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私がJICA海外協力隊参加に至るまで

私はこの9月から、JICA海外協力隊としてアフリカ東部に位置するルワンダ共和国という国に派遣となる予定だ。

出国を控えてブルーになっているイミングで私の選択の軌跡を振り返ってみることで、今の気持ちを整理するとともに、派遣への決意を新たにしてみたい。
だからこの記事は、とても内省的でパーソナルな内容になっていることをあらかじめご了承ください。得られるものは何一つありません。自己満足です。それでも読んでくださるのなら、嬉しいです。

学生時代

入学

私は、某内陸県の片田舎に生まれ、育った。社会人になってからは街のほうで一人暮らしをしていたけど、出国を控えた今は、いったん実家へ戻っている。川のせせらぎが聞こえる、四季折々の風が薫る、素敵な場所だ。
そのような自然に囲まれて生まれ育ったので、大学では自然について学びたいと思い、地元の農学部へ進学した。
このころは、まったく海外や国際協力には興味がなかった。

春になれば桜並木がきれい

学びの中で芽生えた意識の変化

私の学科では、自然環境の管理について、生態学や生物学から政策学や経済学まで、様々な側面から広く浅く学ぶことができた。当初、私は地元にあるような豊かな森林や河川の環境に興味があってこの学科に入学したけど、学びを進めていく中で、意識の変化があった。
それは、自然そのものというよりも、自然と共生していく人間へと興味が向いてきたことだ。それがどうしてなのか言語化することは難しいけど、大学というユニバーサルな環境の中で多様性に触れたことはきっかけの一つかもしれない。人へと関心が移っていった。
世界の食糧生産や貧困問題についても学び、世界、特に開発途上国への関心を持つようになったのはこのころだ。とはいえ、この時点ではそれほど強い思いもなく、就職は公務員がいいかな、なんて思っていた。

学生団体での活動

私は環境活動を行う学生団体に所属していた。活動は幅広く、小学生に環境教育を行ったり、屋上の緑化活動に取り組んでいたり、畑で野菜を作ったりしていた。個性的なメンバーに囲まれ、多くの刺激を受けた。今だから言えるけど(本当は今だから言えるなんて言うべきではないんだろうけれど、私の心は強くない…)楽しいこともあったけど、苦しいことのほうが多かった。
最後の1年は団体の代表を務めたけど、みんなをまとめることができず、たくさん迷惑をかけて、いろいろな人を傷つけてしまった。今でもたまに思い出しては、動悸がしてしまうことがある。自分がもっと周りの気持ちを理解できればよかった。自分がもっと周りに頼ることができればよかった。
この経験がその後の私の人生と人格にもたらしたものは計り知れない。
私は確かかに失敗したし、もうどうあがいてもあの経験は美談にはならない。でも、だからこそ今は、優しくありたいと思う。誰かに寄り添える人になりたいと思う。
国際協力に関連して、メンバーには海外ボランティアなどに参加している人もいた。それを知って、国際協力は意外と身近にあって、もしかして私にもできるんじゃないか?と思うようになっていた。

ゼミへ配属

私の学科では、3年次からゼミへ配属される。2年後期、ゼミの配属希望を決めるときには、すでに自然への関心が薄れ、もっぱら農村やそこに暮らす農民へと関心が移っていた。また、個性豊かな同級生や先輩とのかかわりの中で、決められたレールの上を歩くんじゃなくで自分の道を歩んでみたいと思う気持ちも強くなっていた。2年生の後半あたりには、海外協力隊のことは意識していた。
そのため、社会学系の研究も行うことができ、かつ海外研究もされているゼミへ希望を出し、無事に配属となった。
このゼミで過ごした2年間で、特に学問的な専門性が身についたわけではない。振り返ってみても、何をしていたのかよくわからない。けれども、恩師と同期メンバーには本当に恵まれた。人生に対するスタンス、といえば抽象的だけど、そんなものはこのゼミで形作られていったと思う。恩師とは今も付き合いが続いている。ルワンダでは連携しながら活動していく予定だ。学生の頃にお世話になった先生と、同じ社会人として対等に活動できるなんて、こんな幸せなことはないと思う。

