従わせる力

一義的に「正しい」という主張には、強い力が生じている。それを「強制力」と、呼びたくなる。なぜら、多くの場合、それが、「正しい」ためだけに「強いられること」があるという、謂わば、「正しい」ことのもたらす、フィードバック作用への、配慮が、欠けているのと、同時に、生じた「強制力」のために、そうした欠如に対する、批判の余地が保てなくなり、その主張が「正しい」ことから遠く離れていても、何とも思えなくなるからだ。不思議なことに「正しい」ことには、そうであることによって、変性し「主張」となった挙句、空虚な、道徳的「お題目/命題」として残る、傾向性を孕むのは、避けられない。このような「正しい」ことの「強制力」による「主張」「表現」は、意志された、繊細な表現に宿る、純粋な内容から、常に逸れて、あまりにも杜撰な「姿」になるのは、明らかなのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?