結合について

言葉が開示する様々な矛盾には、ある論理性が含まれている。それは、何人にも、従属を強いる規則性の相と、重層的に多様な意味を形成している相とに、大まかには、分類できるだろう。つまり、言葉の機能性(例えば語順など)である、文法にみられる、命令=従属性と、「海」「山」などの指示内容と、その意味との結びつきを、決める音声=音響性とがある。まとめると、ある「言い表し」には、《文法による連結性》および、《音声による意味内容との呼応》という、結合の形態が大きく異なる形式が、同居していることになる。これらを、一旦、抽出して、意図的に、組み合わせ直す(解釈する)と、様々な《矛盾》を拵えることができる。恐らく、ジョン・ロックは、この半ば、人工的な操作によって、《何も書かれていない板》の可能性を探求していたのだと思われる。言語の発揮する有効性が、前提できる範囲を超えずに、それが構成できるという確信があったはずである。それにしても、「動機」と「理由」の混同が、みられるように思えるのは、なぜだろうか?「理由」が、「理由づけ」によって、明確になるのは、生得的な《白紙状態》を脱しているからだ、という認識論の円環的な展開には、一見、どうしても、それが「自然」に思える仕掛けがある。書き込まれて行くうちに「理由」の使用が可能になる、という論拠は、崩し難いが、同意できない何かが潜んでいる。

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