このころ、スリランカへ一人旅にでたりしていた

新卒でJICA海外協力隊応募

3年生後期になると、みんな就活を始めた。このころ私はすでに海外協力隊へ応募する決意を固めていた。しかし今思えば、その後のキャリアのことなんて一切考えていなかったし、特に深い考えも持てていなかった。とはいえ何もしていなかったわけではなく、みんなが就活をしている間、私は地元の農業法人で農業研修を受講していた。それは農業系の要請に応募するため、経験を積んでおこうを考えたからだ。また、農業系の資格やTOEICも受験したりして、やることはやっていたはずだ。
でも、本当に視野が狭くなっていた。どうして自分は海外協力隊に行きたいのか、何をしたいのか、そんな思いは全くなかった。振り返れば就活から逃げていたのかもしれない。ともあれ一次選考の書類を提出し、結果を待っていた。(海外協力隊の選考は、書類の一次選考と面接の二次選考に分かれています。)
そして、悲劇は起こりました…

どれだけのトマトを収穫したことか…

募集中止でやばやばのやば

私が4回生の頃は、コロナ禍真っ只中で、大学にもいくことができず、授業もオンラインで行われていました。とはいえ、海外協力隊の募集は例年どおり実施されていたので、まさか募集が中止になることはないだろうと思っていました。さらにその頃は謎の自信に満ち溢れており、進路を協力隊一本に絞り、他の企業への就活はまったく行っていませんでした。
忘れることはない。あれは2020年4月15日の朝のことでした。私は農業研修先の農園でスティックブロッコリーなるものを収穫していた。ちなみにこれがスティックブロッコリー。読んで字の如く、スティックのブロッコリー。。。

収穫が遅れてしまい、すでに花が咲いてしまったスティックブロッコリー


その時、JICAより1通の連絡があった。それは、2020年の春募集を中止するとの連絡だった。頭が真っ白になった。それは2つの思いがあったからだ。1つは新卒で海外協力隊に行くという目標が潰えてしまったこと。憧れていただけに、挑戦すらできないことはやはり辛かったし、その後のキャリアプランがすべて崩れてしまった。
そしてもう1つは、就活をまったくしていなかったことだ。就活のやり方すらなにもわからない。ここですぐに動けばよかったんだろうけど、持ち前の現実逃避を発揮して、この事実を飲み込むことができたのは5月に入ってからだった。まず、客観的に考えれば、各国渡航制限を課すような状況の中で、協力隊事業を平常時と同じように行うことなんてできないことは容易にわかったはずだ。なのに何も考えていなかったんです…
ひとまず大学の先生に相談し、今後の方針を考え始めた。

なんとか就職先を決める

私には2つの選択肢があった。(内定をいただけたら)就職するか、院進するかだ。
初めは院進しようと思っていた。だって就活なんてやったことないし、自分が何をしたいかもよくわかっていなかった。それなら院進して、院卒の段階で海外協力隊に行けばいいのでは?と考えたからだ。
しかし修士課程の2年間でコロナ禍が治るのだろうか、院まで行ったらもう引き返せない。そんな懸念も頭にはあった。この頃、漠然とゆくゆくはイギリスで開発学を学びたいと思っていたので、そのまま院進という選択肢は見送ることにした。
結局、先生の紹介で某官公庁へ応募し、なんとか内定をいただいた。でも正直、そこでどんな仕事ができるのかよく分からなかった。面接の時も的外れなことばかり言っていた気がする。
でもこの頃の僕は、募集中止による自暴自棄で逆にメンタルが強くなっていた。私は絶望の果てに無敵状態になることができる。これを"悲しみの果て"あるいは"ネガティブのポジティブ変換"と呼んでいる。
面接もまったく緊張せずにこなすことができた。バキバキの目で大きな声で、訳のわからないことを話していた。面接官が苦笑いしていた。
落ちた時は自転車で日本一周しようと思っていたので、旅程を考えることに夢中になっていた。しかし、ありがたいことに何とか内定をいただくことができた。
こうしてなんとか就職先を得て、大学を卒業した。振り返れば楽しい学生時代だった。同級生や先生方との付き合いは今も続いているし、彼らの活躍に刺激を受けている。特にゼミのメンバーと過ごした2年間で、それまでまじめだった私は汚れきってしまった。自分に正直に生きてもいいんだと、彼らと関わる中で知ることができたから、私は今も、自分なりの道を歩むことができている。

