り着くことと、論理的に「把握」すること、との間には、どのような違いがあるのだろうか?それらは、同じ出来事に対して、異なる枠組みから、《思考》し…

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従わせる力

一義的に「正しい」という主張には、強い力が生じている。それを「強制力」と、呼びたくなる。なぜら、多くの場合、それが、「正しい」ためだけに「強いられること」がある…

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8年前
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「価値」を支えていること

もし、「美術市場」に認められ、そこに「登録」されて「作者」になることが、「芸術家」であるのならば、「作者」たちは、そこでの「仕組み」や、「制度」を信じて疑わない…

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見えたとき、聞こえているし、聞こえたら、見えている。その複雑な推移が、波のように訪れているのだ。

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《意識》という「戦略」

《意識》という「戦略」

もし、動物が生存するために、何らかの「戦略」を有しているのだとすれば、われわれ人類の「戦略」は、《意識》なのかも知れない。それは、認識を超えた、動物の複雑な機構に比べて、あまりにも粗雑かつ単純なために、その機構との連携において、様々な「失敗」を繰り返すのである。それを別の言い方にすれば、「経験」ということになる。そのように蓄積された「失敗」を、置換可能な「技術」にするのは言うまでもないだろう。《意

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反動の力学的機序

実は、常識の作用が推移してゆく順序と異なり、何もできないと思うことは、容易く、何かができると思うのは、耐え難い。ゆえに、反動的な反応は、誰にでも起こりうるといえる。こうした、感情は、その場限りでは、正しいかもしれないが、所詮、一過性の適切さであって、その諸効果の行方として、再び、安易に「何もできない」と思うところへと、帰着してしまう。そして、無意識の精密さによるズレが、繰り返しつつ蓄積され、ほぼ完

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結合について

言葉が開示する様々な矛盾には、ある論理性が含まれている。それは、何人にも、従属を強いる規則性の相と、重層的に多様な意味を形成している相とに、大まかには、分類できるだろう。つまり、言葉の機能性(例えば語順など)である、文法にみられる、命令=従属性と、「海」「山」などの指示内容と、その意味との結びつきを、決める音声=音響性とがある。まとめると、ある「言い表し」には、《文法による連結性》および、《音声に

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瞼を閉じれば、風を感じ、木々の枝のざわめきに気づくと、そこに目を凝らしている。ただ、それだけのことで、ここに居るのだと思える。

我々の感覚の総体は、電気信号のミクロコスモスである。そう考えるとすれば、「印象」が、ある種の「回路」を形成しているというのは、容易に思いつくことだろう。そして、それが、無限個あり、編集され、「制度」が構築されているのだと、大まかには、考えられても良いはずである。

《三幅対》

「経験」によって辿り着くことと、論理的に「把握」すること、との間には、どのような違いがあるのだろうか?それらは、同じ出来事に対して、異なる枠組みから、《思考》しているだけなのだろうか?恐らく、ここには、《三幅対のプロトコル》が潜んでいる。《三段論法》《釈迦三尊像》《ヘーゲル、シェリング、ヘルダーリン、》

従わせる力

一義的に「正しい」という主張には、強い力が生じている。それを「強制力」と、呼びたくなる。なぜら、多くの場合、それが、「正しい」ためだけに「強いられること」があるという、謂わば、「正しい」ことのもたらす、フィードバック作用への、配慮が、欠けているのと、同時に、生じた「強制力」のために、そうした欠如に対する、批判の余地が保てなくなり、その主張が「正しい」ことから遠く離れていても、何とも思えなくなるから

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「価値」を支えていること

もし、「美術市場」に認められ、そこに「登録」されて「作者」になることが、「芸術家」であるのならば、「作者」たちは、そこでの「仕組み」や、「制度」を信じて疑わないということである。それでも、「作者」らが、「芸術家」であることを超えて、産み出してしまう、何かが、純粋に斬新な、出来事となるかも知れない。しかし、それが、核心に触れていればいるほど、同じ時代に、生きる人々の、殆ど誰にも、理解されないだろう。

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見えたとき、聞こえているし、聞こえたら、見えている。その複雑な推移が、波のように訪れているのだ。