社会人時代

もうこのままここで働こうかと思う

私は社会人になっていた。私の仕事の内容は、農業インフラの整備だ。例えば田んぼに水を引く水路や雨水を貯めるため池を造成したり、修繕したりする仕事だ。大学のゼミも農業農村開発の研究をしていたので、このような農業インフラに関する知識を多少はあった。
幸いにも職場に恵まれて、私は少しずつ仕事にもなれていった。
海外協力隊も農業インフラ関係の要請で派遣となるけど、正直私はガチガチの技術が得意ではないし、技術そのものには興味もない。でも技術の力によって農家の皆さまの生活の向上や農村振興に貢献することができる。技術は手段だ。農家さんの幸せに貢献するための手段として、私も技術を磨いていきたいと思った。
初めの一年目は初めての仕事でなれることに精一杯で、海外協力隊のことは頭の片隅にあったけど、具体的にどう動いていこうなんて考えは特になかった。このままここで働いてもいいと思っていた。

海外協力隊へ応募 農家さんの力になりたい

農業インフラに携わる仕事に就いて、私自身気がついたことがある。それは私は農業と農村、そして農家さん、人のことが大好きだということだ。農家さんというのは、国内外に関わらず、全世界の農家さんだ。だからこのモチベーションは、働く場所に関わらず、仕事を続ける限り途絶えることはないだろうと思えた。そんな仕事に出会えたことは本当にありがたい。
そんな気づきを経て、再び国際協力への意欲が湧いてきた。それは海外だから、というわけではない。ただ、特に灌漑(人工的に畑や田んぼに水を引くこと)の技術は海外でこそより発揮されるのではないかと感じていた。
つまり、国内でも海外でも、私の仕事の本質は変わらない。自分の技術で農家さんに尽くすことだ。モチベーションば変わらない。
その上で、自分の技術は海外の農業農村開発の分野でより生かされるのだと感じた。これは仕事で得た技術と、大学で学んだ世界の水問題などの知識を結びつけて、私なりに考えたことだ。
そうして、社会人3年目のころに、私は海外協力隊に応募する決心をした。
運よく私のスキルにピッタリの要請が出ていたため、そちらの要請を希望し、無事に第一希望で合格することができた。

カンボジア人の農業研修生をコーディネートしたこともあった

今さらブルーだけどもうどうにでもなれ

今さらブルーだけどもうどうにでもなれ
このようにして、海外協力隊の合格をいただき、今は出国に向けて準備を進めている段階だ。でも、持ち前の現実逃避が炸裂して今はひたすらギターを弾いている。私のギターを聴いてくれよ。そろそろ真剣に準備を進めないとまずい。まずい。。
いざ派遣を目の前にして、ブルーになっている。それはルワンダへ行くことに対するブルーではなく、日本を発つことに対するブルーだ。大好きな家族や友人と別れるのがつらい。派遣前訓練も最後の日に泣きすぎてドンびかれていた。
でももう決まっていることだ。どうにでもなれ。
今や、ネガティブのポジティブ変換点に到達した。
でも。ルワンダで現地の人たちと一緒に灌漑に携われることは本当に幸せなことだ。それだけは本心だ。

まとめ

ここまでつらつらと書き連ねて自分で気づいたことは、学生時代と社会人になってからで、自分自身の仕事に対する意識が変化していることだ。
私は決して、海外にこだわっているのではなく、農家さんのために尽くしたい。その思いで選択をしてきた、のかもしれない。
決して自分の能力や才能を振り回したいという気持ちがないわけではないけれど、それでも農家さんの幸せを思う気持ちは本当だ。だからこれからルワンダへ行くことになるけど、決して今までと何かを変えるということはない。農家さんの気持ちに寄り添って、一緒によくなる方法を考えていく。そのための手段が技術や知識だ。
その上で、ルワンダで出会えるであろう未知の風景や匂いや食べ物、そして現地の人たちとそこに根ざす文化に触れられることは本当にワクワクする。そういったものに触れたとき、自分がどのように変化するのかということにもワクワクする。
ルワンダへ行っても、変わらない情熱を持ち続けたい。

お読みいただきありがとうございました!

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